神社検定 参級

6月27日(日)13時。神社検定の参級を受検した。コロナ禍ということで在宅でのオンライン試験。試験翌日の昨日、ウェブ上で点数の確認ができ、無事に合格点に達していた。

100点満点中の93点。

70点以上で合格なので、余裕で合格だ。選択肢を絞り切れずに悩んだ問題が20以上あったので80点取れていれば上出来かなと思っていた。嬉しい。

見直しをしても時間は10分くらい余った。在宅試験だからテキストを見て確認することもできたけれど、あえてしなかった。悩んだ問題すべてが間違っていたとしても合格点には達している自信があったから。それに、実力で受検したあとの結果を待つドキドキ感も試験の醍醐味だと思っているから。

今回使用したテキストはこれ。

過去問は使用しなかった。経済的な理由もあるし、試験の難易度的にもテキスト学習だけで乗り切れると判断したから。

上のテキストは2~3周して、紛らわしい各神社の由来はエクセルで一覧表にまとめた。だから、このテキストからの出題はほぼパーフェクトに正解できたと思う。

下の日本書紀編のテキストについては勉強が不完全燃焼のまま終わってしまった。今回の試験で点を取り損ねたのはほぼこのテキストからの出題だ。テキストというよりは資料という感じで読みにくく、約1カ月の勉強期間では手がまわらなかったという感じ。

それでも予想外に点を取れたのは、昨年放送大学で受講した「古事記と万葉集」の知識がまだ鮮明に残っていたからだ。

日本神話についての概略をこの講義で掴んでおいたおかげで、神社検定の勉強も全体的にスムーズに進んだように思う。

上記以外で参考に読んだのがこれ↓

カラーで写真やイラストが豊富でとても分かりやすかった。テキスト1「神社のいろは」と重なる部分も多い。

最近はこの類の本が書店の目立つ場所に陳列されていて、空前の神社ブーム、神様ブームだ。それはきっと、昨年からのコロナ禍と関係があるのだろう。

私が神社検定のことを知ったのは今年の5月、Twitterのプロモツイートを見たことがきっかけだった。

もともと神社という場所の持つ雰囲気が好きだったこと、最近になって御朱印集めを始めたこと、放送大学で日本神話について学んだばかりであること。いろいろな理由が重なって、試験本番まで一カ月半しかなかったけれど思い切って申し込みをした。

アマゾンで注文したテキスト1が届いたのが一週間後なので、勉強を開始するのはさらに遅れた。テキストは定価で購入するなら公式サイトから注文したほうが早いかもしれない。コンビニ払いもできる。日本書紀編のテキストは公式から注文して、支払の二日後には届いた。

試験の開催は年に1回ということなので、来年は弐級を受検できたらいいなと思っている。


本と映画の記録 6/1~6/14

今月はアウトプットよりもインプットの気分で、読んだ本の感想や観た映画の感想を記録していなかった。ここで簡単に記録しておこうと思う。

【読んだ本】

「森があふれる」は、作家の妻が発芽する話。担当編集者、作家の愛人、作家自身、作家の妻。視点が切り替わりながら物語は進み、それに伴って作家の妻から発芽した芽は育ち続け大きな森となる。物語の奥、森の奥に進むほどに、ジェンダー論の色彩が強くなっていく。男女のすれ違い。女性の生きづらさ。発芽は、自意識の芽生えということなのだろうか。

「旅する練習」は、小説家の叔父(主人公)と小学6年生の姪との徒歩旅行記。フィクションではありながら、なんともいえないリアリティがある。コロナ禍のごく初期の頃、学校は休校になっていたけれどまだまだ感染者数は少なくてマスクも必須ではなかった頃の話。主人公は風景を文章でスケッチし、サッカー少女の姪はドリブルやリフティングを繰り返しながらの旅。主人公の書く文章がだんだん不穏なものになっていき、このほのぼのとした物語がハッピーエンドではないことを予感させる。タイトルが練習(文章やサッカー)の旅、ではなく「旅する練習」であることが印象に残った。

「あたしたちよくやってる」は、短篇小説&エッセイ集。小説はどれも女性が主人公で、女性として自由に生きることがテーマになっている。「きみは家のことなんかなにもしなくていいよ」は、小説とエッセイの中間のような作品で面白い。理想の生活を妄想する話。自分の好きなことを仕事にして、その仕事が周囲から尊敬されて、生活に必要な家事は誰かが快く引き受けてくれる。これは性別問わず人間として理想の生き方かもしれない。最後に収録された小説「超遅咲きDJの華麗なるセットリスト全史」も好き。好奇心を失わない、常識にとらわれない、かっこいいおばあちゃんになりたい。


【観た映画】

「舟を編む」は原作小説を読んでいるのでストーリーは知っていた。原作の世界を壊すことなく、映画は映画で良かったなという感じ。昔の出版社の雰囲気が良い。松田龍平とオダギリジョーの組み合わせに既視感を覚えたのは、いまやっているテレビドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」に二人とも出演しているからだ。このドラマは今期で一番好き。二番目がドラゴン桜で、三番目がイチケイのカラス。

「ファーストラヴ」の原作は未読。でも島本理生の作品はいくつか読んでいて、共通するモチーフがあるなと感じた。性的虐待や性的搾取。それも大人の男性から、未熟な少女に対しておこなわれるもの。読後感が悪いので彼女の作品はあまり読まなくなってしまった。それは現実から目をそむけることになるだろうか。「50歳と14歳の性交に同意はあるか」という問題が国レベルで討議されて、「同意はある。捕まるのはおかしい」という発言を現職議員がするような社会に私たちは生きている。こういう作品が小説の枠にとどまらず、映画というより大きな媒体でたくさんの人の目に触れたことはとても意義があることかもしれない。

「インセプション」は、人の夢の中に侵入して秘密を盗んだり記憶を植え付けたりする話。夢の中にも階層があって、時間の流れ方も違う。夢の中の夢、さらにそのまた夢の中の夢。冒頭のシーン、字幕版で観ているはずなのに音声が日本語でおかしいなと思っていたら、日本が舞台のシーンだった。渡辺謙が比較的メインの役で出ているせいだろう。

「ショーシャンクの空に」と「キューティブロンド」は、どちらも高校生の時に観たことがある。アマプラで配信されていて懐かしくなって再度観なおした。対照的な作品だけど、どちらも良い。

「ショーシャンクの空に」は細部をほとんど覚えていなかった。モーガン・フリーマンの存在感がすごい。ラストが明るいハッピーエンドなのが良い。漫然と生きていたらダメだなと思わされる。ちゃんと考えて生きていかないとダメだ。

「キューティ・ブロンド」はとにかくハッピーな映画。女性が容姿で偏見を持たれたりハラスメントを受けたりするのは世界共通なのだ。主人公のエルはそのたびに傷つき落ち込むけれど、持ち前の明るさで突き進んでいく。すべての人に理解されるのは、無理だろう。一人の人間としてできることといったら、努力して自分の価値を高めることで、嫌な人間を黙らせることくらいだ。自分が良い方向に変わると、引き寄せられてくる人間も良い人達が増えてくる。嫌な奴を合法的に抹消することはできないけれど、それ以上に良い仲間が増えて楽しく生きられる。そういうことってあるよなぁと、最近しみじみ思う。

最近観た映画

最近みた映画の話。



●ライ麦畑の反逆児-ひとりぼっちのサリンジャー



アメリカの小説家J.Dサリンジャーの生涯を描いた作品。


短篇小説を書き始めた学生時代。恩師との出会い。職業作家となることを夢みて作品を出版社に持ち込むも、次々に断られてしまう。軌道に乗りかけたところで始まった第二次世界大戦。従軍中は戦争の悲惨さを目の当たりにしながらも物語を書き続けた。


売れっ子になるまでの苦悩、売れっ子になってからの苦悩、そして隠遁生活へ。


サリンジャーの作品は何年か前に読んだ。「ナインストーリーズ」と「ライ麦畑でつかまえて」。映画のなかで出版社側の偉い人達が言っていたように、よく分からない話だなというのが一番の感想だった。主人公ホールデンを理解することができず、消化不良で終わってしまった。今回この映画でサリンジャーについてのイメージが新たになったので、再読したら少しは分かるようになっているかもしれない。


サリンジャーの小説を読もうと思ったのは、アニメの攻殻機動隊を見たことがきっかけだった。近未来SF作品なのだが、笑い男事件という謎めいた事件が起こり、事件の鍵となるのがサリンジャーの小説だった。引用された小説の一節がとてもかっこよくて意味深で、とにかく読んでみたくなったのだ。


理解されない孤独、普通の幸せを幸せと感じられない孤独。

様々な孤独にさいなまれた挙句に隠遁生活に入り、以後は作品の出版を拒否。母国アメリカでも単行本化されていない作品がいくつもあるとのこと。出版はしないが、ひとり作品は書き続けた。未発表の作品には何が書かれていたのだろうか。




●ガーンジー島の読書会の秘密



こちらはイギリス映画だが、主人公が作家であること、第二次世界大戦前後のできごとを描いていることなど、ライ麦畑の反逆者と共通点が多かった。主人公が作家であること、という共通点については、私自身があえてそういう作品を選んで観ているということなのだけれど。


物語を読むだけでなく、自分でも書いてみたいという気持ちが突然湧き上がってきたのは去年のことだ。”人は誰しも一作は小説が書ける”という格言(?)のようなものがあるらしい。自分の人生経験をネタにして一作くらいは書けるということなのだろう。では、その一作を書いてみようじゃないかということで去年は生まれてはじめて小説を書いた。


小説と言っても4000字程度の短いものだ。その後も同じくらいの長さの作品をいくつか書いた。地方の文学賞や小説投稿サイトのコンテストに応募してみたが、どこにも引っかからなかった。当たり前だ。実力不足であることは自覚している。でも、意外と書けるものなのだなという発見はあった。


書き始める前は、最後まで書ききる自信が無かった。書き出しの部分は思いついても、後が続かないのではという不安があったのだ。


実際に書き出すと、ストーリー自体は常に頭の中で先に進んでいる感覚があって、それを追いかけるように文章化していく作業になった。この文章化の技術が圧倒的に不足していて、何度も立ち止まってしまう。ものすごい遅筆だ。書き方に悩んでいる間にも、物語に組み込むエピソードは頭の中に次々と浮かんできて、書き出しの時点では何も決めていなかったラストシーンもいつの間にかイメージが出来上がっている。


”頭の中にあるうちは何だって傑作なのだ”という言葉を何かの小説だか映画で聞いたがまさにそのとおりで、頭の中から取り出して文章にした途端にグダグダになり輝きを失ってしまう。そんなことの繰り返しだ。小説を書いていると、自分の限界がよく見える。


書くってなんだろう。文章ってなんだろう。そんなことを常に考えるようになった。きっと考えているだけではダメで、答えを見つけるためにはたくさん書いてたくさん読むしかないのだろう。作家になりたいかというと、それはまだよく分からない。生活が落ち着いてしまって、あまりハングリー精神もないし。


ただ、なにか目標がないと、生きている意味が無いような気がする。なんとなく生きているよりは、目標に向かって頑張っていた方が時間が経つのも早いし気分がまぎれる。短篇小説はいくつか書いたので、生きているうちに一作は長篇小説を書くということを人生の目標にしてみることにする。




●蜜蜂と遠雷



原作の小説を先に読んだのであらすじは知っていた。ピアノコンクールの話。実写で観ると迫力があって良かった。音楽は美しい。


原作がかなりの長篇なので実写化にあたって省略されるシーンが多いのは仕方ないが、原作を読んでいない人にとってはタイトルの「蜜蜂と遠雷」が意味不明かもしれない。遠雷の描写は一瞬だけあったが、蜜蜂はなかった。


栄伝亜夜を演じた松岡茉優の演技がとても良かった。彼女はバラエティ番組に出ているイメージが強くて、この役には合わないと感じていたのだけど、映画を観てみたらものすごく良かった。セリフの無いシーンの表情や佇まいが綺麗。


無人島で一人ぼっちだとしてもそこにピアノがあったら弾くか、という話が出てきた。同じような問いが、「ライ麦畑の反逆者」のなかにも出てきた。「ガーンジー島の読書会の秘密」でも、主人公が最後に書き上げたのは出版するための本ではない。演奏せずにはいられない、書かずにはいられない、それをせずにはいられない。


誰も見ていなくても、誰からも評価されなくても、好きだからやり続けたいことがあるというのは幸せなことだと思う。

ミヒャエル・エンデ『モモ』

ミヒャエル・エンデ作「モモ」を読了。

世界的にも有名すぎるこの児童文学を今まで読んだことがなかった。学校の図書室や近所の図書館にも置かれていたはずなのに手に取ることがなかったのだ。

今回読むきっかけとなったのは、雑誌MOEのモモ特集が人気であると知ったから。特別付録でモモの表紙デザインのクリアファイルがついている。

表紙と作品のなかにところどころある挿絵は、すべて作者のエンデが描いたものらしい。

児童文学ということで、対象年齢は小学5,6年生以上となっている。でも、ゲームやスマホが普及して昔の子ども以上に読書離れが進んだ現代の子どもたちに、はたしてこの本を読みとおすことができるだろうかと、ふと考えてしまった。

それくらいこの本に書かれていることは奥が深いし、分量も多いし、普段の生活の中では馴染みのない言い回しが使われている。読書に慣れている大人の私でも、何回かスマホで辞書をひいたほどだ。単行本のほうには表紙にあらすじが書かれている。

時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語

時間どろぼうとは、灰色の男たちのこと。女の子とは、モモのこと。ぬすまれた時間は、時間貯蓄銀行へと預けられ灰色の男たちの命の糧となる。


私たちはモモのいない世界に生きている。灰色の男たちに時間を奪われながら。

灰色の男たちとは誰だろう。国を動かしている官僚や政治家たちだろうか。それとも彼らが作り出した、がむしゃらに働かなければ生活できないような経済システムそのものなのか。もしくは、私たちの心の中に巣食っている「時間がない」という思い込みなのか。

時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。
時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです。

仕事をしていれば効率を求められるし、家事をしていれば時短でできる部分は時短にしたい。そうやって効率的に働いて、時短テクニックを駆使して時間を節約することそれ自体は悪いことではないのだと思う。

悪いのはきっと、節約して捻出した時間をうまく使えていないことなのだ。

自分の好きなことや、本当にやりたいことのために時間を使える大人になりたいと思う。

畠山丑雄『先生と私』

石倉真帆「そこどけあほが通るさかい」に続いて、同じ雑誌に掲載されていた畠山丑雄「先生と私」も読んでみた。どことなく森見登美彦の作品的な雰囲気。

京都大学の学生の青春とか恋愛とか、大雑把に言ってしまえばそんなところだが代々受け継がれてきた「先生」という存在の異質さが際立っている。


読み始めたときは、主人公の奈央のキャラクターに違和感があってしばらく感情移入できなかった。伊藤との会話での言葉遣いが不自然というか、サバサバした女性を書こうとして少し失敗している感じが否めなくて気になってしまったのだ。

でも、その違和感は伊藤との会話の時だけで、ほかの登場人物との絡みの場面では気にならなかった。付き合いの長い打ち解けた者同士の態度だとしたら、自然なことなのではと思えてそのうち気にならなくなった。脇役ならば大して気にならなかったのだろうが、主人公ということで最初の違和感を引きずりすぎてしまったかもしれない。

自分が女性であるせいか、男性作家が書く女性の主人公に感情移入できないことはままある。男性の場合はどうなのだろう。やはり女性作家が書く男性の主人公に違和感をおぼえることが多いのだろうか。ただ、その違和感というのは、男性らしさや女性らしさにとらわれているから湧いてくるものなのかもしれない。「こんな女性(男性)はいない」とか「女性(男性)は普通こんなこと言わない」とか、性別によって固定観念を持ってしまっているから、そこからはずれたものに対して違和感をおぼえるのだろう。

奈央も先生も小説を書く人だ。職業としての小説家ではなく、まだ趣味の域にとどまってはいるものの、とにかく書いている。二人の間でかわされる読書についての会話が良い。私も大学生のうちにもっと本を読んでおけばよかったと後悔している。読書の経験というものは時間をかけて熟成されていくものだから、古典や名作とよばれる作品はよく意味がわからなくても若いうちに浴びるように読んだほうがいいのだと思う。