徳川家茂
とくがわいえもち
御三家の一つ、紀州徳川家の出身。父は第11代将軍徳川家斉の7男である徳川斉順、母は父の側室にあたる松平六郎右衛門の娘・実成院。なお父斉順の同母姉で伯母の峰姫は水戸徳川斉脩の正室で、徳川斉昭の義姉である。
母の実家は和歌山藩高家で、桜井松平家の浜松藩主松平忠頼の子で、久松松平家の養子となった松平長七郎を祖とする家であった。
父の死から16日後の弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)に出生し、「紀州蜜柑に種が有る」と揶揄された。
このために父の死後は叔父の徳川斉彊が和歌山藩を相続していたが、嘉永2年(1849年)に4歳のときに叔父で父の跡を継いだ徳川斉彊が死去したために紀州藩(和歌山藩)第13代藩主に就任する。ちなみに17歳未満で末期養子の禁に引っかかるために仮養子の内願が出せずに江戸に滞在せざるをえず、17歳になる前に将軍になったために、紀州藩に帰藩して和歌山城に入ることはなかった。
従兄弟にあたる13代将軍・徳川家定の在世中から後嗣をめぐって一橋慶喜を推す一橋派と徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派の間に争いが起きていたが、家定の死後、紀州藩(和歌山藩)第13代藩主を経て、1858年(安政5年)に13歳で江戸幕府第14代将軍に就任した。
若年での将軍職就任は家茂が父方で将軍家斉の男系の孫にあたり、御三家・御三卿内では一番血縁上前任の第13代将軍家定に最も近く、家茂自身の資質も当時及び後世からは一定以上に評価されている。
ちなみに、家斉の子供で家定や家茂の叔父にあたる松平斉民が当時健在であったが、越前松平家のひとつである津山松平家の養子に入っていたのと評判が芳しくなかったので対象外であった。あと、同じく叔父の蜂須賀斉祐も生存していたが外様大名の家に入っていたので、やはり対象外であった。
1866年(慶応2年)7月20日(グレゴリオ暦8月29日)、第2次長州征伐に苦戦する中で滞在していた大坂城内にて脚気衝心のため逝去。満20歳の若さであった。
なお、家茂は生前豊富な髪で知られていたが、遺体にも黒々とした頭髪が残っていた。
若年ながら英邁な名君との呼び声高く、幕臣からの信頼も厚かった。
将軍継嗣をめぐって慶喜の将軍就任に動いていた松平春嶽が「なぜ、このお方を憎むことができよう」と語って家茂の人となりに好意を示した。
軍艦奉行他として家茂に仕えていた勝海舟は当時はまだ馴染みの無かった軍艦で将軍を移動させようとしたことについて様々な批判を受けていたが、家茂は「勝ならば大丈夫だ」と信頼を示した事で勝は感激し、深い忠誠を誓った。
逝去を知った際に日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記し、晩年は家茂を思っては「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれぬ。武勇にも優れていた人物であった」と称賛しては涙ぐんでいたらしい。
また家茂の書道師範だった幕臣、戸川安清との逸話にこんなものがある。
ある日の稽古で家茂が突如戸川の頭から硯の水を掛け、「後は明日にしよう」とそのままエスケープしてしまった。いつもの勤勉な家茂らしからぬ行為に周囲が当惑していると、当の戸川はハラハラと涙を落としていた。実は戸川は家茂との稽古中に失禁してしまっていた。戸川は当時70の高齢だったため已むを得ないとも言えるが、将軍の指導中に粗相をするという失態は当然厳罰の対象となる。ピンチに煩悶する戸川の様子を察した家茂は、自分から悪戯をして稽古を切り上げ、後は明日にする=明日も出仕するようにと伝えることで戸川を庇い、失禁の件を不問にしたのだった。これでは家茂が臣下に悪戯を注意される羽目になってしまうが、そこまで己を気遣い不様を許してくれた家茂に、戸川は感涙していたのである。
家臣への気遣いにも長け、日頃の感謝としてよく贈り物を渡していたが家臣たちは感激のあまりにとても大事にするので「折角渡したのに使ってくれない…」と家茂が落ち込んだ話もある。
また大奥(よしながふみ)の作者であるよしながふみは徳川家茂を描くに当たって様々な資料を拝見したが「徳川家茂の悪いエピソードが何もない」と驚いた事が公式ファンブックで語られている。
なので大奥での徳川家茂は最強の愛され少女として描いたらしい。
実際に徳川家茂の悪いエピソードと言えるものは、6歳で元服する時に乳母や家族から「絶対に粗相しないように」とキツく言われていたが、厳かな雰囲気を怖がって大泣きしてしまい、当時の将軍である徳川家慶が慌てて菓子や様々な物で家茂をあやし、それでご機嫌になった家茂が乳母の元に戻って「泣いちゃった!!」と笑顔で報告した…というものである。可愛い話だ。
正室(そして現在知られている唯一の妻妾)は孝明天皇の実妹、和宮親子内親王。
公武合体の象徴としての政略結婚であり、当初は和宮も無理矢理江戸に越させられた事で不満タラタラであり、将軍であり夫である家茂に「宮さん」と呼ばせたり、江戸城でも京都風の暮らし方を貫こうとしたりとかなり辛辣に当たっており、それが姑の篤姫との対立にも繋がり当然の事ながら江戸城の人達は和宮を無礼者であると不満を持つ者も多かった。
しかし家茂は和宮を常に敬い、贈り物を送ったり、篤姫との間に入って両者の顔を上手く立てたりと誠実な態度を取り続けた。
これについて当初は「公武合体の為に媚へつらってるだけ」と和宮と女中たちは冷ややかな視線を向けていたのだが、次第に家茂の優しさは素でやってることに気付き、その人格を認めるようになってからは和宮も態度を軟化させて行き家茂を尊重するようになる。
家茂と散歩に出かけようとした際に、家茂の草履が無いことに気づいた和宮が裸足で草履を取りに行ったり、家茂が帝に謁見する為に遠くに行く時に御代仏を取り寄せ、毎日百度参りをして無事を祈った。
家茂が大阪城で倒れたと聞いた際には和宮は大量の贈り物をしたり、自身のお抱え薬剤師を向かわせたりもしており、家茂からのお礼の手紙も残されている。
家茂を思うあまりに和宮が想像妊娠(流産した説もある)したという記録も残っている。
このように政略結婚から始まったにもかかわらず夫婦仲は歴代将軍でも第一級に良好であった(これは和宮の側近を務めた女性の日記で明らかになっている)。
和宮との間に子供が出来ない事から側室を持つようにと薦められた事もあるが、和宮許婚と別れさせられての婚姻に配慮したのか、実際に家茂自身も正室・和宮以外の女性を持たなかった。
因みに表向きは側室候補として用意された女性が余りにも小柄で幼すぎるという旨であった。
8歳で死去した徳川家継を除けば、唯一側室のいない将軍である。
遠征の際に家茂が「土産は何が良い?」と聞いた際、和宮は「西陣の織物を」と伝えたが、その後家茂は帰らぬ人となり西陣織だけが和宮の元へ届いた。
空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ
訳
貴方がいないのに織物が一体何の役に立ちましょうか。
(素晴らしい)綾織物も(色鮮やかな)絹織物も貴方が居てこそのものなのに。
という歌を残している。
和宮は家茂の訃報を知った際、泣き崩れて悲しみにくれ、西陣織をこの和歌を添えて西陣織を三縁山広度院増上寺に奉納し、西陣織は後に袈裟として仕立て上げられ、「空蝉の袈裟」として伝わっている。
和宮は病気で死を悟った際、家茂と一緒の墓にいれて欲しいと遺言を残しており、その願いは叶えられて今も増上寺にて夫の家茂と共に眠っている。
羊羹・氷砂糖・金平糖・カステラ・懐中もなか・三色菓子など甘いものをとても好んだ事でも有名である。
体調を崩した際には妻の和宮や家臣たちから大量の菓子を送られたり、家茂への贈り物といえば甘いものが定番であった。
本人が甘い物好きという事もあるが、人の良い性格故に「貰った以上はちゃんと食べないといけない」の精神で常に甘いものを食べており、それが後述での短命の一因になっている。
- 昭和30年代に、増上寺の徳川家霊廟の改葬に伴う発掘調査で墓所が発掘され、将軍の遺体を調査した際に、残っていた31本の歯の全て(一本は生前に脱落したと思われる)に、軽度から重度の虫歯があることが判明した。家茂は甘党で知られ、大阪城に届けられた見舞い品はカステラ、金平糖、氷砂糖などの甘い菓子類で、菓子の食べ過ぎが虫歯の原因となり体力を消耗し脚気を発症して、寿命を縮めたとされる。
- 妻の和宮親子内親王の棺も昭和30年代に研究され、副葬品として一枚のガラス板が発見された。それは湿板写真で、直垂と烏帽子を着用した若者が写っていたという。
発見の翌日に研究しようとしたが写真に写っていた人物の画像は完全に消滅しており、復元も不可能であったという。推測の域を出ないが、写真に写っていた人物は家茂か和宮の許嫁であった有栖川宮熾仁親王のどちらかとされる。
徳川慶喜:次代(第15代)江戸幕府最後の将軍。
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