■犠牲とはなにか。「他者の傷を癒すこと」である。他者というのは大文字の他者も含むので、いつもそこが問題になる。アメリカによって傷を負わされてきたイスラム諸国の傷を癒すためにムスリムは貿易センタービルに突入し、その事件で傷ついたアメリカ(の威信)の傷を癒すためにアメリカは国民から軍人をせっせと作りだしてアフガニスタンに侵攻する。ここにあるのは暴力に暴力で応じたという動物学的な、条件反射的な構図ではなく、犠牲に犠牲で応じるというあまりに心理学的な、人間的な構造だった。
■そして犠牲について考えることから行き着くのは「傷の共有」といった問題である。ここでは大胆に、その傷の共有こそがイデオロギーの基盤を形作るのではないかと言ってみたい。たとえばこんなふうに。「ファシズムは共産主義ユートピアの夢破れて生じた傷への同一化が作り出したのではないか」
■あらゆる法は違反者を生成する。そして違反者の存在が法の存在根拠になる。自分で自分の滋養を作り出しながらそれによって生命を維持するという特徴。そういった違反者のコード化、パターン化こそが法の役目だった。暴走族はパターン化された違反との一体化によって結託している好例だと思う。そして暴走族の結託の心理学的な表現は「傷の共有」である。その違反性が明白であり結託が強固であればあるほど、それは反対側にある道徳的な生き方、法を順守しながら幸福を追求するといった姿勢を強化する。つまり暴走族はコード化によって「法の欲望の表現」そのものに転化する。
■合法的なものへの同一化にはなにもないということではない。違反者を生産し、かれらをパターンによって結託させること、それをイデオロギー強化の武器として準備すること、それが弱体化した国家イデオロギー装置のごくごく自然な機能だと言いたいのだ。noon75氏の「二つのブロゴスフィア」で書かれているアメリカ、日本両国の最大の違いは、国家イデオロギー装置の強固さの違いにみえる。アメリカはすでに強力であり、そこでは合法的な思想への同一化が語られればよかった。ブロゴスフィアはそこに結集する(結集さえしない)。なぜなら癒されるべき傷はつねに外部から(違法なものとして)テロリズムとしてやってくる。反対にわが国には敵がない。国家はイデオロギーの弱体化を防ぐために、貧困な想像力を駆使し、ついに違反者たちの結集場所、巣窟としてネット空間を思い描いてしまった。アメリカのブロゴスフィアは外からやってくる違法とたたかうひとつの空間だった。わが国のブロゴスフィアは、そのものが 無法地帯なのである。
■どうやってネット空間を違反者たちの結集の場にするのか。傷を与えればいい。その傷をなめあう場としてブロゴスフィアは進化する。もっと推奨されるのは、自分たちでお互いを傷つけあうような空間にすることだった。傷を与え合いながらそれを癒し合う運動で肥大してゆく空間。それが現在のわが国の、イデオロギー装置の要求にのってコード化されたブロゴスフィアの定義だと思う。
■そんな空間の内部で、違反者たちの傷の癒し合い(与え合いといっても同じだ)から脱する道が問題となる。やはり『下妻物語』のイチゴのように合法的社会から疎外された暴走族からさらに疎外されること、傷を癒すことにさえ傷ついて「ひとりきりの暴走族」となる道だろうか。
noon75さんはアメリカのブログと日本のブログの違いについて書きました。それをブログに書かれた文の「取り扱われ方」の違いとして書きました。ここがとても刺激になりました。存在の違いは用法の違いだからです。
通常、その用法の違いから、その原因について遡及的に考える作業が始まります。国家の在り方の違いかもしれせん。言葉の重さの違いかもしれません。それはさらに歴史の違い、政治的かそうでないかの国民性の違い、無意識の違いといったものが問われるかもしれません。それはさらに遡れば「アジア的」といわれる土地所有を中心においた農耕民族であったことに原因があるのかもしれません(ヘーゲル-吉本ラインです)。だれが支配しようと同じさ、だれが何を言ったって何も変りはしない、ベトナム戦争のさなかにベトナムの農民たちが思っていたことは、あまりにアジア的な無意識を現していました。これはわが国のブログ世界の無意識にもつながっています。
そして近代化は、その無意識を破壊する過程だといわれます。なかなか破壊されないということでしょうし、はたして破壊が望ましいのかどうかもむずかしいところです。あるいはわが国のブログはそういった近代化に対する「反動の階級」に帰属しようとしているのかもしれません。でもこういった遡及的な考察は、どちらかといってぼくにはどうでもよかったのです。窮屈な本質論よりも用法の違い、そこに着眼し、それを記述することのほうが価値があると思っているのです。哲学的な論争よりもぺんぺんさんのポエムのほうに価値があり、noon75氏の記述、それこそがわが国が言葉を奪回する方向を指し示しているかもしれません。
ぼくが書いたものは国家におけるブログの違いを、「イデオロギー装置としての国家」というアルチュセールの言葉を借り、「敵対は敵対物を補強する」というモチーフを使って解釈の可能性として書きました。noon75さんを横滑りさせたのです。最後の辺はちょっと言いたいことが、絶望感を仮託するような倫理的な表現で出てしまいました。むしろそれを書かずに耐えなければならないところでした。つい邪魔な暖かい読者の期待(そんなものないのに)に流され筆がすべります。
>日本人の発する言葉というのはあまりに軽い。言葉を発すること自体が個人個人の闘争であり政治であるのに、日本人はそれを意識しない。
そう思いながらぺんぺんさんは重たい言葉を使うわけではありません。むしろ重さを避けていると思われます。「誰も読まないような日記」の氾濫(最近の「新書」も全部そうです)の先に抜けてゆけるような通路を、同じ武器をもって切り開こうとしているように見えます。この戦略は正しいとぼくは思います。そしてたったひとりが読んでくれればいいのです。そのひとりがもし縦に連なればどんな時代も抜けてゆくだけです。
もちろん哲学的な議論を仕掛けたかったわけではありません。ただnoon75氏の書かれる文章について、あまり指摘されてはいないと思われるのですが、確実に"nation"という問題意識が横たわっている。nationの狭間に生きた人間が見る日本のブロゴスフィアという文脈で彼の文章を私は非常に価値のあるものだと考えております。
果たして日本のブロゴスフィアが暴走族であったり反動であるのか、実は私は全く違う見方をしているのですが、それについてはここまで書くのに息切れがしている状態ですので当面ペンディングしておきます。
陳腐な一般論になりますが言葉の軽重というのはその難易度と重なるわけではないと考えます。であれば重い言葉とは何かということを我々は本質的に考えなければならないところに来ているのではないかと思います(私が今まで考えてきていないだけで、ここにいらっしゃる方々は始終お考えなのかもしれませんが)。
私のポエムについてもコメントくださってありがとうございました。自分の書いたものについての評論は演技としてすることはありますが、実際したくはないので割愛します。
私はあんな寝言ポエムですが意識的に周囲の感覚からずらしていますし、そういった意味ではノンポリではなく、極めて戦略的だと思います。そして本質的に文章を書くのならばなにかをかけて書かなければならないだろうとそういう意識が頭の片隅にはあります。
コメント連投失礼いたしました。
ぼくの考えでは、明治維新は中国がヨーロッパになっただけだと思います。真の近代の始まりは、敗戦だと思っています。
だれも読まない日記を書くことは、ぼくにはそれほど問題ではありません。みんなが読む日記との差はないです。それよりも、サッカーが好きな連中が集まってサッカーをするというのはわかるのですが、「サッカーについて語る」のが好きな連中がブログで語り合うというのがわかりません。ブログはひとりきりの寝室でもあれば、リビングやサロンでもあるということでしょう。サッカーを映画とか音楽、本とか哲学にしても同じです。サロンがだめなのは、ペンペンさんが言うように、言葉の問題を素通りしているからです。そうなんです。遅れているのはぼくの方で、ぼくはけっして彼らに届かないのです。
もしブログをはじめなかったら、ぼくは二度と書かなかったでしょう。そのときに垣間見たブログの可能性みたいなものを、錯覚だったとしても大切にしたいと今でも思っています。
わたしはnoon75氏のエントリーについて全く違う解釈をしました。
ストレートに読めば国家の在り方の違い、つまりむき出しの近代国家として形成されたU.S.Aと近代の衣装を纏ってはみたものの未だ田舎もの特有の甘ったれた国家間しか描けない日本という国家との間の齟齬がテーマではなかったかと考えます。
近代国家への参加意識あるいはナショナリズムというのは観念的なものでしかあり得ないという指摘は丸山真男がずっと以前から指摘しているものですが、U.S.Aのなかで国民を結ぶ糸というのは結局民主主義でしかあり得ない。もちろん、民主主義は理想政治ではなく、現存する政策の中での最善策に過ぎないものであるにせよ、またイラク戦争や人種差別のような熱狂的な衆愚に支配された野蛮に包まれていようとも、U.S.Aの矜持はここにしかありえない。U.S.Aは全く近代国家が観念による産物であり共同幻想以外なにものでもないことを見事に象徴した国家であり、だからこそ、人種、文化、宗教の坩堝と化すことが可能なのであろうと思います。
観念を具体化するのは言葉です。その言葉によってアメリカは一つになるのであり、だからこそブログに書かれたたかが一言であっても疎かにしないのではないかと思います。
同時に言葉を発すること自体がすでに政治的行動であるというテーゼは国際社会においては全くもって常識であるわけですが、日本人というのはそれが分からない。
黒船が襲来したとき日本人ははじめて自らのNationを意識せざるを得なかった。その存在根拠を求めたとき、そこにあがったのは言語であり、血であり、歴史であったが、もちろんそれらは前近代的なものであり、近代国家の衣装を纏いながらも日本というNationの在り方は結局異物を排除する形でしか現れなかった。
つまり日本人の愚かさというのは、日本という土地に生まれ、日本人の両親を持ち、日本語を話していればそれで自動的に日本人になれるような他律的な姿勢なのだと思います。その前近代的な観念について"政治的"だとは思わないでしょうが、外から見ればそれこそが排他性を生じる最大の原因であり、異物に対しての過剰なバッシングに現れるのではないかと思われるのです。
であれば日本人の発する言葉というのはあまりに軽い。言葉を発すること自体が個人個人の闘争であり政治であるのに、日本人はそれを意識しない。異物が入り込んだときそのきもちのよい空間を壊されないために徹底的な排除を行う、「たかだか100年の近代化ではけして変わらなかった」という感覚は多くの人間が共有するものであると思います。
だから日本に於けるブログというのは誰も読まないような日記で溢れるし、わたしのような寝言ポエムの存在も許されるのだと思います(苦笑)