「日本の学校から『いじめ自殺』がなくならない根本理由」で福井県の中学校で起きてしまったいじめ自殺事件を分析した、いじめ研究の第一人者・内藤朝雄氏。
このケースでは調査報告書のなかに「発達障害」という語が19ヵ所みられ、大きなポイントとなっている。診断数が急増し発達障害ブームとも言える中、この概念をどう捉えればよいのか。
発達障害という枠組みには、どんなポジティブな側面があり、また問題点があるのか。批判的に考察しながら、新たな枠組みを提案したい。
「発達障害」のストーリーとは?
現在の「発達障害」の第一人者たち、つまり「発達障害」に関して医学生や医師を指導し、著作や学会などで方針を導き啓蒙する精力的な指導者たちの、最大公約数的な基本方針は次のようなものになっている。
(遺伝子の関与が大きく、神経生物学的な基盤を有すると強く推測される)一人ひとりの多様で複線的な発達特性に応じ、生活上の固有の「こまり」に着目し、環境調整を行い、複線的な発達を支援する。
本人を環境に適応するよう単線的な「定型」発達へと変えるのではなく、本人の発達特性にあわせて、環境の側の調整を行うことが好まれる。
例えばコミュニケーションスキルの訓練も、単線的な「定型」発達へと変化させるというよりも、環境ストレスによるダメージを減らすことを目標とし、要求や選択、交渉など自ら環境に働きかけるスキルの獲得が最初の目標とされることが多い。
周囲からの「しつけ」と称する虐待、過剰叱責、いじめなどの、環境ストレスによる破壊的なダメージ(いわゆる二次障害)を防止することも、重要課題の一つである。どうしても環境調整が追いつかない場合に限り、薬を補助的に比較的少量処方する。
感染症などの多くの疾患とはことなり、診断は純粋に生物学的なものではなく、一定の診断基準に基づいて行われる「こまり」に対する環境調整のためのストーリーの処方であるとも言える。
「発達障害」のストーリーは、親や教員からの虐待を減らすよう効果的に組み立てられている。
「発達障害」であるという診断をすることによる有益な効果が生じそうもない場合は、診断をしないとする医師もいる。診断基準は米国精神医学会による DSM-5に準拠することが多い。
「発達障害」のレッテルが虐待保護につながる
まずは、この「発達障害」という枠組みの肯定的な面を挙げよう。
第一に、それは虐待防止のストーリーになる。
従来の人間観では、遺伝的・神経生物学的な側面を強調することは宿命論的な「差別」につながるので、よろしくないと思われてきた。
教育によって、人間はどのようにでも改善できる。すべての人を共通の望ましい方向に教育しなければならない。その役割を担うのが学校である、という考え方が優勢であった。
このような考え方は、一見、人道的に見えるかもしれないが、逆に、学校に合わない人は、しつけ・教育による変化を強いられることを意味した。
親は、どこまでもしつけをして学校に適応するよう子を変えなければならないと思い込む。それは偏執的なこだわりとなり、「子どものため」のしつけにカモフラージュされた憎しみとなり、虐待となった。
また学校でも、教育という名の虐待が際限なく加えられることになる。
それに対し、近年の「発達障害」枠組みでは、次のように親や教員を啓蒙する。
精神科医がこのように親や教員を啓蒙することによって、虐待を減らす効果が生じる。
これまで「障害者」というレッテルを貼られることは、人間以下の存在であるかのようにまなざす不当な差別と、人間を「健常者らしく」つくりかえようとする強制力の対象になることであったし、現在でも、実態は変わらない部分を大きく残している。
「障害者」とされる人々は、もっとも非人道的な虐待被害にあってきた層でもある。
それに対し、現在の精神医学指導層の「発達障害」枠組みは、学校の全体主義環境に合わなくて「こまる」人に(さらには「こまり」そうなタイプの人に、前もって)「発達障害者」(あるいは神経生物学的に「発達障害者」になるリスクが高いタイプ)というレッテルを貼ることで、虐待から保護する戦略を採用している。
児童青年精神医学のリーダーたちは、習俗の残酷が歴史的にしみつけられた「障害者」という古い革袋に、学校の中間集団全体主義習俗から一人ひとりの尊厳と多様性を守る手立てという、新しい酒を注ぎ込んだのだ。
これは、古代ローマの死刑具に神の子を虫のようにはりつけたり、コウモリ傘にミシンをみつくろったりするような、ぞっとするほど斬新なアイデアである。