[書評]戦争を知るための平和入門(高柳先男)
筑摩ライブラリーのごく一般向けの平和学の本ということもあり、読みやすい。私はこれを偶然買ったのだが、おもしろかった。
戦争を知るための 平和入門 |
平和学というと、平和主義のような理念が先行するようなイメージがある。学派の主導者によって主張の相違もあるのだろうが、概ね、一種マクロ経済学のようにクールな学問領域のようだ。が、著者は、わかりやすく、自身の立場をあえてこう言っている。
ぼくは平和研究者であって平和主義者ではありませんから、人間というものは戦うものだと思っています。いかに戦わせないようにシステムを作っていくかということが大切なのであって、戦いそのものをなくすことはできないと思っています。
平和学とは、この「戦わせないようなシステム」のための冷徹な学問だと言っていいようだ。平和の希求だけでは平和が実現できないというのは、ごく当たり前のことだが、日本ではなかなかその当たり前をきちんと認識しづらい空気がある。
この当たり前から導かれることは、さらに、日本人には当たり前ではないのではないのかもしれない。コソボの戦略爆撃を念頭において、著者はこう言っている。
人間の尊厳のために戦わざるを得ない場合があります。平和の問題、国際社会の問題を考える場合に大切なことは、そういう羽目におちいった人間と、おとしいれた側が同じ地平で、同じ痛みを記憶することです。ところが、戦略爆撃というのは非対称的です。
少し抽象的なの言い方なので、別の文脈を補足する。
リアリストの国際政治学者、ハンス・J・モーゲンソーが原爆(核兵器)を非常に厳しく批判しているのは、人間は戦争によって死ぬかもしれないけど、自分はなぜ死ぬのか、なぜ殺されるのか意識できる、そういう戦争はいい、しかし、戦略爆撃(その頂点に核攻撃があるわけですが)では、自分が何のために死ぬのかわからない。死んだという意識すらないうちに死んでしまう。戦略爆撃というのは、人間の尊厳を一瞬にして奪ってしまうのです。
解説しないほうが大人らしい態度かもしれないけど、解説すると、戦争をするなら、武器を持って向き合って、ドンパチやれ、ということだ。双方に死者を出す戦いはよいのだ、ということだ。それが人間の尊厳でもあるのだ、というのだ。
著者は今日のテロとの戦いの時代にまで生きていないのだが、生きていたら、今日のテロリストとの戦いにも同じように言うだろうと信じる。非戦闘員を政治的な主張のために殺すことは、人間の尊厳に対する冒涜である、と。双方に死者がでる戦争のほうがよいのだ、と。
これが、ある意味で、平和学の原理なのだと知ることは、私には少し驚きだったし、世界というものがすっきり見えるように思えた。
先の、よくない戦争の原理性である「非対称性」については、さらに、こう主張が続く。
そして、地球上の一方でたらふく食っている人間が、チャリティでお金を出すというのも、非対称的すぎるわけです。そのような非対称的な世界を、「人道的」とか「地球市民」とか、きれいごとの言葉で覆い隠していることが多いのです。そういう非対照的な世界を覆い隠すような、きれい事の学問を作ってはだめなのです。
現代日本の状況で言うなら、安全な日本の場で「平和を希求する」というだけの主張も、そうした非対称性に含まれるだろう。おそらく、その平和の貢献に対する対称的な痛みというものが必要になるのだろう。私たちはそこを事実上逃げているのだが。
さらに私に決定的だったのは、次の主張だった。
人道とか人権をふりまわすと、そのうち手垢がつく。そうすると政治の道具でしかなくなり、人道の名のもと、無告(ママ)の民が犠牲になるということがおこってくる。第三者が大義名分を振りかざして犠牲者を増やすよりも、当事者同士を消耗するまで戦わせる、というリアリズムが必要です。
基本的に民族紛争というのは、非対称的な世界の枠をはめなければ、当事者同士が死ぬまで戦ってもいいし、それが彼らの尊厳でもある、というわけだ。なるほど、そうとしか言えないと私は考えるようになった。
問題は、現在世界のそうした戦争をどうとらえ直すかでもある。端的に言えば、非対称的世界の大枠として米国の強大な力が問題だとも言えるだろう。
残念ながら、本書でいう平和学は、基本的には、冷戦までの世界構造しか対象にしていない(内戦への考察はあるのだが)。別の言い方をすれば、それは、核の脅威との対応と言ってもいいだろう。その限界については、著者が率直に述べている。
平和学は、核時代の紛争をいかに回避するかということについては蓄積があります。しかし、核時代ではない時代の戦争について平和学はそれほど知識を蓄積してきたわけではありません。平和学に限らず内戦に関する研究は、国家間の戦争に関する研究ほど多くなされてきているわけではありません。しかも、今日のように国境を越えてさまざまなアクター(行為主体)が交錯するグローバリゼーションのような、世界を一体化してしまうような構造ができつつある中での内戦というものは、新しい問題を生みだしています。そういう意味で、これは平和学にとって非常に大きな課題です。
そして世界はその後、9.11を契機に、グローバルなテロとの戦いというまったく新しい危機に直面するようになった。こうした状況に、現代の平和学がどのように取り組んでいるのかは、この本からはわからない。
具体的にイラク戦争という状況で見ると、「アラブ政治の今を読む」などからは、テロとの戦いを新しい戦争とみる視点なども紹介されているものの、まとまった学説とはなっていないようすがうかがえる。
軍事の側も、実は、まだグローバルなテロとの戦いにシフトしていない。特に米国での不備が今回のイラクの惨事を招いているようにも見える。大量の余剰の兵力を駐屯させつつ、実際の治安に使えない。しかも、実際の治安には傭兵を使っているという最悪の状況だ。
本書は、こうした限界がありながらも、平和学というものを考えさせる素晴らしい契機になると思う。特に、先の非対称性の指摘や内戦の原則などの延長として、戦争を生み出す構造として、貧困といった古くさいマルクス主義的な説明を越える枠組みも暗示している。日本の左派の「平和勢力」とやらがこの十年理論的に沈滞している状況のなかで、もっとプラクティカルな平和学が若い世代に根付くといいとも思う。
いずれにせよ、広く読まれるべき本だ。
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コメント
あ・この本知らなかったです(こっぱずかしい..)
そして、内容的に激しく同意です
特に
>戦争をするなら、武器を持って向き合って、ドンパチやれ、ということだ。双方に死者を出す戦いはよいのだ、ということだ。それが人間の尊厳でもあるのだ、というのだ。
の辺りが..
(ぼく自身の暴力とか戦争の解釈というのもこういうものだったので)
あと、やはり最近の平和学の停滞についても同じ感じです
個人的印象ではパグウォッシュ会議以降全然進んでない感じがします
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4876992002.html
投稿: m_um_u | 2004.05.03 10:54
とりあえず、この本読んでみます。
投稿: らした | 2004.05.03 11:09
爽快な感じです。いつも勉強になります。非対称性にはアメリカのスーパーパワーも含まれ、テロも含まれ、実体なき平和希求も含まれるのだなぁと。
日本って原爆=戦争(これらを一緒に扱っている節がある)の悲惨さを忘れないように語り継ごう、二度と戦争のない、第九条の尊さ、みたいな思考停止を余儀なくされるような教育があって、戦争の必然性とか、民族(人間)の尊厳とか、そういうものに無感覚な感じです。自尊心とか厳しさですよね(そのまんまです)。だからテロがおきても、テロリストの心情論に移ってしまうヤバイ空気があるのかと。こんな状態でアメリカ云々と言ってもなぁって。(でもこれってGHQがまさに狙っていたこと?)日本はそれを言う前に日本民族の尊厳ってものを考えなければならないはずで。つきつめていって日本は軍をもつべきかどうか?っていう問題になるのかなって直感します。
それと、酷い言い方かもしれませんが、中東ってのは歴史的にある程度争いあって当然というか、それが現状では健全なのかなとも思います。これを止めることができる対称性のあるもの(しくみ)ってないのかな?
投稿: (いちげんさん ) | 2004.05.03 13:55
↑すみません。名前抜けました。
投稿: いちげんさん | 2004.05.03 13:55
非対称性に「蒙古軍に対する一騎討ち」イメージしちゃうとまた可笑しくなってしまいそうですね。総力戦での戦略爆撃っていうと、これもまた東京大空襲ってなところに飛躍してもちょいと違うような気がします。
本来後方の軍需工場破壊だったはずで、非戦闘員殺戮は一次大戦以来の武器能力向上からくる「事故の巻き添え」的な許容範囲以外は考慮外だったのではないでしょうか。
でも国力の差を考慮すると、一人一人の兵士の命の値段も当然大きな格差が厳存するでしょうし、特に民主主義国であって兵士の家族やら兵士予備軍の国民に投票権があると継戦も難しくなるから「被害の非対称性」の魅力は大きいかもしれないですよね。ここに人種偏見が加わると天秤は案外容易振り切ってしまったのかもしれませんよね。ルメイは東京大空襲を渋る爆撃隊員に、各家庭で内職で銃弾造ってるのだから工場同然なのだと説得したとかしなかったとか、とにかく命令したわけです。
でも念仏平和教より遥かにまともな視点だと思います。
投稿: shibu | 2004.05.03 15:12
shibuさん、どもです。平和学にもいろいろあるのでしょうが、戦いというのものを前提に置く、戦いの意義を人間の尊厳から考える、そういうことからは、なるほど、こういう対称性という考えや、内戦は当人達にやらせとけ、ということが導かれるというのは、私には驚きでした。どこかに絶対的な平和の原理のようなものがあるかという刷り込みは強いものでした。考えてみれば、日本人は侵略はしないものの、防御には命を張るわけです。
ただ、shibuさんもご指摘のとおり、この原則的な考えは、現代世界の現実には通用しません。イスラエルとパレスチナなど、かたや核は持つはアメリカはついているは、です。ただ、逆にいうと、核を牽制し、諸国がアメリカの足をひっぱって、あとは当人達がやれ、ということは言えるように思います。
ちょっと自爆発言ですが、アメリカがスパーパワーになるがゆえに、無理ともいえる対称性の要請として現代的なテロリズムが出てくる、という、そういう構造は想定できるのかもしれません。すると、テロリズムで死ぬということも、どこか「戦死」の意味合いはあるのかもしれません。
私などは、「テロリズムは断じて許せない、テロリズムは人間の尊厳への冒涜」と言うには言うのですが、現代世界の大枠がそういうものであれば、その枠のなかでのテロリズムというのは結果面だけ見れば、「戦死」に換算可能なのかもしれません。
冷徹な見方をすると、そういう構造モデルを立てることで、マジで「テロとの戦い」が、新しい時代の戦争のタイプとなるのかもしれません。
というか、多分、未来はそうなるように思えます。日本人も含め、強い国家は、「テロに屈しない」と言わなければならないのですが、その言える度合いが、まさに対称性の補正なのかもしれません。
ぞっとしますし、自爆的発言ですが。そう考えることは合理的な気がします。
投稿: finalvent | 2004.05.03 16:45
finalventさん、
なんか↑のコメントを読んですごく腑に落ちました。自分のブログでいま記事をひとつアップしたのですが、その前にこのコメントを読んでおけばよかったと後悔をすでにしております。ありがとうございます。
投稿: ひでき | 2004.05.06 18:25
>人道とか人権をふりまわすと、そのうち手垢がつく。そうすると政治の道具でしかなくなり、人道の名のもと、無告(ママ)の民が犠牲になるということがおこってくる。第三者が大義名分を振りかざして犠牲者を増やすよりも、当事者同士を消耗するまで戦わせる、というリアリズムが必要です。
本日やっとこの本を手に入れ、目を通していますが、
>基本的に民族紛争というのは、非対称的な世界の枠をはめなければ、当事者同士が死ぬまで戦ってもいいし、それが彼らの尊厳でもある、
というfinalvent的な主張を故高柳氏がしているのか、私は疑問に思わざるを得ません。
上記の文章は高柳氏がコソボ紛争について書かれた文章ですが、この前に高柳氏が一章を割いてコソボ紛争のケーススタディを載せていることに注意すべきです。
高柳氏がこの一節で一番主張したかったのは「当時者同士を戦わせて結論を出させよう」という部分ではありません。この本の構成を考えた場合、高柳氏の強調している部分は「国際社会とくにアメリカとEUの一面的な善玉・悪玉論による介入によってコソボは解決が不可能になった」だと思いますが。
投稿: (F.Nakajima) | 2005.08.18 22:19
名前が抜けましたな。
投稿: F.Nakajima | 2005.08.18 22:21