これが梅雨の天気だと思わせるような一日中室内は蒸し暑く、外気は冷たい。雨は降ったりやんだりで、外出のチャンスを一日中うかがっているという、なんか、普通に主婦している。
夕方、それでも少し晴れ間が出て、私と同じように狭い室内で悶々としているのか、相棒のわんこが「行こうぜぃ!ごっどまー。」と、外へ誘い出そうと躍起になっていた。よしきた、がってん!調子よくウオーキングに出た。
気持ちがいい。
快適にわんこは飛ばす。私は、老骨に鞭打つように拍車をかけて早歩きがやっと。
帰り道、家の近くの近くの手長神社には子どもやお爺様達が集まって、何やら人で賑わっていた。
そうか、七夕のお祭りだった、今日は。空はどんより厚い雲で覆われているが、その上で今夜はあの人達が年に一度出会うのだね・:*:・(*´∀`*)
青山レルマの「そばにいるね」を聞きながら、今日のレッスンの事を思い出していた。
この若いシンガーに心の中を見透かされたような詩が延々と続く。
嗚呼。
多くはは望まなし、現実を変えることはできないこともわかっている。だからか、片方で満たされたいといつも願ってしまう。
]]>以下のTweetに反応。
“僕は内田さん派ですね。RT @BYRONYUKI: 必読!!! 情報をピックアップする物差しは受信側にある。RT @JETSET_CEO これ子飼さんが完全に論破してたような→ http://bit.ly/qo4gAs RT @tsudahttp://htn.to/bFAjDh”
RT by finalvent from SimplyTweet
内田先生のブログエントリーのタイトルを受けて、言論の自由と、人が公共でどうあったらよいかという問題提起も含んでいる部分として「根拠を示さない断定や、非論理的な推論や、内輪の隠語の濫用や、呪詛や罵倒は、それ自体に問題があるというより(問題はあるが)、それを差し出す「場」に対する敬意の欠如ゆえに「言論の自由」に対する侵害として退けられなければならないのである。」という言及がある。
子飼氏の主張は、「発言の劣化」そのものについてではなく、「言いたい事を言わせる者だけが、言いたい事を言えるのだ」にありそうだ。ここで、論点が噛み合わない。
この「言いたい」の部分に、「人が公共でどうあったらよいか」という内田先生の文脈を付け足すと道理が通る。
もし、子飼氏の主張する「言いたいこと」が、何を言っても自由であるという考え方の基に成り立っているとすれば、言い方を変えれば、「何を言ってもよい」となるのでは?
公共の場では、それでは無秩序になる。例えば、子飼氏の文脈を借りると、「何でも言わせたくない者は、言いたいことを差し控える」となる。これが変だと思わなければ話しにならないが、言論の自由とは違う文脈であると思う。
どちらかというと、目には目を、歯に歯をの部類。
両ブログを何度か読んで、子飼氏の反論の論点は、内田先生のタイトルの文脈とは違うという結論に達した。