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「★暁の煉獄」
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奚斉episode1・上:差し出されたその手には一片の打算もなく

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史記好きの方であれば 登場人物らの名に大いに覚えがあるかと思いますが
単に気に入った名前を使わせてもらっているだけですので 実際の人物とは違うものとお考えください

所詮は妄想の産物ですので 穴だらけの設定であっても なにとぞ眼をつぶられますよう
気にするだけ負けです







 初秋を迎えたさる朝。彼女は壮大な宮殿に設けられた広い中庭をひとり歩いていた。
 例の如く、護衛官の白起や世話役の陳平、張良らを撒いての脱走――という訳ではなく、珍しく彼等三名全員の許諾を得ての堂々の散策である。

「いつも見張られる、とても窮屈。たまにはひとりがいい」

 先日そう訴えたところ、彼等は彼女の庇護者である申生公子に掛け合ってくれた。
 結果、決して宮殿の外に出ようとしないことを絶対条件に、衛兵が配置され人目の届く範囲に限り、宮内を自由に歩き回ってよいとのお達しを勝ち取ったのだ。

『どこに行こうかな』

 いつになく上機嫌な様子で四方を見遣り、彼女は鼻歌混じりに母語で小さく呟いた。






 気が済むまで木々の紅葉を堪能した後、彼女は一旦中庭を離れた。短い階(きざはし)を駆け上がり、厨室前の回廊を通過すると、何とも食欲をそそるにおいが漂ってきた。
 においに誘われて厨室をそっと覗くと、大勢の厨人が厨房を動き回っては盛んに手を動かし、次々と料理を拵(こしら)えている。
 彼女は生唾を呑み、キュルキュルと情けない音を立てて空腹を訴え始めた自らの腹を撫でた。体内時計が狂っていなければ、もうすぐ昼食の時刻である。
 数秒迷ったものの、彼女は容易く眼の前の誘惑に負けた。

 ――ごめん、ひとつだけ貰うよ。

 彼女は厨人に気付かれぬよう身を隠しながら厨房に入り込み、籠に積まれていた林檎に似た赤い果実をひとつ掴んで素早く袂にしまうと、進入した時と同じく音もなく立ち去った。






 急ぎ中庭に戻った彼女は、生垣と植え込みに囲まれ比較的人目につきにくいとある木の下に駆け込み、袂に隠してくすねた果実を取り出した。
 元居た世界のものと比べればやや小振りだが、紅く色付いたそれは見るからに甘そうだ。
『林檎のまる齧りなんて、本当に久し振りだな』
 艶(つや)が出るまで裾で磨き、両手で包んで目線の高さまで持ち上げる。
 と、その時。

 ガサッ

「!」

 突如背後の植え込みが揺れ、人の立つ気配がした。
 彼女は慌てて果実を懐に隠し、躰(からだ)を縮めた。後ろめたい思いがある身としては、厨房から無断で持ち出したことがばれたのだろうか、と若干青くなる。
 叱られる覚悟を決め、びくびくしながら頸(くび)だけそろりと振り返った。

 ――彼女を見下ろすようにそこに立っていたのは、十歳程度の外見年齢とは不釣合いな、顎紐付きの立派な小冠を被(かぶ)った身形(みなり)のよい少年だった。
 全体的にどことなく見覚えのある顔立ちだが、はっきりと誰に似ているとは明言出来ない。
 少年は、彼女と視線を合わせるなり、驚いたように薄紺の双眸を瞠(みは)らせた。

「……」

 座位と立位のまま、二人は互いに暫し無言で見つめ合う。
 前触れなく生じた奇妙な沈黙を破ったのは、夫々の間の抜けた腹の音だった。

「…は、あははっ」

 一気に気が緩んだ彼女は、ほっと肩の力を抜き、強張っていた表情をふにゃりとした笑みに変えた。
 それは常よりもやや可憐さに欠ける脱力気味のふやけた笑顔であったが、数年後に加冠【⋆1】の儀を控え、幼い童子から成人に相応しい青年に向けて早くも精神的な過渡期に移行したばかりの多感な少年を魅了するには充分だった。

 白い頬に朱を散らす少年の様子に気付くことなく、彼女は手早く果実を二つに割り、片方を差し出す。
「おなか空いた、同じ。ここ坐る、一緒に食べる、ね?」
 ぼぅっと見蕩(みと)れていた彼女の口から発せられた拙い片言(かたこと)の言葉に面喰らったらしい少年は、受け取りこそしたもののその場に立ち尽くすばかりで、なかなか動こうとしない。
 二等分した果実を一口齧り、彼女はもう一方の空いた手で己の左隣を叩いた。
「ほら、ここ来る、坐る、早く」
 相手の眼を真っ直ぐに見つめ、掌(てのひら)を上にして腕を伸ばす。
 初めて経験する一片の打算も媚もない言動に途惑う少年は一瞬だけ躊躇(ためら)い、ややあって彼女の手に自身の手をそっと重ねた。






 隣り合って木の下に坐り、分け合った果実が共に種と芯だけになる頃。
 それまで一言も発さなかった少年が彼女の方を向き、徐に口を開いた。
「……ぁ、あ…あー…」
 少年は送話器【⋆2】の調整のように幾度も「あ」と繰り返し、酷く悔しげな顔でもどかしげに喉を押さえる。
 彼女は小さく瞬(またた)き、頸を傾げながら彼の頭をポンポンと優しく叩いた。
「焦らない。ゆっくりでいい。…言いたい、は、何?」
 急かすような真似はせず、ただ微笑みながら待つ。
 穏やかな彼女の態度に落ち着いたのか、やがて少年は閉じていた口を再度開き、訥訥と問うてきた。

「ぁ…お、…ぉ、まえ、は…、この国、の、者、…では、なぃ、の、か?」

 ところどころ声が小さくなり、全体的に少々途切れがちではあるが、決して吃音ではない。
 彼女と違って文法も発音も正しく、その点に関しては常人と比べても何ら遜色ない。
 知恵遅れ等々、知能面に問題があるのではなく、単に発声することに不慣れな感じだ。

「そう思う、なぜ?」
「言葉、が…、おかしい」
 指摘する少年の眸は、黒眼黒髪が一般的であるこの国にあって異色とも言える薄い紺色だ。彼も又、他国民の血を引いているのかもしれない。

 どう答えたものかと逡巡し、結局彼女は素直に頷いた。
 彼女の首肯を見た少年は、更に言を継ぐ。
「そ、の、恰好…、から、察す、るに…、あ…たら、しい、咸陽宮、の、女官、か? それと、も、母上、の、侍女か…? …だが、それにして、は、見覚え、が、ない、が…」
「あ…、えぇ…と…」
 少年が『母上』と言う人物が誰なのか、彼女には判らない。少年が何者なのかも知らない。そもそもが、彼女自身、この王宮における己の地位を今一理解していないのだ。
 当然の如く彼女は返答に窮し、面を伏せて黙り込んだ。

 少年は探るように彼女を見ていたが、徐々に近付いてくる複数の足音にふと目線を動かし、立ち上がった。
 釣られて腰を上げた彼女が何気なく少年の視線の先へと振り向いたのと、聞き覚えのない女性の叫び声が響いたのは、ほぼ同時だった。






作中用語解説



【⋆1】元服、の意。
【⋆2】マイク。
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