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2007-06-07

■犠牲とはなにか。「他者の傷を癒すこと」である。他者というのは大文字の他者も含むので、いつもそこが問題になる。アメリカによって傷を負わされてきたイスラム諸国の傷を癒すためにムスリムは貿易センタービルに突入し、その事件で傷ついたアメリカ(の威信)の傷を癒すためにアメリカは国民から軍人をせっせと作りだしてアフガニスタンに侵攻する。ここにあるのは暴力に暴力で応じたという動物学的な、条件反射的な構図ではなく、犠牲に犠牲で応じるというあまりに心理学的な、人間的な構造だった。

■そして犠牲について考えることから行き着くのは「傷の共有」といった問題である。ここでは大胆に、その傷の共有こそがイデオロギーの基盤を形作るのではないかと言ってみたい。たとえばこんなふうに。「ファシズムは共産主義ユートピアの夢破れて生じた傷への同一化が作り出したのではないか」

■あらゆる法は違反者を生成する。そして違反者の存在が法の存在根拠になる。自分で自分の滋養を作り出しながらそれによって生命を維持するという特徴。そういった違反者のコード化、パターン化こそが法の役目だった。暴走族はパターン化された違反との一体化によって結託している好例だと思う。そして暴走族の結託の心理学的な表現は「傷の共有」である。その違反性が明白であり結託が強固であればあるほど、それは反対側にある道徳的な生き方、法を順守しながら幸福を追求するといった姿勢を強化する。つまり暴走族はコード化によって「法の欲望の表現」そのものに転化する。

■合法的なものへの同一化にはなにもないということではない。違反者を生産し、かれらをパターンによって結託させること、それをイデオロギー強化の武器として準備すること、それが弱体化した国家イデオロギー装置のごくごく自然な機能だと言いたいのだ。noon75氏の「二つのブロゴスフィア」で書かれているアメリカ、日本両国の最大の違いは、国家イデオロギー装置の強固さの違いにみえる。アメリカはすでに強力であり、そこでは合法的な思想への同一化が語られればよかった。ブロゴスフィアはそこに結集する(結集さえしない)。なぜなら癒されるべき傷はつねに外部から(違法なものとして)テロリズムとしてやってくる。反対にわが国には敵がない。国家はイデオロギーの弱体化を防ぐために、貧困な想像力を駆使し、ついに違反者たちの結集場所、巣窟としてネット空間を思い描いてしまった。アメリカのブロゴスフィアは外からやってくる違法とたたかうひとつの空間だった。わが国のブロゴスフィアは、そのものが 無法地帯なのである。

■どうやってネット空間を違反者たちの結集の場にするのか。傷を与えればいい。その傷をなめあう場としてブロゴスフィアは進化する。もっと推奨されるのは、自分たちでお互いを傷つけあうような空間にすることだった。傷を与え合いながらそれを癒し合う運動で肥大してゆく空間。それが現在のわが国の、イデオロギー装置の要求にのってコード化されたブロゴスフィアの定義だと思う。

■そんな空間の内部で、違反者たちの傷の癒し合い(与え合いといっても同じだ)から脱する道が問題となる。やはり『下妻物語』のイチゴのように合法的社会から疎外された暴走族からさらに疎外されること、傷を癒すことにさえ傷ついて「ひとりきりの暴走族」となる道だろうか。


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