高速道路効果抜群「哲学の誤読」
特に現国は単純だ。なぜなら、出題文【だけ】が範囲であり、書き手の思想や主張がよく分からなくても、「正解」は出題文+問題文に表れているから。「例の方法」が役立つのはそういうわけ。
そのため、問題文や選択肢を先に目通しして、それから俎上の文章に取り掛かる。なぜなら、どこを読めば「答え」が得られるか、問題文に書いてあるから。現国は機械的に解ける。出題者が「答え」にさせたいものを探してつなぐパズルなのだから。そこではむしろ「自分」こそジャマだ。だれも「わたしの考え」なぞ求めちゃいないから。
そういうトレーニングを積んで、テスト【だけ】良い点とってたわたしは、アタマガツンとやられた。出題文を徹底的に読み込んで、懐疑して懐疑して、懐疑する自分も疑ってかかって、「誤読」を見つけ出す。
誰の? それは、出題者の、解答者の、解説者の誤読だ。さらに最初の文章を書いた人の誤読まであぶりだし、最後には自分自身(この本の書き手、入不二基義)の誤読も暴く。こんな綿密な読みは、おそろしく緊張させられる。
まず、出題者の誤読。いわゆる正答(=出題者の読み)を見抜いた後、その「誤読」を"問題文"からあぶりだす。つまり「出題文の書き手の意図が「読め」ているなら、こんな"問題文"にはならなかったはずだ、と。出題者はなまじ知ってるだけに、分かったような気になる「知識による予断」から誤読に陥ると指摘する。もちろんこの本の書き手は知っている、入試のなんたるかを。それでいてこんなに綿密に読んでいる。
出題者だけではない。予備校の解説者の「誤読」をも分析する。駿台の青本(今はこんなのがあるんだね)に手厳しい。細部の読み誤りにあるのではなく、読み以前のスタンスに問題ありと断ずる。つまり、あらかじめ人生論的な読みの「構え」のようなものを持っており、出題文をムリヤリそれに当てはめて読もうとするという。「哲学とは人生論や生き方の問題のことだと誤解しているのかもしれない」と容赦ない。ただし、このように答えた場合、私の答案は、きっと「0点」だろう。入試現代文は、「真理に接近しようとするゲーム」ではなくて、「出題者の意図する答えに迫ろうとするゲーム」なのだから。
出題者、解説者の誤読を解剖したあと、タネを明かす。出題文で『カット』された部分を引用し、ほんとうの結論はこうだよ、とね。ふつう、入試の文章の前後はカットされている。問題の難化を防ぐためや、問題作成の便宜上あたりまえに行われている。これにツッコミを入れる。このカットにより、書き手の論点の方向性を隠蔽してしまっているとね。
そうして全部を明らかにしたあと、最初の文章の書き手に迫る。これまでの安定した読みを捨て、(カクシンハン的な)自らの「誤読」というやり方で、書き手の意図をも超えて読んでいく(生産的な誤読)。そして、書き手の主張と論拠を使って、書き手自身の「誤読」に迫る。綱渡りのような論拠と論考の連続に、呼吸するのが苦しくなる。相手の武器を使って倒す、一流のアサシンのような「読み」につきあわされ、思考メーターがレッドゾーンに突入する。
――というわけで、新書なのに執念深く読まされた。最後までいったら、最初の問題に戻ってみるといい。出題者がどういう「読み」を意図しているか、背中ごしによく"見える"。「物自体」を知らなくても『体験』できる。高速道路からたったいま下りてきたような脳になる一冊。
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