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2014.08.22

クラウド・ファンディング(crowd funding)を巡る無想

 考えがまとまらないだが、このところ思っていたことをとりあえず、書いておきたい。いちおう、話は、クラウド・ファンディング(crowd funding)と地域問題に関連する。
 クラウド・ファンディングとは、群衆(crowd)と資金調達(funding)から成る造語であるように、群衆から資金調達をする仕組みである。
 カタカナだと似てしまうが、クラウド・コンピューティング(cloud computing)とは直接は関係ない。こちらの「クラウド」は雲に例えたインターネットのことだ。ただし、直接関係ないが微妙に関係もなくもない。群衆(crowd)と資金調達(funding)するのには、雲(cloud)=インターネットを使うことが多いからだ。
 こうした基礎的な話は、このブログでくだくだ書くことでもないが、「なぜ、今、クラウド・ファンディングなのか」というと、いろんな議論があるが、私が注視しているのは、「これが資本主義(capitalism)の未来形」だという可能性だ。
 「資本主義」という日本語は「主義」とあるので、なにか思想の主張のように思う人もいる。だが資本主義(capitalism)というのは、資本という貨幣(G:Gelt)を、商品(W:Ware)に変え、さらに多くの貨幣(G')を生み出す、つまり、G->W->G'という貨幣増大化の循環の現象を指している(G'はGより増加)。一般的に英語の"-ism"には、"alcoholism(アルコール依存症)"のように、現象を指す意味合いが含まれる。
 この「G->W->G'」の構図はマルクスによるもので(ただし彼は"Kapitalismus"という語は積極的には使っていない)、彼の考えで重要なのは、商品(W)が「労働力(Arbeitskräfte)」でもある点だ。ここで人間疎外と資本主義体制の問題が関連する。別の言い方をすれば、W->G->Wでは生じない剰余価値(Mehrwert)のありかたが、この生産様式を含む体制のなかで問われることになる。単純に考えると、「資本主義(G->W->G')を排除すればよい」「資本主義の限界だ」という安易な議論にもなりがちだ。
 このあたりの議論はもっときちんとつめないといけないのだが、ざっくりと言えば、マルクスの考えの枠組みでは、生産様式に対して資本を担う資本家(Kapitalist)と労働力という商品を担う労働者(Arbeiter)がそれぞれ、人間のタイプ化である階級(Klasse)として固定的に扱われ、社会を構成する市民間の分断に重ねられている。階級間の闘争が市民間の闘争になぞらえられてしまう。
 実際には(その後の歴史発展では)、マルクス以降の資本主義社会では、資本家(Kapitalist)労働者(Arbeiter)は実体的な階級ではなく、資本主義の生産様式を担う機能単位となり、人間実体とは直接的には結びつかなくなった。ごく簡単な機能例でいえば、労働者がそのまま資本家となりうる。
 労働者が資本家になるという点では日本の戦後体制がそれに相当する。国家が主導し、労働者の富を利潤誘導した郵貯の形で収集・迂回投資させることで、資本家の機能を実現させていた。同時に資本家は国家に吸収されたので、冗談のようだがある意味で、日本で社会主義が実現されていた。
 だが問題が起きる。日本の特殊な国家社会主義が上手に機能すればよかったのだが、これもいろいろな議論があるが、実際のところ、この収集・迂回投資の機能が、労働者=国民=投資家と対立した形で、実体的な階級を形成してしまい、ようするに国家にむさぼりつく度合いで、国民間に実体的な階級が生まれた。またこの社会主義は列島改造論に典型的だが地域への再配分的な投資でもあり、地域が中央権力に結合した。かくして実質的な差別と非合理性が生じることになった。このシステムは同時に、暗部の富も生み出した。汚れ役のようなものである。日本という社会主義は必然的に暗部を必要するシステムでもあった。
 まとめれば、親方日の丸の度合いで日本国民間の貧富が決定づけられることになり、さらに、この国家システムの外部の暗部を吸収して富による社会暗部が形成された。
 さて、クラウド・ファンディングである。
 これによって群衆=労働者の富が国家を介さずに資金調達として資本化されれば、G->W->G'という資本主義の構図から、マルクス・エンゲルスのいう剰余・搾取は、国家の寄生者を介さず、再び労働者に還元されることになる。原理的にこの機構では国家を必要としない。これが上手に機能すれば、マルクスの予見とは異なったかたちで社会主義が実現できることになる……かに見える。
 この想定の時点でうまくいかない。投資が成功した労働者=資本家はよいが、かならず、投資の失敗者が出る。リスクが生じる。投資リスクは投資の知識を体制的に要求するので、貧富差は拡大する。また、投資に利用される貨幣は、原理的には国家から分離できても(ビットコインでもよいから)、実際には国家に依存するだろうし、国家はやはり投資市場のルールキーパーであることは求められる。
 うまくはいかないだろうなと、ぼんやり考えていたのだが、この文脈からもう一つ考えていたのは、こうした場合のクラウド・ファンディングの投資規模は、基本的に地域に限定したらよいのではないか、ということだ。簡単な例でいえば、市町村レベルで限定し、地域コミュニティだけの投資に限定したらよいのではないか? 投資の失敗や貧富差は緩和されるのではないか。
 もちろん、それですべて解決するわけでもない(経営知識や技術の問題も残る)が、地方行政のかなりの部分は補えるだろう。もちろん、投資の元になるその地域の富そのものが枯渇している現状はあり、当初は国家を迂回した地域補助金ようなものも必要だろう。
 というあたりで、地域行政の基本をそのままクラウド・ファンディングにしてしまえばいいんじゃないかと、思いついて、ぼんやり考えていた。
 さらに、そうした限定された地域というのを、クラウド・ファンディングをベースにして、逆に市民を流動的にしたらよいのではないだろうか。どういうことかというと、たとえば、この村で電気自動車を作りたいという人がクラウド・ファンディングで資金を集めて、その村に移住して生活するというものである。
 考えてみると、昭和の日本も、工場を中心に市町村が形成されてきたし、原発などもそうした市町村の構成原理でもあった。
 まあこれも、地域愛とか既存の地域の権力関係で齟齬は生じるだろうが、理念的には可能に思える。
 まとめると、クラウド・ファンディングをベースにした地域的な活動を通して、コミュニティを再編成していくといいんじゃないかということだ。くどいようだけど、地域活性とか地域を生かしてという地域ベースではなく、クラウド・ファンディングの投資対象の理念から逆に新しく地域を形成・再形成していけばいいのではないかということ。ここに村作っちゃえとかいう感じ。
 
 

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コメント

ブログ主はいったい何を言いたいのか、はっきりいってよく分からん。
あれこれと断定しているが、その根拠となるソースが全く示されていない。
ただ恰好のいい抽象的な言葉に惑わされて、ブログ主本人の論理的脆弱さに気付かないのだとしたら、これはお笑いだ。俺にはインテリ気取りのおっさんの戯言にしか聞こえない。
果たしてこれを読んで「なるほど」と心底惹かれる者はいるのだろうか?
もしいれば、それはサクラだろうね。

投稿: とある日本人 | 2014.08.23 20:32

カマコンバレーと云う社会起業家育成プログラムが、iikuniと云う地域限定のクラウドファンディングとほぼ一体なのは、そういうことなのかもしれないですね。

投稿: 小林敬 | 2014.08.31 12:43

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