失敗を恐れ、労を嫌って、何を得ようというの?

『失敗学―デザイン工学のパラドクス』のなかで、ヘンリ・ペトロスキは「失敗は重要である。失敗はつねに、事物のデザインについて、成功よりも多くのことを教える」と言っています。

また、デザインを行う上で成功を望むなら、成功にではなく、失敗に学ぶ必要があることを以下のように表現しています。

成功するものはわれわれに、それらが成功したという事実以上のことはほとんど教えてくれない。失敗するものは、デザインの限界を超えたのだということの議論の余地のない証拠である。成功を競うことは失敗の危険をまねく。失敗を研究することはわれわれの成功の機会を増す。明らかに語られることのめったにない単純な原理は、もっとも成功したデザインは失敗に関する最良でもっとも完全な仮定にもとづくデザインであるということだ。

その意味で、僕は失敗することの価値を知らない文化・社会的環境というのは、非常に不幸だと思います。
それはある意味では成功への道を自ら狭めているのですから。

自分の手を汚すことをためらう社会

失敗は重要だという場合、その基本にあるのは自分の手を汚せるかどうかということだと僕は考えます。自分の手を労働、作業で汚しながら、何度も失敗を重ね、そこから学んでいくことこそが大事
もちろん、他人の失敗から学ぶこともできますが、それ以上により多くを学べるのは自らの失敗からでしょう。他人の失敗からは、どこがどう失敗したか、そうなった要因は何かを形式知として知ることは可能ですが、自らの失敗のように経験的な知として得ることはできません。

その意味において、自らの手を汚さない人、自ら作業をすることの労を厭う人、失敗も含めた作業過程を重視せずに答えだけを欲しがる人というのは、いかに成功から遠い存在か

労働の価値を低く見積もる社会

このことこそが「されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない」で引用した、柳宗悦さんが労働の価値を解く次のような言葉につながってきます。

私たちは労働を短縮することによって、幸福を保証しようとすべきではなく、労働に意義を感ずるように事情を転ぜねばならぬ。何故なら労働なき所に、工藝の美はないからである。人間の生活はないからである。
柳宗悦『工藝の道』

また、「用の美:人と喜びを分かつことのたのしさ」で引用した、

人々は美しい作を余暇の賜物と思ってはならぬ。休む暇もなく働かずしてどうして多くを作り、技を練ることができるであろう。汗のない工藝は美のない工藝である。
柳宗悦『工藝の道』

ということとも。

柳さんは、労働の必要性と「多」の美である工藝の美のつよい結びつきを説きます。工藝は多作であるからこそ、美に近づくことができるのだと言います。多作だからこそ、そこには数多くの失敗も含むことができる。多くの失敗があるからこそ成功に近づくこともできる。しかし、柳さんが労働の必要性を説いた昭和2年よりもはるかに現代のほうが労を厭う人は多いでしょう。自分の手を汚さない人が大量にいます。いったい、そこからどんなものが生まれてくるというのでしょうか。

痛い目に遭わずに済ませようというのが間違いのもと

自分の手を汚さず、答えだけを欲しがるということに似た話では『いまなぜ白洲正子なのか』のなかにも見つかります。

贋物をつかまされたり、法外な金額で買わされたり、痛い目に遭わずに骨董を覚えようと思うのが、間違いなのである。
このころ正子は骨董商とのつきあいを聞かれると、
「骨董屋が持ってきたら、まず、全部買っちゃうの。そりゃ、中にはガラクタもあるわよ。だけど、全部買っちゃうの。そうしてると、向こうだって気がとがめるからさ、いいものをもってくるのよ」
と答えるようにしていた

なんとも豪快な話です。

骨董をガラクタも含めて全部買うなんてことは真似できないが(それでも「生活のなかで養われる物を見る眼」で書いたように、現代の器ならとにかく買って使って善し悪しを見抜こうというくらいの行動ならできる)、海のものとも山のものともわからず成功の保証もない作業でもとことん自分でやってみなけりゃ、本当のところなどわかるわけもないという意味では、白洲さんのいうことには共感できます。白洲さんの話とおなじで、そうやって得体の知れない作業も労を厭わずやってれば、本当に何の価値もない作業がどれかの見分けはつくようになってきます。失敗を認めない文化というのは、その意味で個々人の物事を見る目、判断力を著しく劣化させてしまう社会だといえます。

他人の労、答えに至るプロセスに価値を見いだせない

また、もうひとつの問題は、自分の手を汚さない人、作業の労を厭う人は、他人の労に敬意をはらうこともできないという点でしょう。自分の労働にも他人の労働にも価値を見いだせない。そういうプロセスに関心を向けず、答えだけを求める。そういう人には答えまでに到達するにはある程度ステップを踏むことが必要だということも実感できないのかもしれません。それゆえに、現代の創作物の基盤として存在する過去の創作物をも認めることができず、それが生まれてきた歴史にも目を向けることができないのでしょう。

されば工藝の美は伝統の美である。作者自らの力によるものではない。自らに立つ者は貧しさと虚しさに敗れるであろう。よき作を守護するものは、長い長い歴史の背景である。今日まで積み重ねられた伝統の力である。そこにあるのはあの驚くべき幾億年の自然の経過が潜み、そうして幾百代の人間の労作の堆積があるのである。私たちは単独に活きているのではなく、歴史の過去を負うて活きているのである。
柳宗悦『工藝の道』

自分の手も汚すことなく、かつ、自分ひとりで生きているような気にさせる人びとを大量に生み出しているこの文化・社会的風潮というのはいったこの先どこへ向かうことやら。

   


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