人間が機械と引き分けて泣く日が来ようとは・・・
「人間がコンピュータに負けちゃ、だめだよね?」
高校生になったばかりの息子がニュースを見ていてそう問いかけてきたのだけど、どう答えたものだろうか──ある友人からそんなメールが届いたのは、4月19日の夜だった。
親子ともに、将棋についての知識はほとんどない。そして、その息子さんは「人間」を応援するニュアンスでそう言ったのだという。
将棋のプロ棋士が初めてコンピュータに敗れたことは新聞やテレビでも大きく報道されているが、その事実をいったいどう受けとめればよいのか、たしかに将棋を知らない人にはわかりにくいだろう。
煙草を吸いながら、考えた。だが、何本吸っても、しっくりした答えが浮かばなかった。結局は、こんな問題先送りの返信しかできなかった。
「ちょうど明日、電王戦第5局の取材に行くことになってるから、そこで考えてみるよ」
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5人のプロ棋士と5つのコンピュータ将棋ソフトが戦う第2回電王戦は、開幕前から大きな注目を集めていた。だが私は最初、ほとんど興味を持てなかった。プロ棋士がコンピュータに負けるのは「時間の問題」だと思っていたからだ。
すでに昨年の1月、第1回電王戦で米長邦雄が敗れている。引退後とはいえ、米長はひとつの時代を画した大棋士だ。
2007年には、将棋界の最高タイトル「竜王」を保持する渡辺明が戦い、辛勝したものの、「一時は負けを覚悟した」とまで語っている。コンピュータの実力は、もうとっくにプロ棋士と互角と見るべきなのだ。
5局も指せば、1人か2人は負けるに決まってるだろ……いまさら勝負に一喜一憂する意味が見いだせず、周囲の将棋仲間が熱く予想を語るのを、なんとなく鬱陶しくさえ感じていた。
しかし──いざ始まってみると、そんな醒めた目はいやでも見開かされた。
第1局こそ、まだ10代の少年棋士、阿部光瑠四段(18歳)が快勝したものの、続く第2局で、早くも「そのとき」は来た。
コンピュータに敗れた現役プロ棋士第1号となってしまったのは、佐藤慎一四段(30歳)だった。その悄然とうなだれる姿をニコニコ動画の中継で見て、胸をえぐられる思いがした。プロになって初めて着用したという和服が、より痛ましく見えた。
第3局も衝撃的だった。バリバリの若手俊英、船江恒平五段(25歳)は、プロ筋から「彼の1勝だけは堅い」と見られていた。将棋の内容も、途中までは完全に勝っていた。ところが、コンピュータのすさまじい粘りにあって信じられない逆転負けを喫し、無念の第2号となった。
だが、何より異様だったのは第4局である。かつてはタイトルも獲るスター棋士だった塚田泰明九段(48歳)は、目を覆いたくなるような敗勢に陥り、万に一つの希望もない「引き分け狙い」の作戦に出た。
見守る棋士たちから「投了を促すべきではないか」との声まで上がるなか、塚田は「人間の負け越し」を防ぐため泥にまみれて指しつづけ、コンピュータの弱点を突いて「奇跡の引き分け」に持ち込んだ。
局後、「投了は考えなかったか」との記者の質問に答える途中、塚田は感きわまって泣き出した。
プロ棋士が機械と引き分けて泣く日が来ようとは──それは私にかぎらず多くの将棋ファンにとって、敗戦以上のショックだったろう。
4局が終わって、人間側の1勝2敗1引き分け。次々と見せつけられる壮絶な光景に、いま起きていることはまだ全然、「時間の問題」などですまされることではないと感じた。
この五番勝負の意味とは何なのか。いったいプロ棋士たちは何を守るために、何と戦っているのか。何もはっきりしないままに、彼らだけが血を流しているようにも思えた。
押しつぶされそうなプレッシャーを感じつつ、リングへ
4月下旬とは思えない肌寒い朝。どんよりと曇った空と同様、私の頭は混濁していた。
「コンピュータに負けたって、恥ではない」と、将棋プログラムの開発者たちは言う。陸上選手が自動車と競走して負けたって、何も恥ずかしくないでしょう? と。
個人的には、まったく同感である。というより、これはもう受け入れざるをえない現実なのだ。いまだに将棋界に根強く残っている「コンピュータなんかに負けられるか」という風潮のほうが時代錯誤なのだ。
だが、その一方で蘇ってくるのが、冒頭の少年の問いかけだった。もう40年近いファンである私は気づきにくくなっているのかもしれないが、「外の世界」の多くの目には、いまも将棋とは「人間がコンピュータに負けてはいけないもの」と映っているのだろうか。
だとすれば、それはなぜなのだろう。どんな算盤の達人でも、計算の速度と正確さでは電卓にさえかなわないのに。