本エントリーは、日垣隆氏の「すぐに稼げる文章術」(幻冬舎新書)上に発生した盗作問題を検証し、若干の事実経過を報告するためのテキストです。
ことの経緯
1.2001年9月19日「ぎりぎり合格への論文マニュアル」初版発行・平凡社新書・山内志朗著・現慶応教授
2.2006年11月30日「すぐに稼げる文章術」初版発行・幻冬舎新書・日垣隆著
3.2007年5月、小石川雑記ブログにて、日垣本に山内本からの盗作箇所があることが告発される。
4.2007年6月、日垣隆ヲッチャーの大石英司ブログに小石川雑記ブログよりトラックバック。
5.2007年7月、大石英司、当ブログに日垣本の盗作を検証する素材をアップ。
6.同時に、一方の当事者である山内氏とコンタクト。
7.山内氏が盗作と認定、平凡社から幻冬舎へ抗議。
結論を書きます。これは盗作です。盗用です。インスパイアされたとかのレベルをさっくり越えた実にあっけらかんとした盗用です。悪質さの度合いで言えば、かなり悪質な部類に入るでしょう。なぜなら、日垣氏の著作のこのパラグラフは、山内氏の著作なしには成立し得ないから。
引用の分量としてどうなのか? という部分で、一定の議論はあるでしょう。私個人は、量の許容範囲としても、引用として許される分量を越えていると思います。それはどういう判断要素が入るかというと、たとえば、これを山内氏のオリジナルであることを本文中で明記した上で、紹介することが出来るかと言えば、無理だと思う。引用文として紹介するにも、業界内の暗黙知的分量の限界はあるわけです。ここまでならOKだけど、これはちょっと……、というボーダーが何となく存在する。それを相当逸脱していると思えるからです。批判や論証のための引用ならそれは拡大解釈されるけれども、そういう性格の論考でも無い。まさに山内氏の文章をリピートしただけのテキストです。そして、山内本なしにはこのパラグラフ自体が存在し得ない。逆に言えば、これを書くために、誰かの著作から引用するということを明記出来なかったから、盗用という形になってしまった可能性はある。
つまり、行為の表現を和らげて、「無断引用」事件とするにも無理があるということです。もしこれをして「無断で引用してすみませんでした」で済めば、この世界は無断引用本だらけになる。これは悪質な盗作事件です。
話が前後しましたが、事情が分からず、初めてここを訪れた方のために経緯を記します。これは、私が「小石川雑記」ブログからトラックバックを頂戴したことに端を発します。それは、日垣隆が他人の本から盗作している、という告発でした。
*小石川雑記
http://blog.goo.ne.jp/keisaburi/e/d271e8ffaaa6e1d6f421c6eb64a72b2d
トラックバックを貰った時点では、正直、良く解らない……、というのが私の感想でした。しかし両者の著作を入手して読み比べた所、これは誰にでも解る明白な盗作だという結論を下さざるを得ない。
微妙に改変された箇所はあります。たとえば山内本では↓
「~はバカだ → ~の見解には再考の余地が残る」
と書いてある部分が、日垣本では↓
「小林はバカだ」(エッセイ)」→「小林の見解には再考の余地が残る」(論文)
となって、山内本では「~」だった部分に「小林」という固有名詞が入っています。ただ、一読して解るのは、山内氏のこの本のテキストから、丸々移されたものが種本になっただろうということです。ただし、他にこれを種本にした本があって、それを孫引きする形になったのかも知れない、という疑いは残ります。それで盗作の罪が軽くなるわけではありませんが。
それで、ここで初めて明らかにすることですが、私は、もう一方の当事者である山内氏の見解を聞きたくて、先週コンタクトを取りました。山内氏は今、慶應の教授をなさっています。私がコンタクトを取るまで、こういう事態が起こっているということをご存じなかった様子でした。それで山内氏は、日垣本を速攻入手し、これは盗作であろうという判断を下し、版元の平凡社が会社として幻冬舎に抗議することになりました。私がこの記事を今日まで引っ張ったのは、別に私が多忙だからではなく、それらもろもろの動きが水面下で進行していたからです。たぶん今週の幻冬舎はてんやわんやでしょうね。弁護士を経由しての抗議だと、もう少し時間が掛かるでしょうが。ただ、あまり詳しいことは書けないけれど、幻冬舎は今責任を取れる態勢が全くありません。果たしてどうなるのか。
それで、山内氏の説明によると、このネタは偶に講義で使っていたネタであり、私のオリジナルです、類例は恐らく無いでしょうと。感想としては、そこは大人であり、アカデミズムのお人ですから、「悲しいですね」と……。
私がもうひとつ悪質だなと思うのは、山内氏の著作は、論文ではないにせよ、やっぱり産みの苦しみはあるわけです。そこはわれわれフィクションの物書きが、ただ升目を埋める目的のためにだらだら長文を書き殴ったのを、誰かがコピーしたというのとは訳が違う。長い時間を掛けて、ツボを抑えて、学生の反応を見て推敲を経て、思索を深めた果てに、ああいう面白い対比や文章が完成するわけでして、それをさらりと盗用するのは、これは表現者のモラルとしていかがだろうかと思います。
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問題は、何故にこのような事態に至ったか? です。私は、起こってしまった事態に、盗作してやろう、という日垣氏の明白な意思があったとは思いません。悪質ではあるけれども、悪意があったとは思えない(ま惻隠の情ね)。まず直接的な原因を探りましょう。
以下に掲載する文章は、日垣本のラストに4頁ある後書きの後半2頁分を文字起こししたものです。
【 さて、私が全文を書いて毎週配信している有料メルマガ「ガッキィファイター」の読者限定で、「すぐに役立つ文章講座」というものを東京都内で開催しました。そのときの私の話や、メモや、参加者からの質疑応答や、参加者が提供してくださったサンプル文をもとに、とても実践的な「全記録」が仕上がっていました。
講座の参加者と、そして実践的な文章を提供してくださった方々に心から感謝申し上げます。
その「全記録」を何度も何度も(!)書き直してくれたのはライターの荒井香織さんです。
文章術の本であるにもかかわらず、話しているようになっているのは、私のせいではありません。冗談です。文章術の本を、話すように仕上げられたらと私が望んだのでした。
ちなみに、完全な「語り下ろし」と言えるのは、何章かわかりますか?
こんなところでクイズを出している場合ではありませんが、答えは、おそらく意外にも、第7章「文章で稼ぐための必読33冊」です。
本書はそれらを核として、大幅に削除し改稿し加筆して、生まれ変わりました。メルマガで書いたものも一部収録されていますし、もちろん書き下ろした部分もたくさんあります。
これらの「ちょっと多すぎる素材」を前に、ああでもないこうでもないと構成を考えているとき、第2章から第4章までを初級-中級-上級編に仕立てようと思い立ち、その後は一気に(半日くらいで)作業が進みました。初級や上級といっても、習熟度や経験年数のことではなく、あくまで稼げるかどうか、という一点に絞りました。
それらの各論を、第1章と第5章のノウハウ的な総論で挟み、第6章だけはライター向けに実際やったQ&Aを、そして必読文献リストを付けよ(付けていただければ幸いです、かな)という幻冬舎の小木田順子さんの強い要請により第7章が成りました。】
1.まず変なのはここ↓。
【 とても実践的な「全記録」が仕上がっていました 】
悪文の見本ですね。日本語の悪い所ですが、主語が無い。「仕上がっていました」。誰がいつ何を仕上げたのか? 曖昧。言いたいことは大凡解るにせよ、結果的に責任の所在が惚けている。あるいは意図的なのか……。後書きの前2頁から繋がっているのではないのか? と疑いを持つ方もいらっしゃるでしょうが、私が読んだ限りでは、そんなものはありません。
2.可能性としては、過去に読者らが日垣氏の元に持ち寄ったという資料にそれが紛れていて、出典云々を考えずに、それを採用したのかも知れない。しかし、不特定多数の読者に著作権の厳密な概念を求めるのはいささか無理があり、またこういう形でそれが将来商品化されるだろうことを読者は想定はしないだろう、ことを考えると、読者が誰かのテキストを孫引きする形でその場に提供しても、これは非難は出来ない、と思う。
あるいは過去メルマガに紹介して書いたものを、その時は出典を認識していたけれど、いざこうしてペーパーにする段になったら、自分のオリジナルだと錯覚したのかも知れない。これはちょっと、彼のメルマガに検索を掛けてみないとはっきりしません。
3.「本書はそれらを核として、大幅に削除し改稿し加筆して……」
たとえば、ここで言う「それら」を33冊の参考文献に限定すると、この33冊の中のどれかの著作物に、山内氏の著作からまるまる引かれたものが入っていて(それにしても他人の本を削除だの改稿だの加筆は拙いだろうからw、ここに連携は無いと見るべきか?)、日垣氏はそこから孫引きしただけ、という可能性は十分にあり得ます。ただ、参考文献はあくまでも参考文献であって、このような形での引用に関しては、逐一、誰それの本から引用する、ということを本文中に明記すべきだと思う。ひょっとしてこの本は、他人の本からの美味しい所取りですか?
4.一番肝心な問題は、いったいこの本は、実際は誰が書いたのか? です。「ライターの荒井香織」なる人物なのか? それとも日垣隆ご本人なのか? この荒井香織なる人物をググッてみると、有田氏のブログにも登場する。どうやら駆け出しのライターさんでは無いらしい。日垣本を読むと、恐らくは日垣氏本人が書いただろう箇所もあれば、日垣氏の普段の皮肉一杯の文体を離れて、無味乾燥且つ感情や著者の主観を排したパートもあって、これが日垣氏以外の人物の手によって書かれただろう部分を推察することも出来ます。問題のパートはどうか? となると、これはちょっと私には解りません。
さて、間接的な原因です。日垣氏も作中に書いているように、今文筆家を取り巻く状況は非常に厳しいと思います。とりわけノンフィクションやジャーナリズムの世界は、取材に金だけ掛かって、まずリターンは見込めない。そんな中にあって、日垣氏は超売れっ子のライターと言っていいでしょう。何せビジネスクラスでネス湖観光に行けるご身分らしいから。遺憾ながら粗製濫造の極みにありますが。
日垣氏は自分が抱えている締切をいつもメルマガに書いていらっしゃいますが、率直に言って真面目にその仕事量をこなすなら、その半分も無理でしょう。それだけではなく、彼はしょっちゅう海外にも出ている。その時間ロスを考えると、自分一人のワークロードでこなせる仕事量ではありません。
人並み以上の稼ぎを得ようとすれば、いささかずっこい手法に頼らざるを得なくなりつつあるのが、今の文筆の世界であり、とりわけフリーランスのジャーナリストを取り巻く厳しい環境下できっちり儲けを出そうとすると、とてもまともな仕事をやっていては無理です。努力の結果として生活は出来ても、儲けは出ません。勝谷誠彦を見てごらんなさい。あれはとてもジャーナリストのあるべき姿とは呼べない。昨日言ったことをすぐひっくり返す。小判鮫みたいに無批判に政治家に癒着する。自分が所属している芸能プロダクションが暴力団とズブズブの関係にあることは全くのスルー。役所には説明責任を口汚く喚き立てるくせに自らはそれを果たさない。全ての出来事を陰謀だと喚き立てる。あれはテレビという無責任メディアが生んだ文筆家の最も醜悪な姿だと言える。日垣氏の場合、当然人の手も借りなければならないし、大量生産に拘れば、こういう仕事も増えてしまう。
そういう状況自体は、彼の責任では無いけれども。横道に逸れますが、たとえば、まずは週刊エコノミストのコラムを紹介する目的で始まった私のこのブログですが、早々躓いてしまいました。
あのコラムはあまりにもつまらない。ネタとして何の興味も抱けない。もう絶望的なまでつまらないし、時々、以前にもこのネタ書いたじゃない? とか、ついこの前は真逆のことを書いていたような気がするけれどなぁ、という内容も出てきた。しかしこれも実は彼の責任ではありません。日垣隆氏には、あのような経済誌の巻頭コラムを何年間も毎週書き続けるような見識も無ければ、知識のポケットも無いのです。にも関わらず、編集権によって首にされるでなし。
週刊エコノミストが今や他の経済誌の後塵を拝する羽目になったのは、編集長が無能だからです。無能なサラリーマン編集長が順繰り人事で降りて来ては、仕事をせずに去っていくからです。社保庁と全く同じ構造があの経済誌にはある。ここが、それが会社の顔であり、クオリティを維持しなければならない週刊ダイヤモンド等と決定的に違う部分です。私はあんなコラムを任されている日垣氏を気の毒に思います。いずれにしても彼は、その仕事量と反比例して仕事が雑になっている。
連載コラムなんてものは、偶にスマッシュヒットがあれば良いんです。それは私のブログにしても同様で、毎日面白いエントリーを書けと言われても困る。それは読み手と書き手の暗黙の合意としてたまのスマッシュヒットということで了解して欲しい、とブロガーとしての私は思っているし、たびたびそれは表明している。しかし、最近の日垣氏にはそれが全くないと断言できる。とりわけ「敢闘言」の現状は酷いの一言に尽きる。
稼ぐためとはいえ、誰にも守るべき一線はあります。日垣氏のこの本(もはや著作とは呼べない代物です)は読むに値する内容なのか? 私は、小石川雑記氏ほど辛辣なことは言いません。もしこれが日垣氏個人の見識に基づく書物でなく、単に他人が書いたものの寄せ集めであるとするならば(事実として、どうもそのようですが)、そこにあるのは日垣氏の知見ではなく、他者の知見です。従って個々のパートは、それなりに読めます(~_~;)。決してつまらないというつもりはありません。
ただし、本書のタイトルになっている「すぐに稼げる文章術」か? ということに関して言えば、何の役にも立ちません。今回の盗作で問題となっている箇所など、論文の書き方を今更マスターしても仕方ないでしょう。論文との違いを説明されても仕方ない。これから車を運転しようという人に、飛行機と自動車は違うんだよ、と説明するようなものですから(逆に、論文を書こうという人に、飛行機は自動車とは違うのだよ、と教えることには意味がある)。それに、作中にある「ネットで生き残る知恵」としてブログ炎上に関する項目がありますが、ぶっちゃけここは他人の災難を嗤っているだけで中身は無いし(ブログ炎上の意味する所の理解が浅薄)、彼が以前余所で書いたテキストの再録に過ぎないし、章自体が、「稼ぐ文章術」のスキルとして何かが身に付くという類のものでもない。せいぜい地雷は踏むな、という警句がそこにあるだけです。仮免ドライバーにドリフト走行の危険性を説くことにさして意味は無い。私が担当編集なら、この項目は丸々削除させます。
あえて言えば、この本は編者としての日垣隆氏が、メルマガ・ネタの使い回しと他人の本から美味しい所取りして、しかも他人に書かせて、口述筆記も白状し、日垣隆氏自身が「いかに楽して荒稼ぎできるか」本を出しました、という内容であって、自分の知見を元に、誰か他者にその知識を素早く分け与えるものではありません。
後書きに「文章術の本だ」とありますが、日垣氏は、希に見る悪文書きの名手です。何故か平易なことを小難しい言い回しで書いたふりをするのが好きなお人です。ただそれ自体をして批判する気はない。悪文はある種の個性であり、頭の体操と割り切ればたまには悪文に付き合うのもまた楽しいものです。しかしお世辞にも、彼から文章術を得ようなどというのはナンセンスです。酷いギャグとしか思えない。
今後、本件はどういう展開を辿るかですが、幻冬舎としては、突っ張って争ってどうなるものでもありませんから、先方には(表向き)「絶版と回収」を表明することになるんでしょう(でもきっとそれは、ネットの中で話題になり、在庫が掃けるまで果たされることは無いと思う)。ここで突っ張って、著者や平凡社が態度を硬化させて記者会見でも開かれたら会社の信用問題になる。ましてや訴訟とかになったら困るでしょう。日垣氏は裁判の当事者になりたくてうずうずしてらっしゃるみたいですが。
書店に行けば解りますが、まだまだ新興出版社の幻冬舎は、この新書シリーズにもの凄く力を入れています。そこで盗作騒動が起きたということになれば、棚の信用自体を毀損することになる。できれば裁判や新聞沙汰は避けたい。もちろん、盗作箇所もここだけとは限らないわけで、まともな編集者なら、他にも、別人からの盗作箇所があることを前提にことを進めざるを得ませんから。難儀な話ですけれど、執筆者を掴まえて「他にはありませんか?」と質さなければならない。
日垣氏的には、彼のお気に入りのフレーズを使うなら、「使ったゴーストライターのレベルが低かったようですね(笑)」、ということになるんでしょうが、一番無難な収め方は、「ゴースト」というフレーズは使わずに、「下調べをさせたうちのライターが粗相をしまして……」という形にするのが、ダメージが一番小さくて済む。あの人のことだから、他にソースを用意して来て、貴方からパクッた訳では無い、と反論する可能性もあるけれど、ここで難しいのは、もしソースの議論になったら、山内本の方が5年早く出ているわけですから、そんなに勝ち目は無い。どこかに日垣氏自身が、それ以前に自分の著作活動としてどこかで書いていたということを証明できないと。それとて、それ以前に山内氏の学生だった人物の受講ノートに、メモが残っているかも知れない。何より、自分以外にソースがあること自体が盗作を意味する。
残る問題は、これが新聞等のニュースとしてネットの外に出るか否か、それだけでしょう。通信社にでも垂れ込もうか、と思ったけれど、自分でネタを獲る意欲もない連中にあれこれ説明するのは面倒くさいので止めました。
雑記
1.私はこの件で日垣氏を批判であるとか非難する気は全くありません。別に悪意は無かったでしょうから。彼のように、三度の飯より忙しさを自慢するのが大好きな人にはありがちなことです。起こるべくして起きたと言える。私はただ、ここにこういう事実があるということを記録として書き残すだけです。
たとえば、過去に私が暴いた議事録流用事件、グリーン車事件等(←興味がある人は自分でググッてね)を見ても(彼はそれらに関して、とうとう何らまともな説明をすることは無かった)、日垣隆という人は、お世辞にも職業モラルに秀でた人ではありません。個人の名誉に関わることでそれは嘘っぱちだと指摘してあげても訂正記事ひとつ出しゃしないしぃ!
ただし、私にとっては、彼に職業倫理があるか否かはどうでも良いことです。私自身、人にモラルを説けるようなたいそうな人間でもありませんし(でも盗作は普通しませんわな)。
恐らく、日垣氏自身、今回のことに関しては、ちょっとした接触事故という程度の認識しか無いでしょう。警察呼ぶほどの事故じゃないだろう、と。そもそも罪の意識も無い。ま、あの人はそういう、期待通りの人で良いんですよ(~_~;)。ただ、私のことは恨まないで欲しいですね。これは私が発見して告発したわけではありませんから。私が黙殺しても、いつかは相手方著者の耳に入っていたことでしょう。それが先週だったか、半年後だったか? それだけの違いです。
2.盛んに、なぜ大石は日垣隆に粘着するのだ?(四半期放置状態のブログをして粘着とはこれいかに?)、という私に言わせりゃどうでも良い話をする匿名集団が後から後からネットのいろんな所に湧いて出るんだが、何がそう不思議なんでしょうね。日垣先生も、私が長野県政に興味を持っていることをして、田中康夫に個人的恨みがあるからだ、という実に下らん妄想に嬉々として飛び付いてらしたけれど(変だよねぇ。日垣さんだって、佐高信に噛み付いたじゃん。あれはストーカー行為なのか? 個人的な恨みがあってやったことなのか?)。あの時は本当にがっかりしました。こうまでセンスの無い薄っぺらな男がジャーナリストを名乗っているのか? と愕然としました。面白そうだから飛び付いたまでという、メディア人が身につけるべき野次馬根性を日垣先生はお持ちで無いのでしょうか? 自分のはただの商売だ? ああそうですか……。
日垣隆という人は、なかなか猜疑心の強い人で、その辺りは私も全く同様で、ジャーナリストとしては誉められるべき性格ですが、しかし彼は、ご自身の経験上からでしょうか、人間は損得勘定と怨恨でしか動かないものだと誤解してらっしゃるふしがある。しかし、人間を人間たらしめるものは、あくなき「好奇心」です。人間を突き動かすには、ささやかな好奇心があれば十分です。
私は単なるやじうまです。そして若干、天の邪鬼な野次馬です。私に何らかの行動原理があるとしたら、「王様は裸だよ」と指さすことが好きだということくらいです。
3.私が今回の一件で一番腹立たしく思っているのは、日垣氏に対してではありません。この問題が小石川雑記ブログによって暴露されたのは、今年の5月19日のことです。私がそこからトラックバックを貰って、そういう出来事があったらしいと知ったのは6月半ばです。ほぼ一ヶ月後のことでした。私はその時、地球の反対側にいて毎日の睡眠時間が3時間で過酷な肉体労働に従事していたので、正直何のことか良く解らなかった。更に読者から催促されて私のブログで取り上げたのは、7月10日の話。そして今日です。
呆れます。私はひたすら、ネットワーカーという無責任にしていい加減なネットイナゴどもの不勉強さに呆れます。君らに物言う資格など微塵もない。
この一ヶ月、ネット上で何が起こったか? その両者の著作を入手して自ら検証して意見を表明しようとしたネットワーカーはただの一人もいなかった。ただの一人もです!? これが10年前のパソ通時代なら、あっという間に噂は広まり、百人が百人書店に走って、自分の眼とセンスで、それを確認して物言おうと躍起になっていますよ。何か与太なことを書こうものなら、「それで君は両者を読んだんだな?」の一言で駆逐されていた。2ちゃんねるのお陰で、日本人の知性は崩壊した。プライドの欠片も無いネットイナゴの集団が増殖を繰り返して、大地の実りの知識を根絶やしにしていく。
この二冊、アマゾンコムで買えば、古本としてなら二冊で500円もしないんですよ。三日で届く。私は10日の時点で、ぜひ皆さんも自分で本を入手して判断してくれ、と書いた。なのに、誰もたったそれっぽっちの努力すら払わない。その一方で、日垣ファンを自称する連中は、ニュースサイトで、私が粘着してどうのこうのと明後日な話題逸らしに励むし、日垣氏に対して事実関係を照会したのか? とか。おいおい、それを照会する相手は日垣氏では無くもう一方の当事者の山内氏が先でしょうが? 盗作か否かは、最終的には、一方の当事者が盗作されたという認識に至るか否かでほぼ決まるんですから。
今日まで、実際にそれを入手することなく、小石川雑記でブログーオーナーに批判めいたことを書いたり、私がどうのこうのと話題逸らしに励んでいた連中の卑しさには呆れかえる。この連中は人間の屑です。日垣氏の周囲に、この手の度し難い悪質な取り巻きやファンと称する連中がいることを私はとても気の毒に思う。君らは人前で物言う資格などない。盗作より遙かに悪質な行為であり、悪意ある集団だと表明させて貰う。
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