だから、もっと人殺しの顔をしろ

このエントリーのイメージテーマソング
『マリリン・モンロー・ノー・リターン』野坂昭如

啓蒙の話ではありません

町内会長の男性(62)は「説明もないまま突然ケアホームを隣に建てられると、土地を買った若い住民の人生が台無しになる。彼らを守るため、どうしても阻止する」と主張する。

http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20101208/news20101208221.html

 これは人権意識の低さ、無知、因襲、啓蒙の不十分さの話ではないと思います。
 これは今まさに起きはじめ、あらわになりつつある話、これからの話ではないでしょうか。

 もう、気づいたでしょうか。君らが放り込まれたこの状況というのは、沈みかけた船で救命艇を奪い合う、まさにそんなときなのです。あるいは、大飢饉におそわれたり、遭難したりして、食料が底をつき、いったい誰が先に死んで誰がその死肉を食うか、また、いったい誰と誰が組んで誰を殺しその肉を食うか、そんな状況なのです。君らに利用価値があるうちはいくらかの残飯を与えられるが、役に立たなければ潰されるだけです。

 今の日本はだいたいこのようなものです。だから、この件も死肉の奪いあいがあらわになっただけでしょう。べつに、この地区の、この人だから出てきた話ではありません。どこにでもある殺し合いの話が、たまたまこのようになって出てきただけにすぎません。たとえこの話が、この記事で述べられているだけのことではなくとも、あるいはまったくの嘘っぱちでも、このような話はどこでもあるでしょうし、今後もありつづけるでしょう。
 ゆえに、発言の主が「町内会長の男性(62)」だろうが、「土地を買った若い住民」だろうが、そんなことは関係ありません。町内会長が自分の意見を誰かにアウトソーシングしていようがなんだろうが、微小な違いでしかありません。どうであれ、私有財産の土地を持つものがいる、土地を持つものが怯えているということでしかありません。

▽地区の資産価値が下がる


 啓蒙の話ではありません。
 土地を持つ人間は、怯えているのです。たとえば、土地と家を買った人間が、勤め先を解雇されるなり、勤め先が倒産するなり、事業に失敗するなどしたとき、ローンを払いきれなくなったとき、いったい土地と家をどれだけの値段で売れるのか。これの価値が低ければ、リスタートに余裕がなければ、彼は、彼女は、職にありつけないまま路上に放り出されるか、人格が破壊されるような悲惨な職にしかありつけません。もちろん、蓄えによってつかの間の猶予があったところで、職にありつけないかもしれないし、人格が破壊されるような悲惨な職にしかありつけないかもしれません。しかし、その可能性を少しでも回避できるなら、手を打ちたいに決まっている。
 家と土地も手に入れた人間にとって、想像するだにおそろしい話です。人間、死にたくもないし、人格を破壊されるような目にはあいたくありません。「資産価値が下がる」とはそういうことにほかなりません。そして、この言葉が、このような新聞記事で出てきたところがすごい。もう、半ば人殺しの顔をしている。悪くない。これを啓蒙でどうにかしようというのならば、啓蒙というのは悪質な洗脳のことを指す言葉なのでしょう。
 一方で、障害者施設を欲する人間にとってみても、それは同じことにほかなりません。わたくしごとを述べれば、自分も家族に重度の障害者がいて、施設の世話になっていました。また、現在進行形で世話になっています。詳細は言えませんが、たとえば彼の世話を引き受けられる余裕など、とくに一家離散後のわれわれの誰にもありません。もし、それでもどうにかしなければならないとなれば、やはりわれわれの誰かは死ぬしかありません。もし、ある施設の建設の成否が自分の生活に直結すれば、その付近に生きる家と土地を持つような人間の人生設計やリスクヘッジなど知った話ではありません。ちなみに言っておきますが、私は自分の家族もあまり愛していません。大切なのは自分の生活でしかありません。
 言っておきますが、この記事にはお化粧も、予定調和もありません。いつものように、人間のふりをしていません。私は人殺しの顔をして書いている。だから、さらに話を広げてしまうとすれば、私にはこの記事の町内会長の男性(62)のように持ち家も土地もありませんし、おおよそ年収200万円程度の人間に過ぎませんが、私も失いたくないし、私のこの生活が成り立つためであれば、どこかの誰かが職を失ったり、人格が破壊されるほど惨めな目にあったりしようが、知った話ではありません。ましてや、日本であるという程度の理由でこの王侯貴族のような暮らしが成り立つなら、どこかの国で悲惨な児童労働が何百万件行われていようと、知った話ではありません。知った話だとしても、知った話ではありません。せめて、人殺しの顔をしたい。

ボーナスステージの終わり

 私がより安いものを買うたびに、誰かの食事はその分だけ惨めなものになり、私がワンクリックでなにかできるようなったとき、かつてそれらを担っていた何人かの人間は職を失って首を吊る。ワンクリックでなにかできるようにする仕組みを作る人間は少なくていい。もう要らなくなる。人間の価値は日に日に安くなり、人間は不要なものになっている。私は知らず知らずに行ってきて、いまそれに気づいたところで、やはりそれをやめない、やめられない。買い叩かなければ、私は食えない。貧乏人は共食いをするしかない。
 デフレというのはものの値段が下がることかと思っていたが、一番安くなってるのは人間の価値じゃないのか。
 私はこの世界のさらに富めるもの、優秀なもの、大きなものからそのような仕打ちを受けているし、その仕打ちをさらに貧しいもの、劣るもの、小さなものに与える。私は富めるもの、優秀なもの、大きなものを憎悪する、殺意を抱く。それと同じ憎悪や殺意は同時に後ろから、下から私に浴びせかけられる。上等じゃないか、人殺しの顔をしろ、お前も、俺も、俺もあんたも。
 ただ、物事というのはいくらかよくなっていくものですから、憎悪や殺意以外でもどうにかなるようになっている面もあります。今まで、生まれた国の貧しさゆえに世界の底のほうに押し込まれていた人間も、グローバリゼーションとかいうもののおかげで、能力さえあれば上に上に行けるようになってきている。たんに日本人に生まれた程度で自家用車を持っていた人間は、ほんらいそれを有するべき能力のある、どこかの大陸のどこかの人間にとってかわられます。まだまだ不十分でしょうが、確実に上昇のチャンスは増えているし、社会を動かす有能な人間はそれを望んでいます。さきほど人間の価値が下がっていると書いたが、日本人が適正な値段で測られるようになったというだけのことです。
 その結果が、たとえば日本人の若者の就職難、就職氷河期、そんなものにあらわれているのでしょう。それが一過性のものであるとは思えません。そもそも、もう社会にとって有用な人間というのは極少数にすぎません。とくに優秀な人間が機械を製作する機械の設計をして、もう人間は必要ありません。ラッダイト運動の昔から続いてきたことが、ITになって猖獗を極めたのかもしれません。技術進歩、それによって拡大する社会、富、それを追いぬいてしまったのかもしれません。私にはよくわかりませんが、そんな気がします。
 必要のないものを必要とすることで拡大してきて、ついに本当に必要がなくなってしまった。その結果が、「お前の能力に価値はない」、「お前のやっている仕事に価値はない」、「お前の人生や生活も無価値だ」という、日々発せられる数億、数千億のメッセージです。とはいえ、そのメッセージは直接的な表現を避けられてはいますが、結局のところそれだけです。
 ただ、これもある局面、ある場所の、一過性のものといえるかもしれません。今後、まだ機械化(近代化、IT化、なんでもいいが)されていない世界が、だんだん機械化されていくことでしょう。あるいは、日本と同じ道をたどるかもしれません。そして、よく「世界中が先進国の暮らしをするようになったら、資源は足りるのか?」といった試算なされますが、おそらくそうはならず、均されることになるように思えます。特別な富裕層みたいなものは今と変わらず存在するでしょうが、それはべつ(に殲滅する)として、均された世界の水準は、今の日本のボリュームゾーンとでもいうのでしょうか、まあたとえば私ていどの暮らしを下回るでしょう。私ていどの人間が、今この瞬間こうやっているように、私物の32型の液晶テレビに私物のパソコンを映してキーボードを叩くようなことが維持されていては、地球が滅びます。デジカメも、クロスバイクも、月収の半分くらいするイタリア製スポーツサングラスも、部屋を埋め尽くす本も、涼宮ハルヒのフィギュアも、私にとっては身分(=能力)不相応なものでしかありません。私の過分な富の土台となっている日本という国の過度な富。政治と地政学上の幸運、たまたまのボーナスステージ。同一労働同一賃金、費用対効果、それだけの話、それゆえの失墜。

タイタニックで朝食を

 坂の上の雲を目指して進んで高みにいたり、そのあとすごい勢いで坂を下る日本。その、まだ上の方の時点でたまたま乗り合わせて、能力に比例しない過剰な富を得た自分。それはよくわかります。おまえにいわれんでもわかっとる。しかし、だからこそ、手放したくありません。わかっているからこそ、惜しい。貴族に生まれたのに、みすみすその地位を捨てたいと思うのは、よほどの変わり者でしかありません。ただ、無能ものは温かい部屋から追い出されて、惨めな目に遭う。金を稼ぐことに不向きに生まれてきて、努力する性能も有さず、それでいてのうのうと暮らせ時代は終わってしまう。終わりかけている。あるいは、もう終わっていて、とっくに裁きは下っていて、あとは数日後の執行を待つだけです。
 しかし、わかっていたところで、できることなどありません。私より賢く、誠実で、やる気のある何千万人という人間が職を失うか、職にありつけないか、人格を破壊されるような惨めな思いをしている。だから、せいぜい、沈みゆく豪華客船で、無駄にあがかず、船がどんなに傾こうと音楽に耳を傾けながらディナーを楽しむ、それが今の私の生活のすべてにほかなりません。
 スコッチとワイン、どっちにします? スコッチにしましょう、酔いがさめてはいけない。
 紙パックのワインは、最後にとっておきましょう。
 と、そんな敗北主義でいいのでしょうか。なにかできることはないのでしょうか。無能なもの、役に立たないものに、できることはないのでしょうか。もし、あるとすれば、有能な人間に釘をさしておくくらいのことしかありません。釘をさすといっても、もちろん本当に脳天に自動釘打ち機で釘を打ち込むといった類の話にほかなりません。いくら有能であっても、金属バットを頭にフルスイングすれば死ぬ、そんな現実を忘れないでおくことが肝要でしょう。もう、そのくらいしか残されていません。排外主義、反知性主義的態度などでは生ぬるい。そうでもしなければ、有能な人間は「百姓が貴族の目を見たら死ぬ」くらいのことをわれわれに信じこませて、身を隠します。あるいは、自己責任だのたましいの良し悪しだのなんだのということで、結局、生まれの能力差について都合のいいことを言って言い逃れます。
 ただ暴力のみが担保です。お前のガキの安全と俺の飯はセットだ、と。能力のある人間が、ない人間をせせら笑ったり、あるいは同情しているうちに、気づかせてやる必要がある。「そういうことをする人間が出てくるかもしれませんよ?」、否、「俺がやるかもしれません」。
 ある人間が宅間守みたいになるのは、水が油になるということではありません。水がお湯に、あるいはお湯が水になるようなものでしかありません。
 言うまでもありませんが、私が標的になりそうであれば、頭にヘルメットをかぶって頭部を守りますし、適当な美辞麗句とおためごかしで暴力を予防しようとするでしょう。いくらでも卑劣になれますし、嘘も簡単につけるでしょう。
 でも、できることなら本当は人を傷つけたくなんかないのです。
 ただ、あまりにも日本の現状が悲惨で、あえて身を切るような思いで極論を書いて、みんなに気づいてもらいたかった。考えてもらいたかった。それだけなのです。
 (こんな具合に)

最後の希望

 パンドラの箱ではありませんが、最後に希望あることを述べます。
 話は冒頭の話題に近いが、私にも望みはある。それは福祉の充実です。私の無能に見合った世界水準に落とされる以外にないならば、それならばクッションつきの受け皿がほしい。具体的にいえば、たとえば寿町のようなドヤ街が横浜市中区全域にひろがるということ。そして、小中学校の数くらい、ここそこに刑務所ができること、この二つです。居場所の問題にほかなりません。今後、人口減少で田舎のほうから膨大な数の空き家ができるというので、そこを不法占拠して、そのまま放っておかれるというのもよさそうですが、それもなかなか難しいでしょう。だからこそ、せめて貧民街と刑務所の充実を。どのみち、一握りの金持ちしかまともな住宅に住めなくなるのであれば、最初から貧民用の小屋を(もっとも、今、私が暮らしている小屋は充分に貧民用なのですが)。あるいは、収容限度を超えているという理由で追い返されてはたまらないので、たくさんの刑務所を。これらの建設に反対するものは、私の敵だ。
 ……このごろ私は、知り合いの家族、親戚、そういったレベルで失業、就職難の話をよく聞くようになって、いよいよ参ってきている。俺の食い扶持もあやしくなっている。その割に、世の中が取り繕われていて、さらに参る。人殺しであふれているのに、おためごかしばかりが目につく。ラーメンは獣臭い。俺は毎朝つぶやく、もっと人殺しの顔をしろ、もっと人殺しの顔をしろ。
 夜はといえばタクマ濃度をアルコール濃度で薄めようとしている。今もだ。
 このていどの益体のない愚痴で済みますように、
 私がいくらかこの世界に愛着のあるうちに死にますように。

 (こんな具合に)

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