id:muffdiving さんは、自分には正当な批判とイジメの違いがわかる、やっていいことといけないことの境界線が見えている、と信じて疑わない。自分には悪党を見分ける能力があって、しかもその悪党に対してどの程度の攻撃まで許されるかがきちんと判断できる、と素朴に感じている。自分が「当たり前」「常識」と認識していることが、他の全ての「まともな人々」にとってもそうであるはずだ、と考えている。
現在の勤務先は過去に何度も書いてきた通り、「みんな仲良く」といったサヨク的価値観が職場に浸透しているので、イジメもまた目にしない(少なくとも私が明瞭にイジメと認識するような状況を見ていない)。けれども、過去のバイト先にイジメが全くなかったとはいえない。そして小学校には確実にイジメがあった。
イジメにもピンからキリまである。程度の問題もあるし、原因についても様々だ。仲良しに見えた女子グループの一人がある日突然、グループメンバーからシカトの対象となった事例は、私の知らないところで何かあったのかもしれない。しかしあるときグループ内でボス的な存在だったはずの子が対象者となったことには驚いたものだった。ジャイアンの機嫌ではなく、グループの空気が支配力を持っていたのだと思う。自分もいつイジメの対象になるかわからない、その微妙な雰囲気は、「平成マシンガンズ」がうまく言語化していると思う。
しかしイジメの多くは、いじめる側に安住する多数と、いじめられる側に追いやられる少数という構図を持っていることを私は否定しない。「平成~」などを読むと、最近の小中学校では「誰もが被害者となりうる」イジメの方が「ふつう」で、むしろ明白なマイノリティはきちんと保護される心理的な仕組みが浸透しているのかもしれないが、1980年生まれの私の時代は、明らかにそうではなかった。
中学時代の事例を出す。クラス全員で文化祭の準備に勤しんでいるときに、不向きな分野を割り当てられたようで、何をやってもうまくいかない人がいた。ついには何かに躓いて倒れこみ、他人の作業の成果まで破壊してしまう。自分一人で後始末できるわけもなく、予定を延長して作業班の仲間たちが補修している中、所用があって先に帰宅。悪気はなかった、先約もおいそれとキャンセルはできない、誰だって失敗はする、そうとわかっていても、周囲の目は冷たくなり、不平等な扱いが始まった。
当人は頑張っているつもりなのだ。放課後1時間も2時間も残って作業すれば、進捗状況と関係なく人並みに疲れる。「私は一生懸命やってる!」その自負が、表情にも言葉の端々にも如実に出た。それがまた仲間の怒りを買った。「他人に迷惑をかけているくせに一人前の顔して、許せない」というわけだ。そして作業班の打ち上げに、その人は呼ばれなかった。ところが、そのことが教師にバレるや、彼女らは「連絡ミス」と言い張った。ハブりは不当なイジメとの認識を自白したようなものだ。
碓井真史さんは、社会への適応に難がある人が周囲にどれだけのマイナスの感情を呼び起こすか、よくご存知だ。攻撃の口実に飢えた性悪な人々ばかりがイジメを行うのか? 答えは NO である。私も、そしてあなたもイジメを行うことはありうるし、現に(程度の問題はあれ何らかの)経験があるだろう、というところから出発しなければならない。
「先日、秋田県で近所の小学生を殺害した畠山鈴香さんには高校時代より反社会的な性向があり、それがイジメにつながった可能性がある」という碓井さんの説明を「イジメを助長しかねない」と非難するのは、自らの罪から目を逸らすことにもつながりかねないことに気付くべきだ。ある行為をイジメと断定した途端に「被害者の無謬性」を仮定し、加害者の一方的な断罪を行う非現実的思考法は、自分が行う「理由ある攻撃」を「これはイジメではない」と免罪する心へと通じている。
イジメかそうでないかの判断は、可能なのか。
極端な事例については、なるほど明々白々なのだ。加害者の嗜虐性向が被害者を求め、イジメの口実は粗捜しのようにして見出される。しかし大半のイジメはそのようにして起こるものではない。ふつうの人が、怒りを制御できない自分を安直に許すところからそれは始まり、拡大していくのである。「なぜ俺が我慢しなきゃいけないんだ! そんなの、あいつの自業自得だろ!」荒ぶる気持ちと、私たちは向き合わねばならない。
「肌の色の違い」を許容する心を説くように、「仕事が遅い」仲間を許容する心が持てるか、しかもその人が(少なくとも現在)あなたと大差ない待遇であることを認められるのか。「品性に欠ける」「他人を傷つけるようなことをいってしまう」そんな彼らも、同じ人間として扱えるか。
id:muffdiving さんは憎むべき主張を掲げている(と自分が判断した)人物を人間として問題ある
と決め付け、反社会的というかキチガイだ
と罵り、医師免許剥奪したほうがいい
と責め立て、しまいには死んでくれ
とまでいう。そんな人が、もしいじめに加担するチンカスになるぐらいだったら死を選ぶよ。俺。
といい、人並み以下に他人の痛み知らない人間は、平気で他人を傷つけて、なんとも思わないですし。
と他人事のように
書く。ああそうさ、私だって大差ない。
再び、「私は一生懸命やってる!」と当人は思っていたのに、慰労会に呼ばれなかった人の話。「ある意味、当然かも」という空気が当時の教室にはあった。それでも、先生の前で、大勢のクラスメートの前で、作業班の仲間たちは、「仲間外れにして何が悪い!」とはいえなかった。仲良しグループではない、学級会の決めたルールの中で作られた作業班が「嫌われ者」を排除すれば、それはイジメに他ならない。釈明の嘘が突き崩された彼女らは、うなだれ、謝罪した。
無言で彼女らを見つめ、イジメの「悪」を糾弾した私(たち)もまた、悄然としていた。イジメはどこかの誰かさんの犯罪ではない。悲しみに顔を歪めた人を見て「しょうがないよ」と心の中で冷たく突き放した自分は、心を入れ替えられるだろうか? 無理だ、と思った。
誰に対して、どんな理由であれ、「いじめ」はゆるされません。
と碓井さんは書いているのに、「理由」を語った一事をもって「いじめ肯定」と解釈する人は、原因と責任を混同しています。碓井さんが加害者への批判を抑制し、加害者叩きといじめの相似を指摘したのは、人々がいじめを「自分の犯罪」と認識するまでいじめは撲滅できないとご存知だから。読者の大半は加害者予備軍なので、「誤解」の危険はあれど、「責めずに気付かせる」のは有意義な選択だったと私は思う。