僕らは、現実から切り離された仮想現実のなかで未来を夢見ているけれど…

マニエリスム期の画家にして建築家であるフェデリコ・ツッカーリ(1542-1609)は、1607年に発表した「絵画、彫刻、建築のイデア」というエッセーの中でディゼーニョ・インテルノ(Disengo Interno)という概念を登場させています(詳しくは「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」参照)。

ディゼーニョ・インテルノは英語で言い換えればインテリアデザイン。
ツッカーリが用いている意味としては「内的構図」であり、心の内側にあるデザイン案ということと理解することができます。



マニエリスム研究で知られるグスタフ・ルネ・ホッケは名著『迷宮としての世界』のなかで、このツッカーリのディゼーニョ・インテルノ(内的構図)がどのように画家・建築家に用いられるのかを次のように示しています。

最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これは要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図〉Disengo Interno である。かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこむことに成功する。
グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』

最初に画家・建築家の内面に、イデア的概念であるディゼーニョ・インテルノが生まれる。先ほど、心の中のデザイン案と言いましたが、まさに建築物のデザインイメージであり、これから描こうとする絵の具体的なアイデアです。画家・建築家は自身の表現技術を用いてその内的イメージを外化し、絵や建築という形で実体化するという流れです。

これはマニエリスムの1つ前の時代にあたるルネサンス期の絵画においては逆でした。ルネサンス期に開発された遠近法による絵画は外界にあるものをたくみに写すこと、つまり外的イメージを遠近法を用いて内面化=抽象化するというものあり、ツッカールのいうディゼーニョ・インテルノの流れとはまさに逆向きの流れです。

しかし、人類の視覚表現やそれにともなう思考の歴史の流れとしては、先に外から内へのルネサンスがあったからこそ、マニエリスムの内から外へが可能になったとみることができると思います。
外にあるものを「対象」として自分から切り離し、一方で「対象」から自由になった主体の内面で見た像として遠近法画を描くスキルを先に手に入れたからこそ、外にある「対象」に左右されずに主体的にイメージを扱うことが可能となり、内面にあるイメージを描くということもできるようになったのだということができます。

それは人類が外の世界の文脈から切り離された自由なバーチュアル空間を内面に獲得した瞬間だったといえるのでしょう。

現実から切り離された仮想現実のなかで僕らは未来を夢見ているけれど…

いま僕らは現実の世界の文脈から切り離されたバーチュアルな世界で思考できる自由を手にしたことで、イマココにある課題から自らを解放してくれるようなソリューションについて考え、それを実際に生み出すことが可能になっています。

僕が仕事で使っているデザイン思考でも、自分(たち)自身の思考のバイアスとなっている自分(たち)自身のメンタルモデルから自分(たち)自身の思考を解放することで、自由な発想でイノベーションを生むアイデアの創出をすることができますが、その際に頭のなかで行なっているのも、現実世界の文脈から内面を自由な状態に切り離すという作業にほかなりません。

高山宏さんによれば、Oxford English Dictionaryに英語としてのdesignが出てくるのは1593年だといいます。
まさに1607年のツッカーリのディゼーニョ・インテルノとほぼ同時期ということになります。
それはデザイン思考の幕開けの時代であったと僕は認識しています。

現世人類がそれ以前のネアンデルタール人と決定的に異なるのが、異なる領域に属する要素同士をつなげる比喩の能力だということはよく言われますが、この比喩の能力も基本的には現実の文脈では別々に存在するものをバーチュアルな空間でつなげてみせる知的作業です。
なので現世人類はもともとこの異種領域をつなげる比喩の力をもっていたわけですが、さらにその力を拡張させる方法として視覚表現を用いて可能にしたのがルネサンス期からマニエリスム期にまたがる時代だったということになるのだと思います。

前回の「映像を見ているとき、僕らは現実が見えなくなっている」という記事では、近代以降、写真や映画などをはじめとする映像表現技術が、僕らを居ながらにして世界のあらゆる場所やあらゆる過去の時間に連れて行ってくれる一方で、足元の「イマココ」から目を逸らさせてしまっていることに関してツラツラと書いてみました。
それが起こったポイントとなる時代がまさにこのルネサンスを経て、マニエリスムが花開くこの16世紀から17世紀へと移る時代であったということができると思います。

僕らは「イマココ」から目をそらし、自分たち自身で自分たち自身の内面に投影した仮想空間で自由に思考するスキルをその時代に手に入れたからこそ、ツッカーリのディゼーニョ・インテルノと同様に自分たち人類が頭のなかで想い描いたイメージを外界に投影したとしかいえない世界で生きるようになりました。それはバーチュアルな空間の現実世界への投影です。

「無理をしない」ということ

現実世界の制約を受けずに自由な思考を展開できるバーチュアルな空間で考えだしたイメージ、デザインを現実世界に投影する。
もちろん、自由な思考が展開できるバーチュアル空間といっても実際には日常の行動様式から自然と刻み込まれたメンタルモデルが自由な発想の展開を阻んでイノベーションの障害になりますし、バーチュアルな空間では実現可能なことも現実世界では物理的制約や経済的制約ですべて可能になるわけでもありません。

先日まで六本木の21_21 DESIGN SIGHTで開催されていた「テマヒマ展〈東北の食と住〉」で展覧会ディレクターをつとめた深澤直人さんが展覧会メッセージとして書いた文のなかに、東北の人になぜこんなテマヒマのかかる手仕事でのものづくりを続けているのかと質問すると「無理をしない」という答えがほぼ共通して返ってきたという話がありましたが、ここで表現された「無理」こそが現実世界から切り離されたバーチュアル空間で思考した結果をふたたび現実世界に持ち込むことなんだろうなと感じます。

現実世界のイマココから極端に(無理に)離れてしまうことを避けること。
そのことで確実に進歩はとまってしまうし、そこにいまさら戻ることは容易ではないのだけれど、ただ、そうした生き方があるというのを忘却してしまいたくはないなと感じます。

右/左という概念も、数や計算の概念ももたない言語

そんなイマココから離れない生き方を想像するにあたっては、ブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの言語と文化ほど、ぴったりなものはありません。
ダニエル・L・エヴェレットという言語人類学者がそのピダハンたちと30年以上も生活をともにして得た、その衝撃的なほど独特な言語と文化を紹介した『ピダハン― 「言語本能」を超える文化と世界観』という本に関しては、以前に「笑い vs. イノベーション」という記事でもすこし取り上げました。

このピダハンの言語は、右や左といった概念や、数や計算という概念、それから「すべての」とか「あらゆる」「それぞれの」といった数量詞もないという驚くべき特徴をもっています。色の名前も存在しないといいます。
もちろん、それを表現することばをもたないということは、そうした概念が思考に用いられることがないということです。つまり、ピダハンの思考空間には、右も左もなければ、何かを数えたり量をはかったりすることもないし、目で見たものの色を認識するということもないのです。

また、それだけでなく多くの民族が持ち合わせているような創世神話に類する伝承ももっていないそうで、日常的に接する精霊はいますが、絶対神や創造神のようなものはもちません。
とうぜん、ピダハン語には書き文字は存在しませんし、文章を書いて言葉を残すという文化も存在しないといいます。

ピダハンの言語と文化についての詳しい特徴はとても興味深いものですのでぜひ本を読んでいただきたいのですが、ここでは著者がその言語や文化の特徴として見出した「ピダハンは自分たちが話している時間の範疇に収まりきることについてのみ言及し、それ以外の時間に関することは言及しない」というピダハンの発話における特徴について取り上げてみようと思います。

直接体験のみを扱う言語

著者は、このピダハンたちの発話を特徴づける、自分たちの「いま」のみを語るという制約を直接体験の法則と呼んでいます。

「直接体験の法則」を生み出すピダハンの言語が受ける制約は、著者によって次のように定義されています。

叙述的ピダハン言語の発話には、発話の時点に直結し、発話者自身、ないし発話者と同時期に生存していた第三者によって直に体験された事柄に関する断言のみが含まれる。

著者は、この直接体験の法則を前提とすれば、ピダハンたちのなかに数や計算などの概念がないことも説明がつくと言っています。

体験の直接性が重んじられることが、それまでの数ヶ月間でわたしの頭のなかや記録したノートに積み重ねられてきたピダハンの特異性や了解しがたい事実の謎を埋めてくれるものだとわたしは信じていた。

数や計算という体験の抽象化が「直接体験に基づく」というルールを破ることになるからです。

数や勘定がないこともこれで説明されるだろう。数とか勘定とは、直接体験とは別次元の普遍化のための技能だからだ。数や計算は定義からして抽象的なものだ。対象を一般化して分類するのだから。だが抽象化は実体験を超え、体験の直接性という文化価値を侵すので、これは言語に現れることが禁じられるということだ。

例えば、森の木々を数えようとすれば、実際には異なる木々を抽象的にタイプ化して分類した上で、実際には異なる木々を同一のものとみなして数えあげることになります。それはつまり現実の森の木々とは異なる、抽象化してバーチュアルに想像のなかに植え直した木々を扱う行為であり、実体験したことを言語化して発話するという直接体験のルールの外にあるものです。
モノの数を数えるのが当たり前になってしまっている僕らは、1本1本異なる木やひとりひとり異なる人間をいっしょくたにして、1本2本…、1人2人…と認識してしまっているのだということを忘れてしまっています。

右や左という概念をもたないことも同じように説明がつきます。
右や左という概念をもたない彼らが、たとえば自分の右手や左手をどう表現するかといえば、彼らが住むエリアを流れる川に対するいまの関係に従い、「手は上流にある」「下流にある」と指し示すのです。これも右や左という普遍的に使える抽象化された概念ではなく、あくまで「イマココ」の文脈から切り離されない自分と川という直接体験の関係を重視した表現なのです。

直接体験の法則がリカージョン(再帰)を禁止する

ピダハンの言語でもうひとつ大きな特徴になっているのが、ほとんどの言語が表現としてもつ再帰表現がないということです。
そのため、1つの文書の中に別の文章が含まれるような表現がなく、「背の高い男性が道にいる」とか「今日持っているのは誕生日に母から買ってもらったカバンだ」などという表現がピダハンの言語にはないということです。

ピダハン語のすみずみに行き渡っている直接体験の原則(IEP)で、ピダハン語に文中分が説明できるのではないだろうか。もう一度関係節を考えてみよう。The man who is tall is on the path(背の高い男性が道にいる)という英語の文は2つの短い文から成っている。主たる部分はThe man is on the path(男性が道にいる)で、埋め込まれている、つまり従属する部分はwho is tall(背が高い)だ。情報のうち未知の新しいもの、言語学者が断言と呼ぶものは、主部分はThe man is on the pathにあり、埋め込まれている文は話し手と聞き手がすでに知っている−両者がともに知っている背の高い男性がいるー既知の古い情報を言い添えて、道にいる男性がどの人物かを聞き手が判断できるように、特定の人物に注意を向ける役割を果たしているにとどまる。こちらは断言ではない。(中略)そこでIEPの原則に従うと、ピダハン語には埋め込まれ文はないと考えられる。IEPが、叙述文は断言だけ含むことができると命じるからだ。

再帰がないピダハン語の表現で仮に「今日持っているのは誕生日に母から買ってもらったカバンだ」ということと同じ内容を表わそうとすれば、「今日はカバンを持っている。母がカバンを買った。同じカバンだ」という表現になるようです。
リカージョンが文法にないことも著者は直接体験の法則から説明できるとしています。

もちろん、そうはいっても文法上、リカージョンの表現がないからといって、ピダハンの話にリカージョンがないことにはなりません。「今日持っているのは誕生日に母から買ってもらったカバンだ」と言わずに、「今日はカバンを持っている。母がカバンを買った。同じカバンだ」という表現をしたとしても、その内容はリカージョンになっているのですから。
また数を数えるためにモノを抽象化=一般化して認識することがないからといって、ピダハンの言語に一般名詞がないというわけでもなく、ピダハンがまったく抽象化による認識を行なっていないというわけでもないようです。ただ、そうした一般化による認識がとても限られた範囲におさまっていて、何より彼らの生きる環境や生き方が言語に制約を与えているということなのです。

村には歴史がなかった

このピダハンの「直接体験の法則」は、東北の人たちの発する「無理をしない」ということをさらに徹底したものであると考えられます。
その「直接体験の法則」はとうぜんながら言語の特徴としてあらわれるだけでなく、生き方そのものにもあらわれています。

ピダハンは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。どれも「いま」に着目し、直接的な体験に集中しているからではないか。

ただ、こうした「いま」を生きる生き方や思考がピダハンたち特有のものかというと、ずっと昔を振り返れば、そうした生き方は世界のあちこちに存在していたということが、次のような折口信夫さんの書いた文章などを読んでも想像することができます。

村には歴史がなかった。過去を考えぬ人たちが、来年・再来年を予想したはずはない。先祖の村々で、あらかじめ考えることのできる時間があるとしたら、作事はじめの初春から穫り納れに至る一年の間であった。
折口信夫「若水の話」『古代研究 1.祭りの発生』所収

ここにあるのは計画も立てないし、遠い昔や将来のことを話さないピダハンの生活や言語とおなじ「いま」だけを見て思考して生きる人びとの姿ではないでしょうか。

もちろん「いま」しか見ないで暮らしてきた人びとのなかにも時間の概念がいずれ生まれてきます。
まずは1つ前の日や年をあらわす「きそ」や「こそ」が生まれたようです。

昨年以前を意味する「こそ」と言ふ語は、昨日以前を示す「きそ」から、後代分化して来たのであつた。後年(アトヽシ)だから、仮字遣ひはおとゝしと、合理論者がきめた一昨年も、ほんとうはさうでない。をとゝしの「をと」には、中に介在するものを越した彼方を意味する「をち」と言ふ語が含まれてゐるのだ。去年の向うになつてゐる前年の義で「彼年(ヲチトシ)」である。
折口信夫「若水の話」『古代研究 1.祭りの発生』所収

ここで注目したいのは、「こそ」や「をち」という言葉をようやくもった人びとにとっての時間のイメージは、いまの僕らが描くタイムラインのように過去から未来へと流れていくようなものではなかったということです。
そのイメージは、1つ隔てて同じものが蘇ってくるような循環的なイメージです。

その1つ隔てて同じ状態がくるという暦のイメージになった考え方は、「祖父と子が同じ者であり、父と孫との生活は繰り返しである」という信仰を元にしているものだろうと折口さんは考えていました。
父と子は違う。けれど、その子は祖父の繰り返しである。それと同じようなことが暦にも拡張され、去年(コソ)と今年(コトシ)が対立される一方で、今年(コトシ)は彼年/一昨年(ヲチトシ)の繰り返しだと考えられたというのです。
それが暦の考え方がたちあがってくる最初の段階であったと折口さんは考えました。

この循環的な暦のイメージにはとうぜん進歩という概念が生じる余地がありません。
もちろん「無理」をする余地もないのが僕らが慣れ親しんだタイムラインという直線で描かれる時間軸とは異なる、円を描くような循環型でイメージされる暦のイメージだったのです。

円環から直線へ、そして、ふたたび「すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである」

その円を描くような循環型でイメージされる「イマココ」を大事にする/「イマココ」に縛られた世界が壊れたのが、無限遠に設定される消失点、対象物、視点との関係を直線で結んで測ることでイメージを描く遠近法から複数の中心をもった楕円のイメージを多用するマニエリスムの時代であったということは単なる偶然ではありません。

容易に組み替えることなどできない運命的な縁によって結ばれた円環世界の共同生活者という関係から、とつぜん、見る主体と見られる客体のような非対称な関係性に追いやられただけでなく、互いの関係を抽象的な距離のみで測られる機械的なものに置き換えられたことで、人間と世界の関係は決定的に変化しました。
同じ時代のイギリス文学の変容を論じたM.H. ニコルソンの著書が『円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」』書評)と題されているのも偶然ではなく、人間が「イマココ」に縛られない新たな視覚表現を手に入れた時代、それまで円環のイメージで考えられた世界は、一気に過去から未来へと機械的に直線的に進んでいく世界のイメージへと変容したのです。
そして、その変容により、それまで学問の進歩を阻んでいた「イマココ」の制約が解け、学問の進歩が加速されたのです。

宇宙的類推によってものを考える習慣は、今日私たちが知っているような科学の発展に、大きな圧力をかけていた。心理学は生理学のなかに組み込まれていた。医学は、医師たちが人体の構造を地球の構造との類推によって説明しようと試みている間中、ずっと停滞していた。同じく地質学も、人々が大地のなかに人間の歩みと歴史を読み込んでいる間、成長を阻まれていた。

もちろん、ルネサンスの遠近法から盛んになった新しい視覚表現による内面世界の外界への投射は、さらにマジックランタン、覗きからくり、写真、映画など、「映像を見ているとき、僕らは現実が見えなくなっている」で言及したような新たな映像表現技術の登場と社会への浸透によって強化されていきます。

こうした映像メディアがもたらした人間に対する影響は、マーシャル・マクルーハンが『メディア論―人間の拡張の諸相』書評はこちら)で「話しことば」「文字」「数」「住宅」「貨幣」「漫画」「新聞」「広告」「自動車」などのメディア(そう、マクルーハンのメディア論は住宅も自動車もメディアとして捉えます)が人類にもたらした影響を考察しつつ、示した「すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである」という考えを念頭に置いて考えると、映像表現技術に特有のものでないこともわかります。

これまでもこのブログでは、マクルーハンのメディア論などで示された思考を参照しながら、映像メディアに限らず、メディアによる拡張が、膨大な過去のアーカイブを積み上げ、おなじように未来に対する展望/計画/期待/不安などを描きあげることで現在をないがしろにする様に関して考察してきました。
約1年前にも「猛スピードで積み重ねられる過去と不確定な未来に板挟みにされてすでに虫の息である現在において、新しさも懐かしさも感じられなくなった社会で僕らはどうしていくべきか?」という記事で取り上げていたりしますし、また、最初の大量生産品である印刷本の登場以前の人類がまだ「イマココ」につなぎとめられていた中世までの時代においては、人間は常に空間の中心に参加しており、それに対して印刷された言葉は均質で連続的な人工空間の上で人間を孤立させるようになったことも同じく1年前の「おしゃべり化する社会のなかで、UIのデザインは人間が離れた場所から目を向けるグラフィカルな視覚重視のものから、人が内部に参加する形でそれを体験する建築的なものへと移行する」という記事で指摘しています。
この思考の延長にあるのが、先日の「映像を見ているとき、僕らは現実が見えなくなっている」という記事でした。

今回あらためてこの記事の構想を考える際に、メディアによる「イマココ」からの解放という人類の機能拡張をいうためには、自分が存在しない空間や時間のイメージに自由にアクセスでき、その時空間で起こる出来事について考えることができるという機能拡張する以前はどうだったのかを考え直してみようと思い、ピダハンの言語や折口信夫さんが描く古代の日本などを思い起こしてみたわけです。
そうすると、あらためて16世紀から17世紀へと移るタイミングが1つのターニングポイントであったことをより認識できました。この転換の前と後ろについてもうすこし詳しくみていくことで、いまふたたび大きな変換点を迎えている社会における生き方を探る手掛かりになるのではないかと思っています。

というわけで、もうすこしこのあたりの自主研究を続けてみようか、と。

 

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