消しゴム


ふと思い出した一説の話だけして、この話題は止めようと思う。


昨夜からあれやこれやと考えていながら、引用したワタシ自身もさっきまですっかり忘れていたものだったから、燈台下暗しというかなんというか。


「優等生だって悩んでいるんだから責めるのはおかしい」「自分はそんな優等生が好き」と、「優等生」を擁護していた人達は、あの「優等生」が、「貧乏な家の女の子」がわざわざ拾ってくれた消しゴムを次の日別のものに取り替えていたというくだりの行間を読んだ上でなお、そういう意見をするに至ったんだろうか。だとしたら、とてつもなく不思議に思う。そういう意見をするなと言いたいわけではないが、不思議は不思議だ。むしろ、不思議すぎて興味を惹かれるくらいに。


実は、ワタシが一番「優等生」を嫌悪することとなったくだり。
一晩で消しゴムがいきなり全部磨り減っちゃうなんてことは考えづらいし、失くしちゃったの、なんてのもちょっと苦しい言い訳だ。いや、一番問題なのはそんなことじゃなく、それは「あの子は身なりも汚いし嫌だけど、優しくしなきゃ…」と葛藤してる人間が出来る行為じゃない。たった一瞬手を拭うくらいならありえないこともないが、わざわざ「穢れた」消しゴムを新しくする行為には、「悪意」そのものしか感じられない。
「あんな子の触ったものなんて使えないわ〜、あー気持ち悪い」。
それは心が揺れた瞬間、咄嗟の心の動きによる過ちにはなりえない。どうにもごまかしようのない、「悪意」だ。


そんな「悪意」を持ちながら、彼女は自分をさらに輝かせるための道具として、「悪意の行き先である相手」を利用する。そうして彼女が完全に見下している、道具扱いしている相手は、それを知らずに彼女を慕う。そしてそんなことを平然と行える人間であっても、「誰にでも愛されるいい子」として世間は受け入れる、それこそがワタシが唾棄すべきだと捉える、そしていくらそう捉えようともいかんとも動かしがたい、そんな現実の姿。
この世には「何とかしようと思って何とかできること」と「できないこと」があるけれど、これは圧倒的に後者であって、それ故に何処へも持って行きようのない憎しみ、嫉妬、悔しさなどの「汚い感情」は心の奥、時が経つほどに濃さを増していく。



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「文学作品の登場人物にムキになってもしょうがない」という意見もあり、ワタシもそれをもっともだと思うので、これ以上内容については触れないことにする。
そして「登場人物や作品、作家なんてどうでもいい。あなたの経験、意見を語ってくれたほうがいい」という意見もあって、これは本当に(いい意味で)意外なことで、少なくともワタシというひとりの人間に興味を抱いてくれている人がいるということで、心から嬉しい。
でも。
自分の実体験をベースにしてあれこれ語り始めると澱んだ気分に全身支配されそうなので、それについては心にもう少し体力があるときに小出しに書くかもしれないし、もしかしたらずっと書かないかもしれない。それと、正直なところワタシは遠い昔の小さなひとつひとつの出来事は、ちょっとやそっと強い感情を抱いたくらいのことじゃ明確に覚えていることはほとんどないというある意味素晴らしい記憶力の持ち主なので、ふと気まぐれに記憶力が蘇ったときに「書きたい気分」なら、書くことがあるかもしれないし、それでもやっぱり書かないかもしれない。


誰に何と言われても、ワタシはこれからもずっと心の奥の奥にある「汚く、醜く、おどろおどろしい感情の泉」をひっそりと守っていく。その泉と似た風景に出会い、感動したなら泉の傍、後生大事に抱え込む。簡単に、お綺麗になどするものか。それが何のためなのかは、自分にもよく分からない。
どんなに汚れていようとも、確かに自分が積み重ねてきたあらゆるものを簡単に取り払うことは、自分の生きてきた人生そのものを否定するようで嫌なのか。恐いのか。単なる意地か。意地でもいい。