情報環境の変化と市民の選択
先日の兵庫県知事選挙や米国大統領選挙の結果に違和感を持つ人々が増えている。そして、その原因としてSNSやYouTubeなどのスマホベースのメディアが批判されることが目立つ。若者が新聞を読まず、正しい情報が広まらないことが選挙結果に影響しているという主張である。一方で、それに真っ向からの反論もある。既存メディアも偏見に満ち、真実を伝えていないというのだ。このような対立は、なにか、この問題の重要な部分を捉えていないように思える。
現代の情報環境
SNSやYouTubeは情報を即時に広範囲に共有できる点で非常に便利であると言っていい。私自身そのなかにすっぽりといる。世界中の出来事やニュースを瞬時に知ることができるという点では、旧来メディアとは変わりないが、その面では、SNSやYouTubeで二番煎じのことが多い。むしろ、旧来メディアでは知ることのできない、奇妙ともいえるディテールがわかることがあるが、もちろん、それが真実であるとは限らない。
SNSやYoutubeなどのプラットフォームは「広告主義」や「注目話題主義」によって、感情を煽るセンセーショナルな情報が拡散しやすい、というのが問題かもしれない。広告収益を目的とするため、人々の関心を引くために刺激的な内容が優先される。対して、既存メディアは、基本的には、事実確認が比較的しっかりしているため信頼性が高いとも言えるが、「広告主義」や「注目話題主義」である点は変わらない。スポンサーの影響も受けやすい。ジャーニーズ問題など何十年も闇に葬られた。SNSは誤情報や感情的な対立が拡散しやすいとも批判されるが、実際のところ、それほど質的な差はないんじゃないか。
信頼基盤の揺らぎ
総じて、現代社会ではメディアへの信頼が低下し、人々は自分が信じたい情報だけを選び取る傾向が強まっている。この「信頼基盤の揺らぎ」は社会の分断を助長し、情報の質を巡る対立を深める一因となっている、とも言える。既存メディアの報道に対する不信感や、SNSでの情報拡散によって、人々はより極端な立場に引き寄せられやすくなっているのは、傾向としてあるだろう。特にSNSでは、アルゴリズムが感情的な反応を優先するため、不満や怒りが簡単に広がりやすい。感情的な情報が人々の関心を集めやすく、アルゴリズムによって優先的に表示される仕組みによるのも、最悪。結果、人々は自分と異なる意見に触れる機会が減り、ますます狭い視点に閉じこもる。まあ、そうだ。でも、それも既存メディアの傾向を延長し細分化したらそうなったというくらいものだろう。そもそも、基本的なニュース報道を知りたいなら、NHKで十分だが(私はそうだな)、民放ニュースを見る人いるし、まあ、あとは推して知るべし。
どうしたらいいか
どうしたらいいのか。まず、情報リテラシー教育の推進とかの正論は、だめだろう。現実的な意味のない理想論だ。 多様な情報源をバランスよく活用する習慣を促進するために、学校教育や地域の活動を通じて、若者から高齢者まで幅広い層に情報リテラシー教育を提供するとか、無理だね。同じような空論が話し合い主義だ。 異なる意見を持つ人々が冷静に議論し、相互理解を深める場を設けるとか。いや、これは、𝕏(ツイッター)を見れば、全然だめだというのが一目でわかる地獄が展開されている。
私は、広告モデルに依存せず、公共性を重視した仕組みを模索すればいいと思う。広告収益に頼る現在のモデルでは、どうしてもセンセーショナルな内容や注目を集める情報が優先されてしまう。これを防ぐために、公共の利益に資する情報提供のモデルを構築することが重要である。つまり、NHKを活用することだ。NHKが一定枠で、Youtubeや𝕏で報道すれば、いい、まあ、WebでのNHKニュースはかなりそれ近いのだから、あとはYouttubeのような映像メディアに無料で出てくればいい。NHKを収益モデルで考えるのがいけない。NHKがいやだという人は、新しい公共放送をつくろうとすればいいだろう。
SNSや既存メディアを単に批判するだけでは、現代の情報環境における複雑な問題は解決しない。重要なのは、つまるところ、それを受け取る私たち一人ひとりの姿勢であることは自明だが、そうした理想論をこいていても、なんにも変わらないどころか、悪化するものだ。
じゃあ、どうしろと。とりあえずブログでも書けよ、である。ブログとSNSやYoutubeとブログになにか本質的な差があるのか。デマを広げるという点では同じとも言えるだろう。ただ、20年以上もブログっていうところにいると、私はここにいるのだ。finalventの声はここにある。
長いことやってきたから、多くの間違いもそのまま残っている。その点では、私は密かに、NHKや朝日新聞なんかよりも、私のメディアが優れている面はあるかなと思っている。まあ、私なんかどうでもいい。ブログでなくても、Youtubeでもいい。𝕏(ツイッター)でもいいのかもしれない。それらをSNSという括りで見ずに、そこに、あの人がいる、この人がいる。あの人はこう言っている。それだけしかないんじゃないか。
デマゴーグも同じ地平にいる。それに人気があつまる。しかたないじゃないか。ただ、一人ひとりの「私」の声を消さない、それだけしか、このブルトーザーみたいなデマゴーグたちに立ち向かう方法はないし、私たち自身がデマゴーグである可能性は時間によって裁いてもらうしかない。
| 固定リンク