暁美ほむらの慟哭「紫色のクオリア」
「まどかマギカの種本」と教えてもらって手にする。
本書は、真っ二つに割れている。前半は、「人間がロボットに見える少女」の話だし、後半は、「その少女の親友が彼女を救けようとあがく」話になる。なるほど、後半は、まどかマギカをホーフツとさせる設定が見え隠れする。
特に、どうやっても救えない助けられない瀕死で微笑む手遅れ状態のまどかに向かって銃口を向けながら「う゛ーーーっ!!」と叫んだ暁美ほむらの咆哮を、確かに共有できる。後半の主人公に移入して、あの、身を揉むような絶望をシンクロする。
ただ、誰かを助けること+「時」やり直すこと、たくさんの可能性をくり返し試し続けること……といった設定だと、湯水のように使われる設定になる。うる星とドラえもんとハルヒのゴッタ煮のなかに、アルフレッド・ベスターやシュレディンガー、哲学的ゾンビのネタが混ぜ込んである。書いた人、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」を泣きながらプレイしたんじゃないかなぁと勘ぐって、結末が心配になってくる。ヒントのような表紙が、非常に示唆的で、前半の主人公「ゆかり」の瞳に、後半の主役「まなぶ」が映っている。つまり、まなぶがゆかりに「観測」されているんだね。
面白いというよりも、どんどん暴走する設定を、どうやって収束させるかにハラハラしながら読む。なぜなら一人称の物語は、物語られた瞬間(=語りの末尾)、「その語り手はどうやってその『物語る場所』へたどりついたのか」という疑問に応えなければならないから。話がどんどん広がって、とうてい追いつけない遠いところへ話者が行ってしまったら、どうやって「いま」「ここ」で語ることができようかと。しかしながら、心配するなかれ、あれだけ広げた超巨大風呂敷は、キチンとたたみきっているから。
平行世界をループするなら、「語り手」はどこにいるのか?「聞き手」は存在しうるのか?このテのネタに触れるたびに、いつも、いつまでも思い出すのは、ボルヘスの傑作「八岐の園」になる。語り手が平行世界に気づくことは可能だが、そちらへシフトした瞬間(時間を撒き戻した瞬間)、その世界の自己を取り戻す(手に入れる)から、同じ自我でありえない。したがって、平行世界が「平行世界モノ」だと聞き手に伝わるためには、複数の語り手/聞き手を準備するか、一人の聞き手の錯誤といった形状になる。
可能性は無数にあれど、確かめられるのは一度で一人きりなのだから。そう、読書がそうであるように。
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コメント
お久しぶりです。
「まどかマギカ」はDainさんがふれているので、思い切って見てみました。いい年して、大泣きしました。10話と12話は何度見ても涙がこみあげてきます。
「紫色のクオリア」は他にSF作家の山本弘さんのブログでも褒めていたし、「まどかマギカ」のネタ本と書いてらっしゃるので、読んでみました。
ループは確かに面白いけれど、さすがに大泣きはできませんでした。
ラストの解釈は、自分の運命に他人が介入するべきではないとする「自我論他我論」的な解釈を取る人と、
「観測」の話なので、ゆかりは神的なものとなった、マナブを「観測」できたので、新たな運命を切り開くことが出来たのだ。だからあのラストで正しい。
とするものがあるようなんですが、
私は理解力がイマイチのせいか、どちらが正しいのか理解しかねます。
Dainさんはあのラスト、どう考えますか。教えてください。
投稿: よしぼう | 2011.07.07 03:36
>>よしぼうさん
まどか☆マギカを観るきっかけになったみたいで、とても嬉しいです。あれ観た直後は感涙モードのスイッチが入りまくっていたので、OP観ただけで、ともするとOPの一節を浮かべただけでウルウルしてました。
クオリアのラストは、まなぶの言うことを受け取るしかありません。だからよしぼうさんのいう後者を採っています。ループやら平行世界を辿ってきた主体と話すなら、「その彼女がどうやってここ(物語る場)へこれたのか?」を読み手が解くことができない限り、ループやら平行世界に口出しできないですから。
ただし、その物語を荒唐無稽、まなぶの想像物とみなす余地はあります。それこそ荒唐無稽かもしれませんが。
投稿: Dain | 2011.07.07 07:02