2017.01.24

それでも東芝が原子力部門を切れない「特別な事情」

背後に経産省とアメリカの影が見える

銀行も「お手上げ」状態

まるで年中行事のように、年度末決算が近付くと経営危機が露呈するパターンが定着した感のある、あの東芝が、今年も(定石ならばあり得ない)自らの首を絞めかねない誤ったリストラクチャリングを強行する構えだ。

報道によると、その柱は、毎年、巨額の損失を出して東芝を破たんの危機に追い込んできた原子力部門を存続するため、最後の”虎の子”の半導体メモリー部門を分社化、外部からの資本の受け皿にするというものだ。

経営の足を引っ張る不採算部門を整理し、健全な採算部門を残す通常のリストラクチャリングとは正反対で、”自殺行為”に他ならない。

東芝のあまりの迷走ぶりに、表面的には追加融資を真摯に検討するフリをしている主力銀行各行も、筆者には、「政府系金融機関(日本政策投資銀行)の東芝への資本注入策が不調に終わることを望んでいる」と明かす。

そうなれば、主力行が破たんの引き金を引いたとの批判を受けることなく、不良債権化が確実とみられる東芝への追加融資を回避できるからである。

 

それにしても、東芝はなぜ、定石通りの再建策を採れないのか。今週は、背後に横たわっていると囁かれている東芝の深い闇を探ってみよう。

言わずもがなだが、東芝は、歴史ある三井グループの名門企業の一つだ。

創業者は、江戸時代後期から明治にかけて活躍した発明家の田中久重である。久重は幼少時から次々にからくり人形の新しい仕掛けを考案して「からくり儀右衛門」と呼ばれた人物で、精巧な和時計を完成させたり、佐賀藩主・鍋島直正の命を受けて日本最初の蒸気機関車や蒸気船の模型を制作した業績などで知られている。

久重は維新後、東京に移住。電信機を製造して明治政府に納めるようになる。1875年(明治8年)には、銀座に「田中製造所」を創設。同製造所は「芝浦製作所」、「東京芝浦電気」と変遷、今日の「東芝」の礎になった。

東芝が三井グループ入りしたきっかけは、田中製造所時代の1893年(明治26年)に、三井財閥から経営支援を受けたこと。このため、当時の田中製作所は、標章に三井銀行のマークを使用していたという。

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止められない赤字

東芝では、現在の経営危機に繋がる粉飾決算が2015年春に露見、本決算の発表を2カ月以上も延期せざるを得ない前代未聞の事態に陥った。

この年の7月に、歴代の3社長が辞任したものの、事態は一向に収まらず、同年9月には2014年度第3四半期までの6年9ヵ月の間に、税引き前利益で2248億円に及ぶ利益の水増しがあったと過去の決算を大きく修正する不祥事になったのだ。

ところが、それでも事態は収束しなかった。

同年11月になって、東芝が頑なに連結ベースでの減損処理を拒んできた経緯のある米原子力事業子会社ウエスチングハウス(WH)に関し、WH単体では米監査法人に減損処理を迫られて2012、3の2会計年度に合計1600億円の損失処理を実施しながら、その事実をひた隠しにして、上場企業としてのアカウンタビリティ(説明責任)を怠った事実が新たに発覚したからである。

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