UCバークレイの授業が無料でGoogle Videoに!!!
僕はこういうニュースを読むと無性に嬉しくなってしまうんだよなぁ。
「Go to UC for free, on Google Video
BERKELEY CAMPUS SHARES 100 INTRODUCTORY COURSES」
http://www.siliconvalley.com/mld/siliconvalley/15629527.htm
Google Videoのここ
http://video.google.com/ucberkeley.html
へ行ってみるといい。UCバークレイの授業やセミナーの動画に無料でアクセスできる。もっともっと増えてくればさらに素晴らしい。今でもたとえば、
http://video.google.com/videoplay?docid=7137075178977335350&q=owner%3Aucberkeley+is141
にいくと、グーグル創業者Sergey Brinの「Search, Google and Life」というスピーチの映像(約40分)も見られる。
僕は高校時代に大学の授業ってどんなものなのか覗いてみたいといつも思っていたし、大学時代は大学時代で、他大学の授業に出てみたくてたまらなかった。大学院に進むときアメリカに留学したかったけれど、いろんな事情でそれもかなわなかった。だから特別そう思うのかもしれないけれど、こういう方向に世の中が進んでいくことを、本当にいいなぁ、若い人たちが羨ましいなぁと思う。興味のあるトピックで英語を勉強することもできる。
Said UC-Berkeley's Greenberg: ``There is a move in higher education to provide open access. We look forward to more schools joining us.''
大学、大学院の教育内容はどんどんオープンアクセスになっていく時代で、多くの大学がこの流れに乗ってくるだろうと、UCバークレイの関係者は言う。
CNET Japan連載時代から、MITのオープンコースウェアというプロジェクトに感動し、その後色々な形で進展・推移を報告しつつ、MITのこのプロジェクトが、その初期の志が薄れてやや官僚的なプロジェクトになってしまったことを「ウェブ進化論」の中で少し触れた。
でも高等教育のオープンアクセスという大きな流れに変化はなく、未来はきっと、世界中の誰でもが、勉強したいと思えば世界最高の教育に無償でアクセスできるようになる時代が来る。世界中の図書館の本をスキャンし、有史以来の知へのアクセスを世界中の人に開こうとするグーグル・ブックサーチのプロジェクトも含め、これからが本当に楽しみだ。
A growing number of universities are providing audio and video recordings of campus events. But at most schools, including Stanford and Santa Clara University, public access is limited to public lectures and sporting events. Complete course lectures are available only to registered students.
UC-Berkeley is the first campus to post entire course lectures online and the only school with its own page on the Web site of Google Video
多くの大学が、コース内容をネットで公開するも、一般向けにはアクセス制限を加えている。UCバークレイとGoogle Videoの提携は、その限界を突破する第一歩の試みとして高く評価すべきだと思う。MITを「他山の石」として、徹底的にすべての映像を公開する方向に狂気を発揮してほしいと思う。
ちょっと事情があって、CNET Japan連載を再読しているのだが、三年前に書いたこんな文章をみつけた。このニュースとともに再読してほしいと思ったので、以下、転載する。
「ネットがもたらすプロフェッショナルへの新しい道」(2003年09月18日)
http://blog.japan.cnet.com/umeda/archives/000683.html
「プロフェッショナル」の本質は何か?
ただ、このプロとは何であるか、ということを真剣に議論する必要があろう。
プロが真の実力者を意味するものなのであれば、いくらアマチュアが大量に新規参入してきたって、どうってことない。ここで脅威にさらされているのは、エンパワーされたアマチュアに直接勝負を挑まれると負けてしまう「実力で劣るプロ」である。
ではなぜそういう「実力で劣るプロ」が生まれるのか。それは従来、「しかるべきプロセス」を経なければ、プロになれない分野が多かったからである。ある分野のプロになるためには、人生のかなり早い段階でそのプロになることを選び、「しかるべきプロセス」の中に身を投じなければならない場合が多かったからである。早い段階でその道を選ばなかった人たちには、プロになる門戸は閉ざされた。よってプロの世界は「競争が局地的な狭い世界」になり、「しかるべきプロセス」を経たというそのこと自身が既得権化した。
「しかるべきプロセス」の中で経験を積んではじめてプロになるというこれまでの常識は、経験を積む機会がその「しかるべきプロセス」の中にしか存在しない特殊条件下のことだったと考えるべきなのではないか。「mass amateurisation」というのは、そういう問題提起なのだと僕は考えている。
たとえば日本がまだまだ貧しい発展途上国だった時代には、海外に行くなんてことが普通の人にとって容易でなかったし、海外の人々の肉声が我々の耳に届く機会なんてほとんどなかった。そんな状況下で、たとえば国際ジャーナリズムのプロを目指すためには、「一流の大学を出て一流の新聞社やテレビ局や出版社に入って実績を積み海外に出る」というような「しかるべきプロセス」の中に身を置く必要があったわけである。でも今はぜんぜん違う。ジャーナリズムの世界とは無縁の分野で深い経験を積んだ人が書くもののほうがうんと面白い場合もあるし、それらがどんどんネットで簡単にpublishingされ、人々に訴えかけるようになっている。
たとえば、コンピュータのプログラムを書く、という仕事。僕が大学を卒業した1983年には、いいコンピュータを思い切り使わせてもらえる環境(VAXがふんだんにあるとか)にきちんと身を置く(つまり、大学に残るか、国の研究所やNTTの研究所や大手メーカーに入る)というのが、プログラムを書く仕事でプロになるための「しかるべきプロセス」であった。でも今は違う。誰だってPC1台あればいくらでもプログラム技術を磨いていくことができる。
たとえば、今起きているオープンソース現象とは、インターネットの普及とコンピュータの低価格化によって「しかるべきプロセス」の中にしか存在しなかった環境が、おそろしい勢いでコモディティ化したゆえに起きたものととらえることもできる。オープンソース世界で超一流プログラマーと認められている人たちの中には、昔なら在野で埋もれていたであろう才能が多かろう。
つまり「しかるべきプロセス」の権威というのは、環境の希少性によって支えられていたのである。
そして「しかるべきプロセス」の出身者であるからプロなのだという既得権的保証が、今、崩れようとしているのである。
エンパワーされたアマチュアの膨大な新規参入によって、「しかるべきプロセス」の出身者しか存在しなかったさまざまな分野のプロの世界に、はじめて「実力主義」の風が吹こうとしているのである。
「しかるべきプロセス」以外の道で輝く人
僕は世の中で活躍する人の中には、2つのタイプの人がいるといつも思っている。
第一タイプは、既存の体制によく親和して、何かを成し遂げようとするときには「しかるべきプロセス」の中に自然に身を置いて、その中で着実に経験を積んでいくことを喜ぶ(厭わない)というタイプである。日本のエスタブリッシュメント層の大半は、こういうタイプの人たちである。
第二タイプは、何かを学ぶのも何かの経験を身につけるのも自己流。学校や大組織のような秩序立ったところにはあまり親和せず苦労するが、混沌とした社会の現実にぶつかる経験の中から、独力で頭角を現していくタイプである。
たとえばフォーサイト連載で取り上げたプログラマーの石黒邦宏さん
http://book.shinchosha.co.jp/foresight/main/data/frst200211/fst.html
なんかはその第二タイプの好例である。彼はコンピュータサイエンス学科でもなんでもなく、正規にコンピュータを勉強したことはない。プログラミングは独学。アルバイトで実力をつけ、リチャード・ストールマンの「Emacs」のソースコードを読んで、プログラミングの作品性に目覚めたという人だ。彼は、たった1人3年がかりで、ルータのソフトを開発し(5万行)、「尊敬するリチャード・ストールマンへの挨拶代わり」という気持ちで、ネット上にそのソフトをオープンソース化して公開した。そのソフトが欧米の投資家らに認められたことがきっかけで、今は、シリコンバレーでベンチャーを創業し、CTOとして活躍している。こういう第二タイプの才能がエンパワーされて世に出やすくなる現象こそが、「mass amateurisation」なのではないだろうか。
むろんすべての分野でそれがあてはまるわけではない。たとえばバイオテクノロジーやナノテクの世界は、コンピュータサイエンスにおける20年前と同じように、ある種の正規の組織に属して経験を積むことが決定的に重要な世界なのだろうと思う。それは環境が高価で、ノウハウがまだまだ希少であるゆえ、「mass amateurisation」現象が起こっていないためだ。
でも、ジャーナリズムやプログラムの分野に限らず、音楽の分野、映像の分野、ありとあらゆる知的作業のための環境が低コスト化、コモディティ化するにつれて、第一タイプのエスタブリッシュメントたちを、第二タイプの在野の実力者が脅かし始めるという構図がいたるところで現れてくる。それが21世紀の「仕事の現場」なのではないだろうか。
僕は、「mass amateurisation」現象とは、そういう新しい世界が訪れることだととらえて、とても好ましく面白い変化だと思っているのだ。