親父よ。あんたは幸せだったのかい?
6月、父の日に毎年私は父親に対して何もしない。
今までも、一度たりともした記憶がない。
中学3年の12月。
親父は入退院を繰り替えし、高校1年、夏の5月にこの世を去った。
高校卒業後、実家を離れ、私が今、親父にしている事は、1年に一回お盆に帰省し、お墓参りをするくらい。
そんな親父が、父の日の翌日、夢に出てきた。
一緒にキャッチボールをした。
なんだか、過去を振り返るいい機会をもらった気がした。
家に居る事がなかった親父
たぶん、親父は蟻のように働いていたと思う。
長距離トラックの運転主だった親父は、一度出かけると1週間~2週間以上帰ってこない。
私に子供が出来て思った事が、たまに怒りに身を任せて怒鳴ったりする事がある。怒った後は、いつも反省していた。
けど、親父が怒鳴った事は一度もないなぁと思い出した。
とにかく野球好きでヤクルトを死ぬほど応援してた。
テレビのチャンネルを一度いきなり変えたら、殴られた。
怒鳴られはしなかった。
たぶん口より先に手が出る人間だったと思う。
親父は帰ってくると、大体キャッチボールをして遊んでくれた。
そしてすぐにまた早朝に居なくなる。
一度だけ、小学校4年の時『今日は泊まっていくの?』と聞いた記憶がある。
なんだか寂しそうだった。
そりゃそうだね。
自分の家なのに。
トラックしかもってなかった親父が突然スクーターに乗って現れた。
うひょうひょ言いながら乗り回していた。
わざわざ一度で良いから乗ってみたいからと友人から借りてきたものらしい。
トラックしかもってなかった親父が突然乗用車を運転して現れた。
あひゃひゃ言いながらドライブにつれてって貰った。
どうやらこれはレンタカーらしい。
トラックしか持ってないけど、親父は休みの日には大体どっか旅行に連れてってくれた。
トラックだけど。
一度だけ、中学1年の時の夏休みに、一緒にトラックに乗って九州まで連れてってもらった事がある。
後にも先にも、親父と2週間近くずっと一緒だったのはそれしかない。
親父はファミコンゲーム全般に興味はなかったけど、ボンバーマンだけは死ぬほど好きだった。
わざわざ私の部屋に来て、ボンバーマンをたまにやっていた。
中学に入ると、友人らと遊び歩く事が多くなり、めったに帰ってこない親父が帰ってきても、ほとんど会話することなく時が過ぎていった。
この頃から、私の部屋にボンバーマンをしに来る親父がうざくて仕方がなかった。
たいしてやりたくもないゲームをやりたいからと言って、部屋から追い出した事もあった。
そして中学3年。
帰ってくるたびに、親父の咳が酷くなっていった。
闘病生活
12月、大阪から荷物を積んでかえって来た親父はあまりにも咳が酷く病院へ。
帰ってきて聞かされた病名は『肺炎』だった。
肺炎をこじらせたらしい。
なんだ、たいした事なかったのか。
病院では、即日入院を求められたが、『肺炎ぐらいなら荷物を届けんと駄目だ』といって、それから3日また帰ってこなかった。
北海道では雪がこんもり積もっている12月27日。
トラックの積荷を軽くして帰ってきた親父はそのまま入院した。
私は中学卒業を控えた冬休みだった。
正月明け。
親父がゲホゲホいいながら帰ってきた。
このとき、もちろん親父の死期が刻一刻と迫ってきているなんて考えもしない。
いつもと同じように生活をし、いつもと同じようにあまり親父とはしゃべらない。
部屋にこもっていると親父が来て、ボンバーマンを探していた。
既にスーパーファミコンしかしなくなっていた為、ファミコンは物置にしまってしまった。
親父は諦めて帰っていった。
ある時、親父が外を見ながら夕食を食べていると突然
『うおおおおい、トラックが雪だるまじゃねーか!』と言い、暗い中トラックの天井雪かきを始めようとしていた。
親父の仕事道具は、自らの筋肉とこのトラックだ。
毎年の事なので一度も手伝った事が無いけど、今回ばかりは咳が酷いので私も手伝った。
でも、親父がこの自慢のトラックに乗る事は、この先2度となかった。
冬休みを終える頃、親父の入院生活がまた始まった。
いつ治るのか。
そんな事を考え始めたが、高校1年になり、毎日がめまぐるしく、次第にその事も忘れ、いつもの、あたりまえの日常生活が始まった。
元から親父は家にいる事が少なく、親父のいない生活は変化とは言えなかったんだろう。
帰ってくると信じていたので、お見舞いには行かなかった。
4月下旬。
母親から、親父の本当の病名を知らされた。
死期
病名『悪性腫瘍、肺がん』だ。
余命はもう1ヶ月あるかどうかと言われ、私の頭は真っ白になった。
『だからきちんとお見舞いに行って来て』
きちんと、という意味も全く理解できない自分が居た。
私はすぐに病院に駆けつけた。
なんていう姿だ。
そこにはたった数ヶ月前まで雪かきをしていたムキムキの親父の姿はどこにも無かった。
『骨と皮』としか言えない親父がそこに居た。
私はなぜ、親父がこんな姿になるまで見舞いに来なかったのだろう。
『おう、来たか坊主・・・高校はいれたのか?』
当時は全く知識が無く、放射線による抜け毛によって親父も坊主だった。
『坊主はお互い様だろ、高校は毎日いってるし・・・』
そんな会話をした記憶がある。
親父が言った。
『ボンバーマン出しとけよ。』
私はちょっとどころじゃなく震えて答えた。
『もう出してるから早く帰ってこいよな』
しばらく黙った親父は、ゲホゲホ言いながら口を開いた。
『坊主、おらぁもうダメなんだ、きっと。かーちゃん頼むぞ。
お前が見舞いにくるとはな・・・っとに、いい人生だったわ』
なんてこというんだよ親父・・・。
ドラマやなんかではアレ、ぐっと笑顔で頑張るシーンですね。
無理だよ。
絶対無理。
ありえないよ。
そのままトイレに駆け込んで顔面グチャグチャ。
私と、親父の会話はその日が最後だった。
それ以降、何度見舞いに行っても、強い痛みによってうずくまっているか、モルヒネの投与によって寝ているか、どちらかしかない。
数日後、学校から帰る途中、ポケベルがなった。
急いで病院に駆けつける私。
まだ息はあったが、どうやらもうダメらしい。
『オヤジ!オヤジ!』
何度か手を握りながら話しかけた。
到着から10分後、親父は息を引き取った。
最後の最後に、立ち会えた事が私にとって救いだったかもしれない。
なんとなく、私の声が届いた気がしたから。
鼻水ベロベロで涙ベロベロだった。
そしてこんな記事を書いている今の私もベロベロだ・・・。
いったい何を思って書いているのか理由も見当たらない。
やり残した事
親父は『いい人生だった』と言った。
蟻のように働いて、最後に待っていたのがこの結末にも関わらず、そう言い切った。
すごい奴だと今振り返ると思う。
小学校のときは3日に1回は地方から電話をくれていた。
10分程度の会話だったけど、親父はいつも私の声を聞いてくれた。
すごい奴だと思う。
今思えば、別に親父はボンバーマンが好きだったわけじゃないんじゃないかと思う。
私の声に耳を傾ける為に、わざわざ私の部屋に来たんじゃないかと思う。
休日にボンバーマンやる姿を見た事がないからだ。
親父にとってやり残したことが何なのか、全く検討も付かない。
ただ、私にとってやり残した事は多々ある。
後悔する部分も多い。
元気なうちにお見舞いに行かなかったのもそうだし、部屋から追い出した事もそう。
父の日に何もしてこなかった事もそう。
人が一人死ぬって言うのは、その人に関わる全ての人に、やり残しや、後悔など、様々な感情が湧き出る出来事です。
社会に出てで仕事をするようになり、親父が何故、家にいる事が少なかったのか、蟻のように働く理由もようやくわかった気がする。
私が親父のように、死期を迎えたとき、いい人生だったと言えるだろうか。
突然の不幸でなくなる方も沢山いると思うし、私がそうならないとも言い切れない。
だからせめて、やるべき事はやれる時にやる、という本当に当たり前の事だけは、忘れないようにしたい。
もしもまだ、このブログを見ているわずかな人の中で、父親が健在で、父の日にプレゼントを渡していないと言う人がいるなら、別に今からでも遅くはありません。
遠く離れているなら宅配でもいいと思います。
是非、気持ちを吐き出しておく事を、個人的にお勧めします。
あとからそれを、やり残した事として考えてしまうなら、いい人生だったと言えなくなるかもしれない。
あなたは、あなた自身の為に、あなたの今やれることを、今、やっておく事。
当たり前すぎて忘れがちな事。
もしも忘れてしまったなら今一度思い出してみてください。
やるべき事をやってしまったら、明日は何しようかとワクワクしますよ。きっと。