『知的トレーニングの技術』が、「書くことこそが考えることなのだ」を教えてくれ(てい)た

「朝、まずは書き始めてみる」の源流

evernoteの読み直しをしているなかで、読書整理の途中だったか、『知的トレーニングの技術』が出てきた。改めてぱらぱらながら読み直してみた。やはりこの本には何度も立ち返らないといけないんだなと気付かされることが多い。

例えば、「朝起きて、テーマが漠然としようと何だろうと、まずは書き始めてみる」という習慣。始めてから早、半月くらいが経つ。この習慣はGet Everything Done(マーク・フォースター)に刺激されてやっているんだと感じていたのだったが。

どこかで「こういうオススメ、前も読んだことがあったかな」と思っていたのは覚えている。 それが、『知的トレーニングの技術』だったのだ。いろいろな面で本当に参考になる情報・考え方の指針が載っていた本だったが、これもそうだったかと、思い知らされた。最近ではこの本の読書内容は余り思い出していなかったもんですっかり忘れていた。

「朝のみそぎ」というぴったりの言葉と共に紹介されているのは、ポール・ヴァレリーという人の毎朝の習慣だ。この人自身も詩人として風靡しながらその後、思考の海に長いこと潜って、更なる深みを備えることになったフランスの知識人だそうだ。まだまだこの人のことは追えていない。 それ以外にも、すこし見なかっただけなのに、そうそう、そうだったなあ思い出す内容がたくさん出てくる。

さらに「考えることとは書くことだ」へ

「考えるのにはまずは書くことだ」からの発展としての命題、「考えることとは書くことだ」。これも、今は『声の文化と文字の文化』から接近し始めた、少しずつ考えているテーマだ。しかし『知的トレーニングの技術』を読んだ時点で、「考えるということは書くことを出発点としている」という説明はあったわけだし、そこで「声の文化」に当たるものとの比較という軸を思い浮かべても良いくらいだった。実際、「考えることとは書くことだ」という内容は、まさしくそのまま書いてあったりもする。

単なる残念体験ではなく

ここまでは、「ああきちんと消化し切れていなかったんだ」という残念な体験のように書いてしまったかもしれない。しかし、ある観点(今回は「声の文化と文字の文化の比較」)の有無によって、過去読んだ物の消化(解釈)の具合も変わってくるという体験を意識する事なく実感できたのは良かった。さらに言えば、その解釈と、現在進行中の体験がシンクロしているのも心地よい体験。

「まずは書いてみることだ。最初はそのとりとめのなさにビックリするかもしれない。でも、気分が乗ってくればそんなことは気にならなくなってくるから。」

これはまさにここ数日の体験が裏打ちしてくれている。

論理的に書くための手順は一通りなのだ

「何はともあれ書いてみるんだ」というのは、過去読んできた、「ブログの書き方」の記事にも何度も変奏曲として出てきてた点だ(「論文の書き方」という文脈でも多用される)。結局、自発的な思考を確保する手段は、一種類しかないなのかもしれない。おそらく適当な方法が何種類もあるわけではないのだ。

  • 「ほとばしり出てきた思考を、まずは捕まえる(文字に固定化する)」
  • 「そのままだと「声の文化」を引きずったものになりがち(読んでみて論理的、という流れではない)」
  • 「だからそれを後で交通整理して、論理的な骨格を持ったものに仕上げる」

「文字の文化」において要求される、論理的文章。少なくとも、これを構成するための方法としては、考える全員が、同じ内容に帰着するということなのだろう。

Written with StackEdit.

Recent Posts

Loading...