見る目、聞く耳/アルチンボルド展を観て

ウリッセ・アルドロヴァンディという16世紀のイタリア・ボローニャで生まれ育った有名な博物学者がいる。1522年に生まれ、1605年に没している。
アルドロヴァンディが有名なのは、自身がイタリア各地で採集した植物を中心として、めずらしい動物や鉱物の膨大な数の標本を集めたミュージアムを開設し、そこに国内外から多くの博物学者が訪問したからだ。


アルドロヴァンディの“Monstrorum historia”のなかの人面鳥の図版。


アルドロヴァンディはミュージアムに彼自身が学問的に価値があると捉えた様々な品を集めただけでなく、自らの蒐集品を元に動植物誌の編纂を試みた。そのため、多くの画家に収蔵品を素描させているのだが、その中にはドラゴンや人面鳥などが当たり前のように混ざっている。

これは現代から見れば非科学的で、とても学問的には思えないのだけれど、それがおかしく思えるのは、当時はまだ発見されていない現代の枠組みから見るせいだ。現代から見ればおかしくても、その枠組み自体がない時代においては、おかしいのか立派な意味があることなのかさえ判断できなかったのだということを忘れてはいけない。

とにかく、生物が何もないところから生まれてくるというアリストテレス由来の自然発生説が信じられていたような時代だったのだ。
化石でさえも石から生まれるものと思われていたし、そもそも生物種の整理の仕方が確立されるには、200年近く後の18世紀のカール・フォン・リンネの分類学を待たねばならなかった。そのリンネの分類学さえも、まだダーウィンによる進化の概念がなかったがゆえに形態の類似異同によるものだったわけで、16世紀のアルドロヴァンディの時代に、何らかの生物の奇形であったと思われるドラゴンや人面鳥が見つかったとして、それが個別の種だと考えたとしてもそれほどおかしなことではないだろう。

16世紀にはじまったハンズオン重視の学問姿勢

ところで、この人面鳥の図版が掲載されているアルドロヴァンディの動植物誌は“Monstrorum historia”『怪物誌』というのだが、この書物には、下の図版のような、実在した多毛症の親子ゴンザレス一家の図版が掲載されている。


アルドロヴァンディの“Monstrorum historia”のなかの、多毛症のゴンザレス一家を描いた絵。


ゴンザレス一家は、まさにこの時代を象徴する博物学的な蒐集品なのである。
フランシス・ベーコン(1561-1626)流の経験主義的な学問姿勢(今風にいえばハンズオンを大事にする実践的学問姿勢か)が力をもっていく中で、アルドロヴァンディらの博物学的ミュージアム、それにきわめて近いものとしての王侯貴族らによる珍品貴物を集めた「驚異の部屋」などの自然、人口の区別を問わない蒐集ブームもあったわけだが、ゴンザレス一家のような多毛症の人や小人症の人なども蒐集対象となっていた時代である。

アルドロヴァンディとアルチンボルド

好奇心が学問的な観点で、このように直接的に蒐集行為に結びついていた時代を生きたもうひとりの重要人物こそが、この記事の主役・マニエリスム絵画を代表する画家ジュゼッペ・アルチンボルド(1527-1593)である。
前からこのブログでは何度も登場させてきた画家だが、今回、上野の国立西洋美術館で開催されているアルチンボルド展を観てきたので、あらためて、そこで感じたことを踏まえて書こうと思った。

生没年をみてわかる通り、完全にアルドロヴァンディの同時代人で、実際、アルチンボルドが描いた動物の絵を元にした図版がアルドロヴァンディの動植物誌に掲載されていたりする。
例えば、このアルチンボルドが描いた"Blackbuck"を参考に、アルドロヴァンディは別の画家に自身の本用の図版を描かせている。


ジュゼッペ・アルチンボルド "Blackbuck"


いくらハンズオン隆盛の時代で、その姿勢に熱心で、さまざまな動植物の実物をサンプルとして集めたアルドロヴァンディとはいえ、すべてを実際に集めることはできない。集められないものは、こうした形で描かれた絵の実物を手に入れるか、それを元に別の画家に描かせるかが必要だった。写真の発明など、まだ遠い先なのだから、それが最善の策だろう。

アルチンボルドの博物学的視点

しかし、アルチンボルドといえば、そうした絵以上に、有名なのは、次のような「寄せ絵」だ。


ジュゼッペ・アルチンボルド「冬」(ルーブル美術館)


この絵は、四季という4枚シリーズのうちの1作品で「冬」を表現したもの。
この絵は他の春、夏、秋と4枚セットで、パリのルーブル美術館に所蔵されている。
今回のカタログなどにも「冬」が使われているが、実はこれはルーブルのものとは別セットの4枚で、ルーブルのものより1回りほど大きいものだ。

そういう細かいことは良いとして、見てわかる通り、さまざまな植物の組み合わせで人物の横顔が表現されている。前回書いたような意味でキメラ的複合物を成している。

別の例をみると、今回の出展作でもある「四季」とならぶ連作「四大元素」のうちの1枚は、たくさんの哺乳類が寄せ集められて、同じく人の横顔が表現されている。


ジュゼッペ・アルチンボルド「大地」(ウィーン美術史美術館)


上の画像では小さくて確認しにくいが、実はこの「大地」のなかには、先の"Blackbuck"がいる。
つまり、これらの絵は単に、植物や動物を使って人の顔を描いてみようという画家の酔狂な遊びだっただけではなく、アルドロヴァンディをはじめとする同時代の博物学者や王侯貴族やミュージアムやら「驚異の部屋」などに珍品貴物を集めたものの、絵画版、二次元メディア版としても捉えられる。
ある意味、18世紀啓蒙の時代の百科全書の流行に先立つものだと考えられるのだ。

目があるから見えるわけではない。見る目は育てる必要がある

実際、展覧会で紹介されたアルチンボルドの類似の作品を描いた画家たちの作品をみると、アルチンボルドの博物学的視点が際立つ。

アルチンボルドの作品は、近くでみても、先の"Blackbuck"が博物学の書物の図版として掲載されてもよいほど、博物学的な観察眼をも満たすクオリティで描かれているが、残念ながらアルチンボルドに触発されて「寄せ絵」を描いた画家たちの作品はそうではない。動植物の寄せ集めで、人の顔などを構成することだけが目的になってしまっていて、個別の動植物の観察〜表現クオリティは低いし、その上、寄せ絵としての完成度もアルドロヴァンディにはるかに及ばない。

何年も前に書いた「月のクレーターは望遠鏡があったからといって見えるわけではない(想像力がなければ見えない)」という記事で、ガリレオ・ガリレイによる月面クレーターの発見は単に望遠鏡というツールの発明によるものではなく、ガリレオ自身の観察眼があったからこそで、同時期に同じように望遠鏡で月を観察していた多くの人が月はクレーターなどないツルツルの表面をしていると信じ続けていたということを紹介した。

結局、このガリレイの例にしても、アルドロヴァンディと他の画家との差にしても、前回の「知力とは、わからないことをどれだけ考えられるかという度合い」で書いた、
何かに違和感を感じた時、それがなぜ生じているのかを考えずに、放っておかないこと。自分のなかの違和感の相手をちゃんとしてあげて、その違和感が生じている理由をちゃんと言葉にしてあげること。
それが何かを新しく「わかる」ようになるための基本姿勢だと思う。

ということにつながる話なんだと思う。



目があるから見えるわけではない。耳があるから聞けるわけではない。

見る目も、聞く耳も、アルドロヴァンディやアルチンボルドの時代の人がまさにそうであったように、未知のものをなんとか理解しようとハンズオンで見たり聞いたりすることを理解につなげようとする具体的な努力を繰り返すからこそ、育つものなんだと思う。

それは単なる視力や聴力ではなく、当然すぎるくらい、知ろうとする力、自分の考え・解釈に落としこむ力と密接に関係している。

そして、それは育てるものである。

記号ばかりを見ない、キーワードばかり聞かない

僕らが、アルドロヴァンディやアルチンボルドらのルネサンス期の人々に学ぶとしたら、いかに既存の知識にふりまわされずに、現実そのものをありのままに見ているか、聞いているかということを自分たちに常に問い続ける姿勢だろう。

アルドロヴァンディら、ルネサンス期イタリアの蒐集家たちの活動を研究した『自然の占有』の著者ポーラ・フィンドレンはまさにこう指摘している。
実際に博物学の形成に多大な貢献をしたにもかかわらず、アルドロヴァンディは結局のところ、新たなアリストテレス的カテゴリーの中に世界の全被造物を包摂することはできなかったし、プリニウスの『博物誌』を完成させようとして計画された事象-蒐集のプロセスを最後まで成し遂げることもできなかった。自然の事物の量はたしかに増大したが、理解の質はより深まったであろうか。
ポーラ・フィンドレン『自然の占有』

結局、アルドロヴァンディはベーコン流の経験主義的な方法に立ちながらも、ベーコンがそれにとって代わるものとして提唱した帰納法的姿勢になりきれず、アリストテレス的な演繹法的な知の範疇にとどまってしまったのだ。
イタリアの博物学者たちは、経験は知識の必要不可欠な部分であるにもかかわらずしばしば過小評価されてきた、というベーコンの見解には同意したかもしれないが、古代の典拠=権威を棄却しようとする彼の態度は認めなかったであろう。アルドロヴァンディやキルヒャーのような蒐集家は、自分たちの活動を、アリストテレスやその後継者たちの仕事を実現/拡充させるものであると理解していた。彼らにとって、経験は、典拠=権威と競合するのではなくて、むしろそれを補完したかめるものであった。
ポーラ・フィンドレン『自然の占有』

そもそも、こうした考えで臨んでいたのだとしたら結果は仕方がないところなのだろう。

さらにもうひとつ問題があった。
ルネサンスの博物学者が感覚情報すべてに等しい比重を与えていたのに対して、彼らの後継者たちは、自然の研究における視覚の役割を優先させるようになっていく。たとえば、アカデミア・デイ・リンチェイの会員たちは、解剖学研究において顕微鏡が重大な役割を占めるようになるにつれて、ほかの研究記述に比して、次第に対象の視覚的特徴に多くの紙幅を割くようになったのである。
ポーラ・フィンドレン『自然の占有』

視覚を重視することで、アルドロヴァンディが陥ったような古代の書物の権威に引きずられすぎることは少なくなったものの、逆に、このような問題も生じたのだ。
視覚が重要視されるようになったのは、博物学が宮廷文化の中でその存在を拡大していたことを反映している。実験の実演は、かつてのオブジェと親密な関係を結ぶことで手に入れることができる個人的な啓示という側面が弱くなり、いまや現象そのものと接触をもたない聴衆を説得する技工という側面が強くなっていった。
ポーラ・フィンドレン『自然の占有』

アルチンボルドが神聖ローマ帝国のプラハの宮廷画家として、その画業を行ったように、視覚表現の技術は宮廷文化とよりいっそう結びついていくことで「オブジェと親密な関係を結ぶことで手に入れることができる個人的な啓示」という面が弱くなり、スペクタクル的な要素が重視されていく。アルチンボルドがプラハを去ったあとも、さまざまな機械、からくりを操る多くの魔術師たちがプラハを一大スペクタクル都市にしていく流れもある。



見る目、聞く耳という観点からいえば、ハンズオン的に見ることを繰り返すのはもちろん知力を鍛える上で大事なのだけれど、見たつもりになる、聞いてるつもりになるという罠があるということだ。

ありがちなのは、元から知っている枠でしか見ない、聞かないこと。
見たことのある記号的なものが見つかったら、聞いたことのあるキーワードが見つかったら、なんとなくわかった気になってしまい、記号やキーワードに隠された未知のものに触れずに済ませてしまうことだ。

とうぜんながら既知のものだけを見聞きし、未知のものは認識の外に追いやるのだから、新しい発見に出会ったり、知識が増えたりするはずもない。

そして、日々、そんなことばかり繰り返せば、未知に触れることがとてつもなくむずかしく不可能なことに感じられて簡単にパニックに陥るようになってしまうだろう。そうなれば、わかりやすい記号やキーワードのパッケージがなければ何も理解し、考えることができない体質になってしまうのではないか。

そういう罠に落ち込まないようにするためにも、安易にわかることばかりに逃げ込み、わからない自分を認めずに済まそうとすることをせず、わかることよりも感じることを優先して日々を生きるようにする必要がある。
この種のコレクションはむしろ、普遍的な知識に到達する道具だったのだ。そしてアルチンボルドが制作した寄せ絵による頭像こそは、驚異の部屋の「哲学」にこれ以上ないぐらいに合致した作品であったのである。その理由は、彼の絵が「奇想天外にしてこの世の珍事」であったからというだけではない。加えて、非常に精妙かつ写実的に描かれた自然の品々、つまり画家が「自然から抜き出した」かのような花や果実が、これらの絵画の本質において、人工と自然の混淆物にしているからであるのだ。
ジュゼッペ・オルミ、ルチーア・トンジョルジ・トマーズィ
「アルチンボルドーー自然、芸術、技巧のはざまで」
アルチンボルド展カタログより

特にこれからよりいっそう自然と人工のもつれがとてつもなくなり、見えない微生物とともに生きる僕らのことを、まっさらな目で考え直す必要がある時代には「人工と自然の混淆物にしている」というアルチンボルドのような眼力は必要不可欠になると思うのだ。

 

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