[書評] 「荒地の恋」(ねじめ正一)
いつからか文学賞というものには関心を失った。新しい作家のメディア的な登場やベテラン作家の新作などにも概ね関心なくした。ねじめ正一の作品はどうか。詩については彼が各種文学賞を取る以前の作品から知っていた。吉本隆明の講演集などをよく出していた弓立社『脳膜メンマ』も当時に読んだ。『高円寺純情商店街』のような小説を書くことも知っていた。村上春樹と同年代なので、つまり彼らが三十代前半だったころから知っていた。概ね私より10歳年上の世代である。それでもねじめさんの作品にはそれほど関心もなく、彼の書いた『荒地の恋』も知らなかった。そうした間抜けな状態で、5回ものにドラマ化されたものをぼんやり見始めた。落とし穴に落ちたように引きずり込まれた。
見始めは、田村隆一と北村太郎の痴話話というのも面白いかもしれないというくらいの思いだった。冒頭、朝日新聞勤め北村と鮎川信夫が、鮎川の外車に乗っている光景は、あの時代の記憶のある自分には懐かしい。反面、作り物のような映像には奇妙な滑稽さも感じた。その滑稽さの地続きで鮎川を田口トモロヲが演じているのだなと気になった。北村太郎を豊川悦司(トヨエツ)が演じる違和感よりも強かった。
田村隆一は「孤独のグルメ」の松重豊が演じていた。そのせいか、ずれたような滑稽さを覚え少し苦笑したものの、松重の口調は、私が知っている生前の田村隆一そっくりだった。松重は田村のはまり役に思え、ぐっとドラマに捕らわれた。全体を見終えてからも、松重の田村は印象深く残った。そのあと原作も読んだが、田村隆一を描くという点では原作よりも良かった。
背景を知らない人のためもあってか番組の紹介には、若作りを際立たせた鈴木京香の肩をトヨエツが抱くポスターふうの写真がドラマの表紙のように使われていた。原作の文庫のカバーもそれになっていた。なんじゃこれはと思ったが、そういう趣向、不倫恋愛ものというのだろうか、その興味で見ても良い映像には仕上がっていた。トヨエツと鈴木京香のカラミはなかなか綺麗に仕上がっていた。
北村太郎をトヨエツが演じるのかあという違和感は、田口トモロヲの鮎川よりも長く続いた。それでも北村については原作とモデルの年齢差の違和感は微妙にない。トヨエツも50代を迎えるからだろう。物語の始めの北村の年齢とほとんど同じである。そして、トヨエツは、男というものがわかる女ならこれはかなりぐりぐりと来るほどの色気があるだろう。羨ましくも思う。他方、鈴木京香の色気は、好きな人もいるだろうが、さほどでもない。が、高田博厚のお嬢さんらしい奇矯さはよく演じられていた。次第にこれもはまり役だったと納得する。余談だが、高田博厚の没年が気になったので調べたら昭和62年で、物語にちらほらと言及される理由に納得した。
鮎川のシーンに、いかにもインテリ風の老女が登場するが、微妙に役者に見覚えがあり、気になったて調べると、りりぃであった。恥ずかしながら、十代の私はりりぃのファンでもある。その感慨もあったが、つまりこれは、最所フミなのか。これもなかなかのはまり役だった。ドラマの後半では、鮎川と最所の関係は上手に描かれていた。そしてよく見ると、加島祥造も上手に登場していた。
その当たり、原作はどうなのだろうと確かめるように読んだが、最所については北村との関わりのなかできちんと描かれてはいたが、原作では「荒地の恋」という表題ではあるものの、荒地派群像の恋という広義の含みは弱かった。この点も脚本のほうがよく練られていた。余談だが、原作を買ってから、たまたまアマゾンの読者評を見たら猫猫先生が毎度のユーモラスな酷評を付けていて、いわく、ねじめ正一は会話が下手だとある。まあ、猫猫先生に異論を述べる蛮勇は私にはないが、原作の会話の大半は脚本に取られていて不自然感はなかった。
ドラマの評のような話になってきたが、北村の妻役の富田靖子も好演だった。映像では赤い靴下を強調しているので原作に対応があるかと気になったが、そうでもない。他にも、ドラマは映像配色は光景の切り取り方が美しかった。なかでも後半、老いていく北村が見る墓地の光景も美しい。きれいな映画を見た感も残った。
物語は後半、北村の若い恋人に焦点を当てていく。この老人と若い女性・阿子の性の関わりはとても面白い。作者ねじめさんの性を見つめる視線と言葉の運びに独自のエロスが感じられる。ドラマもここは上手に映像的に描いていた。村川梨衣という女優については何も知らなかったが、演技もうまくエロスの見せ方もよかった。田村の若い愛人役の前田亜季との演出の対比もよかった。
阿子という女性が実在したのだろうかというのは、原作を読む強い動機になった。自分の趣味からいえば、荒地派詩人の群像の恋愛劇への興味もあるが、小説としてみれば、老いた詩人と若い女性の性の関係を前面に描く作品のほうが興味がある。そうした思いのせいか、阿子の描き方には、原作もドラマもやや微妙なものが残った。モデル小説としての限界かもしれない。原作では阿子に北村の最初の妻の重なりを心象として描いていたが、ドラマでは出会いがしらの手へのくちづけという動作に変えた。この出会いのときにすでに阿子は既婚であったのだろうか。
原作では後半、田村の存在は背景に消えていき、北村の老いの内面に焦点を当てていく。上手に描いてはいるが、本当に老いた詩人の内面まで肉薄しているか、もう一つもどかしさも感じた。北村太郎という詩人の悪魔性のようなものにまではまだ十分に近づいていないようにも思える。この作品を書いたころのねじめ正一さんの年齢はだいたい今の私くらいなので、なんというのか、ようやく男の性の老いのとば口に立っているという限界のようなものがあったのではないか。
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