物語化する科学
平昌五輪カーリング女子日本代表チームの選手たちが、地元北見で市民報告会に臨んだというニュースを見た。選手の一人は、「パフォーマンス以外の部分」に報道が集中したことに対する戸惑いを、涙ぐみながら口にしていた。
日本人研究者がノーベル賞を受賞したときも、同じようなことが起きる。報道は、授賞理由となった研究の中身についてではなく、受賞者の幼少時代や苦労話、妻の内助の功といったエピソードに終始する。
要するに、大半の人々は、科学的成果の正しい理解よりも、その背後にある“物語”を求めているということだ。だからこそ報道する側は、専門用語の解説をなおざりにしてまで、受賞者周辺の美談探しに躍起になる。
そしてそれは、往々にして面白い。科学というのは極めて人間臭い営みであり、そこには一種独特なドラマが隠れている。私自身、それがたまらなく面白いと思うからこそ、科学研究の場を舞台にした小説を書いている。
ただ、近年その傾向が強くなり過ぎているという懸念はある。私たちの中で、小難しい話はすべて、耳触りのよい、わかりやすい“物語”として聞かせてほしいという欲求が肥大化しているような気がするのだ。
こうした“物語”の中には、罠が潜んでいる。科学者や科学的発見にまつわるストーリーを見出すのではなく、科学そのものを物語化する、つまり、科学的事実をある特定の偏った文脈の中で意味付けしようとする目論見が絶えないのだ。
一つの典型が、「ニセ科学」だろう。例えば、「水からの伝言」という有名なニセ科学がある。「ありがとう」「愛」などの言葉を見せた水を凍らせると整った樹枝状の結晶ができ、「ばかやろう」「殺す」といった言葉を見せると崩れた結晶になる。そんな話を写真とともに紹介した本が話題になったのだ。
言葉固有の“波動”や“言霊のエネルギー”が水に情報を転写する、などという説明がなされているが、いかにも「科学っぽい」用語をちりばめただけの与太に過ぎない。それでもこれが、感動を呼ぶ“科学物語”として多くの人々に受け入れられた。
自然現象の説明に都合よくフィクションを混ぜ込んで、一見美しい“物語”に仕立て上げる。理性ではなく感情に訴えかけたことが、成功したわけだ。自然は不思議に満ちているから、そんなこともあって然るべきだろう。難解で味気ない説明よりは、よほど腑に落ちる、と。