yuhka-unoの日記

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アスペだけど、「差別語っていくらでも作れるんだよ」と言う人に反論してみた

『アスペだけど、差別語について考えてみた』の続き。
 

差別について思い付いた事など… - 駄文な駄文 - もしくはBlogのように見えるモノ -

まぁASD48は冗談だけど、それがどうかしたの?そういう問題じゃないんだよ。
 
例えば、「野比のび太」という名前の人がいたとする。周りの人が、彼のことを「ノビー」と呼ぶようになった。これが普通に親しみを込めたニックネームとしての呼び方なら、彼も悪くは思わないだろう。ところが、そのうち嘲笑混じりに「ノビー(笑)」と呼ぶ人が出てきて、その人数は増えていった。彼が「そういう呼び方はやめろ!」と言っても、「なんで?ただの愛称じゃん。悪く思うほうがおかしいよ」と言って、聞き入れてくれない。これは、いじめの手法として実際によくあることだ。
一度そういう体験をしてしまったら、「野比のび太」くんは「ノビー」と呼ばれることに嫌悪感を感じてしまうようになり、その呼ばれ方を受け付けなくなってしまう。これはごく自然なことだ。一方で、そういう体験があった後も、嘲笑的な呼ばれ方でないのならば、「ノビー」と呼ばれることに違和感はないと感じるのも、ごく自然なことだ。どちらになっても当たり前のこと。
さて、「野比のび太」くんに新しい友達ができた。新しい友達は、何の気なしに「野比のび太」くんのことを「ノビー」と呼び出した。「野比のび太」くんは、「僕、その呼び方でからかわれたことがあるから、なんか受け付けないんだよね。別の呼び方で読んでほしい」と言った。この新しい友達は何と言うだろう。「ああ、そうなのか。だったら別の呼び方にしよう、そうだな…『のびちゃん』っていうのはどう?」と言うだろうか。それとも、「呼び方を変えても意味がないよ。だって、別の愛称で呼んだとして、またその呼び方でからかわれたら、同じことの繰り返しだろ?」と言うだろうか。
 
確かに、「ノビー」という呼び方をやめて「のびちゃん」にしたとしても、また嘲笑的に「のびちゃん(笑)」と呼ばれてからかわれるようなことになったら、同じことの繰り返しだ。でも、この「野比のび太くん呼び方問題」について、同じことの繰り返しにしているのは、一体誰なのだろう。少なくとも「野比のび太」くんではない。「野比のび太」くんの周囲にいる人たちが、このめんどくさい問題の原因を作ったのだ。
元々ただの愛称だったり短縮形だったりの意味合いでしかなかった言葉に、侮蔑的な意味づけをしたのもマジョリティで、そういうことがあったから別の呼び方を考える必要に迫られたのに、それについて「言葉を云々言ってもしょうがないよ」「言葉を言い換えても意味ないよ」「いちいちめんどくさいよ」と言ってくるのもマジョリティだ。つまり、どちらにしてもマジョリティの都合であり、むしろマイノリティのほうが、そういったマジョリティの都合に振り回されているという構造になっている。
つまりここでも、マジョリティとマイノリティの間に起こる問題について、マジョリティが「マイノリティ側の問題であり、マイノリティ側でなんとかするべき」と思い込んでしまう、差別あるある現象が見られるわけだ。
 
まぁ確かに、色んな言葉があって、「○○は差別語に当たるから、○○って言ったほうが良いよ」とかいうのは、めんどくさいよね。それはわかる。当事者だってめんどくさいよ。でも、それは当事者のせいじゃない。元々の言葉に侮蔑的な意味付けをして、めんどくさいことにしたのは、マジョリティのほうなんだ。
「言葉を云々言ってもしょうがないよ」「言葉を言い換えても意味ないよ」…この「しょうがない」「意味がない」のは誰にとってなのかというと、マジョリティにとってであって、マイノリティにとってではないんだね。当事者として「もう、しょうがないのかなぁ、これ」と思うことはないでもないけれど、少なくとも、マジョリティ側が当事者に向かって言うことではないと思う。もっとはっきり言うと、「お前らに言われる筋合いはねーよ」ってことだ。マジョリティ側がやるべきことは、当事者に対してそういうことを言うことではなく、当事者に対する差別をなくしていって、「言葉を言い換える必要がなくなる環境」を作っていくことだよ。
私だって、「アスペ」という言葉が元々の意味から離れて、ただの侮蔑語として使われていく過程を見ているのは、悲しかった。単なる「アスペルガー症候群」の短縮形として使われている状態のままだったら、それが一番良かったんだよ。当事者も使っていた言葉だしね。AS症候群のことなんか全然考えていない人たちが、「アスペ」を侮蔑語にしていった。
たぶん、差別語の問題は、マイノリティは、自分たちを表す言葉ですら、マジョリティの都合で振り回されるということなんだろう。
 
さて、察しの良い人は気づいてるだろうけど、固有名詞である「野比のび太」と、短縮形やもじった呼び方である「ノビー」は、明らかに言葉の持つ性質が違う。「のび太のくせに!」と言われた場合、「その言い方はやめろ!」となることはあっても、自分の名前の呼び方自体を代えろと求めることはまずない。一方、「ノビー(笑)」と言って嘲笑された場合は、「その言い方はやめろ!」の他に「その呼び方はやめろ!」と求めることも十分にありえる。
人名・地名・国名・障害名などの固有名詞は、誰かが名付けて世の中に認知させるという性質を持っている。一方、短縮形や俗語や愛称などは、基本的には自然発生的にできて広まっていくものだ。例えば、私が「宇野ゆうか」という名前で呼ばれるのが嫌になった場合は、それに代わる新しい名前を考えて、自ら「私は○○ですよ」と名乗って認知してもらうことになるが、セクハラオヤジに「ゆうかちゃ〜ん」と呼ばれた場合は、「馴れ馴れしい呼び方してんじゃねーよジイイ」と言って、相手に呼び方の変更を求めることになる。
同一のものを表す言葉でも、自分が変える性質のものか、相手が変える性質のものか、この差はけっこう大きいと思うよ。だから、「アスペルガー症候群」と「アスペ」をいっしょくたに扱うことはできないんだね。
 
そもそも、言葉の意味が変化したら新しい言葉が必要になるのは、差別語に限らないよ。だから私たちは平安時代の人のようには話さないわけで。言葉の持つ意味が変化して、元々の意味よりも、変化した意味のほうが定着してしまったら、元々の意味のほうには、それに代わる新しい言葉を当てはめるというのは、言葉としては自然なことだと思う。
いくら「バカ」という言葉の元々の意味が、サンスクリット語の「莫迦」だったとしても、今日において、私たちが「バカ」という言葉で思い浮かべるものは、あの「バカ」であり、まずサンスクリット語の「莫迦」ではない。正式名称とされているものでも、時代が変化したら変わるものなんていくらでもある。「看護婦」「保健婦」が「看護師」「保健師」になったように。虐待やDVや犯罪などの被害者のことを「サバイバー」と呼ぶことによって、そういう人たちへの認識が変わるきっかけになることもある。
そりゃ、言葉そのものよりも差別そのものが問題だっていうのはわかるけど、だからって、「言葉を云々言ってもしょうがないよ」「言葉を言い換えても意味ないよ」と言うのは、それこそ思考停止だし、言葉の発展の停止なんじゃないかな。他に良い言葉があるのなら、そっちに変えていけば良いと思うけど。
「この言い方よりも、こっちの言い方のほうが良いね」っていうのは、普通にあるでしょ。言葉を言い換えても意味がない場合と、意味がある場合がある。変える必要があるか、ないか、変えるとしたらどう変えるのか、そういうふうに考えていけば良いんじゃないのかな。
 
まぁ、私も差別的意図のない「アスペ」なら、別に呼ばれても構わないかな、くらいには思ってるよ。でも、外野から「言葉を云々言ってもしょうがないよ」「言葉を言い換えても意味ないよ」と言ってきたり、マイノリティの呼称がめんどくさくなっている問題について、「当事者でなんとかしろよ」と思っているマジョリティは、ま、カチンとくるよね。
私は、「今時髪染めてないなんて偉いねー、日本人なら黒髪だよねー、関心関心」とか言われると、「何勘違いしてんの?お前のために染めてないわけじゃねーよ」と思ってしまうような人間なので、そういう「マジョリティにとって都合の良いマイノリティ」には、なってあげる気はないのね。
だいたい、言葉を言い換えても、また新しい言葉が侮蔑的な意味で使われて、差別語になっていくことを、マイノリティが知らないとでも思ってるのかな。むしろ、無関係な立場でいられるマジョリティより、当事者として身をもって体験してきた立場のマイノリティのほうが、ずっと知ってるでしょ。つまり、マイノリティに対して「言葉を言い換えても意味ないよ」と言うことには、意味がないのだ。
わざわざ当事者に向かって「その気になれば差別語っていくらでも作れるんだよ」と言うことに、何の意味があるの?「じゃあ作るのやめろよ」としか思わないね。
 
 
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