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2006-08-15

■イスラエルが約束された国家だというとき、それは二重の意味を持っている。旧約聖書の最後の約束された土地という意味とイギリスの先兵となってトルコと戦闘し、その報酬としてイギリスを代表とする国際連盟に約束された国家という意味だ。この二重性のうえに人工的な国家が誕生した。その地に住んでいたイスラム教徒は見も知らぬ約束のために土地を奪われ、国外へと逐われた。それがパレスチナである。

■イスラエルとパレスチナをユダヤとイスラムの宗教戦争だと考えるのは間違っていて、宗教は、対立が恒常化したあとで、旗印として担ぎ上げたものでしかない。それはパレスチナ難民の憎しみを粉飾するもの、覆い隠すもの、なによりも正当性と根拠と憎しみの普遍化をもたらすものとして、そして近隣のアラブ諸国との同胞意識を掻き立てるために後で持ち出され、担ぎあげたみこしという見かけにすぎない。

■憎悪の問題が中心にあるように見える。憎悪をとかすためにどうしたらいいのだろう。法によって決着し、物的心的な損害を罰金や賠償金という貨幣に変換するという妥協策が現在の国家のとる通常の方法である。しかし、はたしてだれがそれを望むのだろう。中心にはさらに別の中心があるようにみえる。いったいだれが平和を望んでいるのか、という問題である。

■ガザ・ジェリコ合意、ヘブロン合意、ワイ・リバー合意、シャルム・エル・シェイク合意。パレスチナ問題にはもう何度も和平の可能性がひらかれたという過去がある。しかも和平の直前になってすべてはかならず挫かれる。そういった繰り返しに私たちは対立の深さや和平の困難を印象付けられる。しかしそれは見かけなのではないのか。「本当に望んでいるのは和平とは逆のものだとしたらどうだろう」(ジジェク)。だから実際は簡単な和平への道が開かれそうになるとそれを阻止し、壊さなければならなくなる。当事者は、実はたたかいを、自らの憎しみへの執着を望んでいるのだとしたらどうだろう。すべての辻褄が合うようにみえる。

■1988年それまで対イスラエルテロの先鋒だったアラファトは一転して和平への道を歩み始める。それを転向と見るべきではない。表面に平和の旗が翻るまさにその期を境にテロリズムは内部へと潜行する。だからそれは無意識化され本来の姿を取り戻すのである。アラファトの和平への歩みは、道徳の声、法の声、ヒューマニズムの声となり、パレスチナ自らの欲望の上に覆いかぶさる。憎しみを抑圧し、なだめるためではなかった。まったく逆に、それはパレスチナの無意識を必然的なものとして正当化し、永遠化する。まるでパレスチナの永遠は、その憎悪の永遠に賭けられているかのようだ。アラファトが超自我としてパレスチナテロリズム上部へと析出されたとき、パレスチナは一人歩きする主体へと変貌したのである。

■いったいだれが平和を望んでいるのか。アラファトである。しかしすでに人格と化したパレスチナの中では、和平工作という建前は理の通った法として機能しながら、内部のテロリズムに対してはそれを絶えず補強し加速させてしまう、そこにアラファトの絶望的な存在根拠があった。挫折すればするほど彼はさらに和平への道を突き進むという酷薄な運命を担った。しかし約束されているのはつねに挫折の方だった。むしろ約束されている挫折をアラファトは望んでいた、と言っていいかもしれない。

■アラファトの死後も、繰り返しだけがそこには残された。パレスチナはレバノンという名に変わった。イスラエルを意識する限り、あらゆるアラブイスラム諸国は「パレスチナ化」できる。そういう立証をしてみせた。憎悪が伝播したのではなく、あとでご都合的に担いだ宗教的な旗印が、他の世界を巻き込んでいくという悲劇を見せつけられた思いだ。


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