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三発目の原爆は日本に落ちる
ヒロシマ、ナガサキから六十年。折り返し地点である半世紀を過ぎて早や十年。特にここ数年で五十周年を記念した十年前と「戦争」にたいする社会の空気が明らかに違う。それが何を意味するのか分からない(短絡的に「軍国主義化への道再び」とは言わない。そんなことは有得ない)。しかし近世以降の日本人は明らかに何かが狂ってしまっている。そして基本的にその「狂い」は今でも温存されていると思わざるを得ない。
森有正のエッセーに、あるフランス人の女学生と雑談の最中に「三発目の原子爆弾は日本に落ちると思います」といわれて絶句してしまう場面がある。森が絶句したのは、彼女の言葉が思いもよらなかったからではなく、その反対にまったく当然のことのように納得できてしまった自分自身に驚いたことが原因だった。それはなぜか、というところに森の思索の核心に触れる部分があるのだが、簡単に言ってしまえば、日本人には自己規定能力が欠如しているということ(詳しいことはちくま文芸文庫の「エッセー集成 五巻」を参照)。 それは己自身で自己を規定し、そして環境に即して自律的に自己修正を行っていくこと。日本人のあり方を森は「二項方式」と名づけているが、常に他者を介在した規定によってしか己のあり方を図ることができないことである。まず個としての己があってその後他者に出会うのではなく、他者がいなければ己もないというところに「日本」の問題がある。森は一項方式に触れると二項方式はかならず崩壊するともいう。 これまでの日本人は慣性・惰性的全体主義の画一性においては絶大な生産性を発揮する能力があるが、向かうべき方向を変更する自己修正能力には全く疎いこと、そして圧倒的他者の介入なしには自滅するまで修正できないこと。「原子爆弾」とは象徴なのか、もしくは米・中・朝のいずれのものであれ文字通りの「そのもの」なのか否かは落ちてみるまでわからない。落ちてはじめてそうだったことに気がつく。 すみっこ(ウクライナ)で見た、聞いた、考えた
by exist2ok
| 2005-08-12 21:10
| 雑感
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