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2007.06.05

[書評]「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート(コリン・ジョイス)

 昨年末に出たNHK新書の『「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート(コリン・ジョイス)』(参照)をふと思い出して読み返した。面白い。なんど読んでも面白い。簡単にも読めるけど、深く読める部分も多い。ニューズウィークのコラムと重なるネタも多いけど、この本でまとめて読むとけっこうも味わいが深い。個人的にはなんとなくロバート・リンドの随想も思い出した。

cover
「ニッポン社会」入門
英国人記者の
抱腹レポート
コリン・ジョイス
 コリン・ジョイスは、略歴を見ると、1970年ロンドン東部のロムフォード生まれ。オックスフォード大学で古代史と近代史を専攻とある。若いなと思うしエリートだなと思う。来日したのは92年とのこと。この間、太ったという話も最近ニューズウィークのコラムで読んだ。なんとなく日本生活でのプライバシーのある側面が気になるが、まあ気にしない振りしておこう。
 本書はいろいろと興味深いエピソードが多い。若い英国人は現代の日本をこう見るのかという示唆は当然として、意外と彼が自身を英国人だから感じるだろう異和感が、私などべたな日本人にとっても異和感に思え、共感する面も多い。
 たとえば、日本人のブランド品好み。

 また、ぼくは日本の人たちがブランド商品を欲しがり、それを身につけることに躍起になるのが不思議だったし、丸一日、ショッピングに費やす人がいるのも理解できなかった。ぼくは知り合いの日本人に「ルイ・ヴィトンのバッグを持ったところで、人柄に深みや幅が出るわけではないでしょう。だったら、ヘルマン・ヘッセでも読んでみたらどうですか」と説得してみたのだが、無駄だった。誰もぼくの言いたいことをわかってくれなかったのである。

 ビールについてもそう。日本にはなぜビールの種類が限定されているのか。飲み屋のメニューについて。

(前略)何十種類もの日本酒が載っているのに、ビールがたった一種類しかないのはどうしてなんだろう? なかでも最大の疑問は、どうしてどれも似た味がするのかということだった。いったいどれだけの人が、ラベルを見ないでサントリーとサッポロを正しく飲み分けられるだろう? ビターやエール、スタウト、ラガーといった多様なビールの味に慣れた舌にとって、サントリーとサッポロの違いを云々するというのは、オーシャン・グレイのペンキとミリタリー・グレイのペンキを区別するようなものだ。絶対にラガー以外のビールを飲んでやると決心したぼくは、一度、三ツ矢サイダーの缶を買ったことがある。そして、日本のサイダーはリンゴを原料にしたビールではないということに気がついたとき、ぼくはもう泣きそうになってしまった。

 名調子。
 だが、ジョイスの筆はありがちな外国人が見る日本に留まらない。先のブランド品好みついていえば、いつのまにか英国人もそうなっていることを彼は知り、英国が日本化しているようすも理解している。ビールについてはその後、日本にもバラエティが出てきてかなり満足したご様子。よかったね。
 外国の人にとってエキゾチックに見えた日本文化が、現在英国と限らず世界の文化にじわじわと影響を与えている。だが、世界が日本に単純に関心を持っているわけではない。そのあたりの、英国から見る日本のイメージのギャップについても、かなり詳しく本書に描かれている。簡単に言えば、英国人は日本に関心を持っていない。
 特派員としてのジョイスはそれゆえ英国メディアが求めるタイプの記事を書くことを強いられ、そして書いていた。彼は本書で、「悪いのはぼくだ」と書いているが、そのあたりの内実はなかなか興味深い。

 一度、ぼくは自分用のメモとして、日本の記事を担当するデスクが好むトピックのリストを作ってみたことがあるが、もう捨ててしまった。何がデスクの気に入るか、もういちいち紙を見るまでもないからである。第二次世界大戦、相撲、ヤクザ、芸者、皇室、女性、若者文化、憲法第九条、奇妙な犯罪だ。このほか、面白い展開があれば記事としてふさわしいと思ってもらえるトピックもいくつかある。パチンコ、宝塚、着物、演歌あたりがそれだ。

 BBCを見ているとあと二つ、捕鯨と英国女性殺害、を加えてもよさそうだが、いずれにせよ特定の話題の記事しか特派員には求められていないし、苦労して真相を書いてもずたずたにされて掲載される。保守的なテレグラフでこれだから、リベラルなニューヨーク・タイムズになると、なるほどミツノリ・オーニシが阿呆が記事を書くわけだよな。

 また、二〇〇五年、中国から反発を買い、国内でも議論を呼んだ歴史教科書の記事を書いたときのことだ。デスクはぼくの原稿の微妙なニュアンスをすべて吹き消してしまった。あれでは記事を読んだ読者は誰ひとりとして、日本には幅広い種類の歴史教科書があること、その中で図抜けて議論を呼んだ教科書を採択した学校は、これまでのところ日本全国で一パーセントも満たないということをとても理解できないだろう。

 ジョイスはこれに怒りちょっとしたユーモアの実力行使をするのだがそれについてはここで触れない。
 こうした奇妙な日本記事しか求められないということの背景には、やはり日本が英国の関心をひかない存在になったということが大きい。だが新聞論としては、それでもテレグラフの記事の多様性を彼は評価している。

日本人の知り合いに『テレグラフ』を見せると、みんな記事のバラエティーの豊かさに目を引かれるようだ。硬い記事もあれば、軽い記事もあり、長い特集記事や別立てのスポーツ面もある。

 日本の新聞についての彼の評も興味深い。

 日本の新聞には見習うべき点が多い。広く張り巡らされた記者のネットワークに支えられて、基本的には信頼は高いし、職業倫理もしっかりしている。

 そしてジョイスは日本の新聞がなぜすばらしいかの本質をずばりと言い当てる。

さらに素晴らしいと感じるのは、その読者層だ。一億二千万人の人口の国で、毎日二千四百万部を越える一流紙が購読されているというのは、国民の教養と公的関心の高さの表れだろう。イギリスの人口は日本の約半分だが、イギリスの高級紙は四紙合わせても(『デイリー・テレグラフ』、『タイムズ』、『ガーディアン』、『インデペンデント』)、その発行部数は二百万部をかろうじて越える程度にすぎない。

 日本の新聞が二千四百万部というのはちとホントかなと普通の日本人は思う。あれが一流紙かとも疑問に思うが、ここはタブロイドではないというくらいの意味だ。高級紙ではないし。いずれによ、日本の新聞がすばらしいのは、読者層がすばらしいからだ。それで、ある一定の記事の質や記者の質を維持している。逆ではない。逆だと思い込みたい向きもあるだろうけど。
 関連して、ジョイスは触れていないが、日本の新聞は戸配だということも重要。集金・収益のシステムが完備しているのだ。いや、完備とは言い難いがそれでも、収益面はかなり紙面の質や記者の質とは切り離されているので、記者は高給取りサラリーマンになっている。それが全面的に悪いわけでもないが、そういう構造があるから、日本の聞屋はわかっていても社会の空気が醸し出されてないと書けないことがいろいろあるものだ。
 でも、ジョイスは書いていた。
 私が、コリン・ジョイスを立派なジャーナリストだと思ったのは、「極東ブログ: 女王陛下、英国大使の野上義二でございます」(参照)で触れた野上義二の記事がきっかけだ。日本の聞屋たちは叩けるときは野上義二を叩いておきながら、英国大使昇進のときは批判をネグりやがった。「やっぱ、ばっくれやがったか、日本の聞屋」と思ったので、私はジョイスの心意気に応えるべく先のエントリを書いた。もっとも聞屋から見れば日本のブログなんてクズだ。読む価値もない。でも、グーグル様はそう見てないっぽい。野上義二で検索したら現状ウィキペディアについで第二位(参照)。え?グーグルだってクズだろってか。

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コメント

主には最後の数行だけへの関連なのでできるだけ短めに。

最近、GoogleやWikipedia(のようなメディア)がどうすれば
そのautonomyを保った状態で今後存在し続けられるかをよく考えます。
「フィードバック」が鍵だろうと私は思っています。「アテネ」とか。

詩になってしまってすみません。

投稿: L | 2007.06.05 21:08

直結はしないかもしれませんが。政治家の三親等内(姻族も含めて)、三世代の世襲を禁ずることで日本の談合や政治、社会も良くなるのではと思ってます。権力中枢には政治家とマスコミが巣食う世の中。格好付けて苦悩振りしてる政治家みても何とも稚拙でなりません。何も欧米に倣う必要はない。世界の模倣になりましょうよ。

投稿: アカギ | 2007.06.06 23:39

新聞とテレビが破壊された時、日本は本当の格差社会(ちょっと世間やネット上の定義とは違う意味で使っていますが)が訪れるはずだと思っています。

投稿: 無粋な人 | 2007.06.07 12:52

ブランド品についての本心って、どこにあるんでしょうね?
日本にしろ英国にしろ買う側のあり方だけでなく
会社側の販売戦略がどんな層をターゲットにしてきたのかの変遷に興味があればいいんですけど。
ヴィトンなりエルメスなりが、日本に店舗をいくつ持っていて、1アイテムを各店何個置いているか、そして世界各国に店舗がいくつあるかを考えてみると、結構な数作られているのが解ります。価値と個数それぞれの意味を、買う側やジャーナリストより会社が作っています。
ブランド会社がプライドとビジネスの折り合いをどこにつけていて、伝統と大衆の折り合いをどこにつけているのかまであれば、面白いんですけど。
ある方向にブランド幻想を持っている人は、その幻想に反している目に見える部分だけを非難するんですよね。

投稿: てんてけ | 2008.09.05 10:23

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