リブロ池袋本店でトークイベント開催!6月28日(木)片岡剛士×田中秀臣トークイベント 「円高・デフレ・失われた20年は自然現象ではない!」

『円のゆくえを問いなおす 実証的・歴史的にみた日本経済』(ちくま新書)の刊行を記念しまして、著者の片岡剛士さんと、わたくし経済学者の田中秀臣でトークイベントを開催いたします。

片岡剛士×田中秀臣トークイベント 「円高・デフレ・失われた20年は自然現象ではない!」
日時:6月28日(木) 午後7時〜
会場:西武池袋本店別館8階池袋コミュニティ・カレッジ 4番教室
参加チケット:1000円(税込)
チケット販売場所:西武池袋本店書籍館地下1階リブロリファレンスカウンター
お問合せ:リブロ池袋本店 03-5949-2910
*電話でのご予約も承ります

主催:SYNODOS(シノドス) http://synodos.jp/

以下のリンクに詳細あり

http://www.libro.jp/news/archive/002623.php

円のゆくえを問いなおす―実証的・歴史的にみた日本経済 (ちくま新書)

円のゆくえを問いなおす―実証的・歴史的にみた日本経済 (ちくま新書)

岩田正美『現代の貧困』再読(その1)

 数年前に、岩田正美氏とは東京河上会での公開講演会で同席させていただきました。そのときのテーマは河上肇の『貧乏物語』だったのですが、かなり僕なんかは“ふつうの経済学者”として、岩田氏にその場で批判されましたが、福田徳三の研究をやっていると言ったら席上で驚かれてたので、まあ、“ふつう”ではないと理解されたのかもしれません(笑)。閑話休題。さて生活保護についての議論が出てきてるのですが、『サイゾー』で、この記事を発見して、ちょっと岩田氏の著作を再読してみたくなりました。

 冒頭、本書では現代日本では格差社会論ばかりが主張されているが、なぜ「貧困」の発見が主張されないのか、と問題提起をしています。特に「貧困」は「社会にとってあってはならない」という価値判断を含むもので、その認識によって社会の側に解決すべき責務が生ずる、というのが著者の主張です。「貧困」は価値負荷的な概念というわけです。

 「社会にとってあってはならない貧困」とは何か? まずその概念形成の歴史が記述されます。「ぎりぎりの水準」の算定として、まずイギリスのシーボーム・ラウントリーの生存費用の算定(=必要カロリー摂取基準⇒マーケットバスケット方式の採用)をして、最低生活費を貧困ラインとして捉えなおす。ラウントリーの発想がナショナルミニマムの基礎。対して、ピーター・タウンゼントは肉体維持だけではなく、社会のメンバーとして生きる費用を主張(社会的はく奪の概念の提示)。ラウントリーの方を「絶対的貧困」、タウンゼントの方を「相対的貧困」(ただし剥奪の急上昇の閾値があるのでその意味では絶対的)と今日では言われている。

 岩田は、このような「貧困」の定義には、価値判断が必然的に忍びこんでいることを指摘する。その上で、貧困問題の「再発見」は、他者への配慮や公正さが絶えず議論されている社会ではその貧困の範囲も広くなるのではないか、と仮説を提起している。つまり社会の関心の度合いと貧困の度合いがかなり連動しているといえる。

 さて日本の場合は、生活保護基準という制度上の基準が貧困ラインを定めている。ここは上の最近のサイゾーのインタビューでも言及されている重要な点なので岩田氏の発言をそのまま引用しておく。

「保護基準が全国民の貧困ラインとしての役割を果たしているということは、案外理解されていない。保護基準の引き下げがなされた場合でも、多くの人は生活保護を利用している世帯だけにその影響が現れると思っている。が、実は全国民の貧困ラインが引き下げられた、と理解すべきなのである。しばしば、生活保護を利用している世帯の生活が贅沢すぎるといった攻撃がなされる。特に最近はワーキングプアへの注目が集まっていることもあり、働いている人の賃金より生活保護基準が高いのはおかしいとの批判が当のワーキングプアからなされることがある。基礎年金水準との比較で、保護基準の引き下げが主張されることもある。だが、保護基準が下げられると、ワーキングプアや年金生活者を含めた国民全体の「あってはならない」生活状態の境界値が下がり、ワーキングプアや年金生活の苦しさも隠されていくことになる」(49頁)。

 さて生活保護基準は、厚労相の決定事項で国会の審議は不用である。生活保護は、生活扶助、住宅扶助、教育扶助が大きな柱。医療扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助、介護扶助がある。保護基準は生活扶助基準をさして、これに住宅扶助、子供がいれば教育扶助を足し、収入があればその控除部分を加えると、「貧困ライン」(=生活保護法でいうとことの最低生活費)になる。そしてこの「貧困ライン」は制度の運用では、それぞれの世帯によって異なる(生活扶助額が組合せ方式なため)。

 本書では、日本の戦後の生活保護法の変遷もコンパクトに紹介されている。簡単にいうと敗戦直後は、軍人扶助法を引き継ぎ、そのモデルは働き手のいない世帯モデル(だが保護対象は敗戦後はワーキングプアを半分以上含む)。算出方式はマーケットバスケット方式、エンゲル係数方式と変遷し、世帯モデルも変更されたが、基本コンセプトは「絶対的貧困」。それが高度成長の開始とともに、「貧困」の社会的理解からかい離していき、「相対的貧困」の発想に立つ格差縮小方式(平均賃金の6割)が採用。

 83年にようやく平均賃金の6割超へ。格差縮小はやめて、今日の水準均衡方式(一般の消費水準の6割で固定)へ移行。標準世帯は三人世帯(実際は7割以上が単身世帯)に変更された。

 なお本書では、簡単な生活保護の算定法の演習がある。今現在のは、例えば毎年度でている『生活保護手帳』とその問題集でも買って演習するのがいいだろう。ただし問題集だけでも500頁超だがw。本書で簡単な例示で示した算出の手順は以下のとおり。

 同居している家族について、一名ずつの年齢別1類の基準額の合計(世帯人数による掛け率異なる)+世帯人数による第2類の基準額+住宅扶助基準額+教育扶助基準額(子供のいる場合)、これに特別支給、勤労収入控除で「貧困ライン」が算定される。

 この「貧困ライン」は生活保護制度が定義したものだが、他方で日本ではいくつかの「最低ライン」が存在する。この「最低ライン」と「貧困ライン」の関係がごちゃごちゃしている。一例は最低賃金(地域、産業別に最低ラインが300近く存在)。2007年の改正により、生活保護とのバランスが制度的に比較されるようになったためか、本書の出版時(2007年)よりも生活保護基準の方が最低賃金よりも上回る傾向はかなり解消されている(地域別最低賃金に関する厚労省の発表を参照:http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001oh2c.html)。田中の考えでは、今回の小宮山厚労相の生活保護基準の引き下げという発言も、この最低賃金の方を生活保護基準よりも高めていくという方向性と一致している。ただしこの方向性は、本書の主張からいえば、日本の「貧困ライン」の引き下げともろに連動していくだろう[サイゾーのインタビューも参照)。岩田氏の本書の段階では、最低賃金は生活保護と同じ発想で考え(=最低生活費)、そこに勤労のために必要経費を加えた方がいい、ということだ。最低賃金>生活保護が妥当だが、生活保護基準の引き下げは日本の「貧困ライン」の引き下げになる。

 また基礎年金水準との比較で生活保護基準の引き下げもあった。年金(自助努力)なので、生活保護(税で面倒みている)よりも高いという価値判断である。この基礎年金水準は最低生活費というコンセプトは与えられていない。貧困ラインではない。しかし基礎年金水準と生活保護基準は頻繁に比較されるので、そうであれば、この概念整理の必要がある、と岩田はいっている。この概念整理の延長でいえば、最低生活費を引き下げることは、なんらか年金を支給されている人たちにも影響を与える。

「だが、このように貧困ラインが引き下げられたからといって、低い水準にある基礎年金やワーキングプアの生活が改善するようになることは決してない。むしろ、年金給付額の少ない高齢者やワーキングプアの生活水準は、引き下げられた保護基準から見れば相対的に高くなるから、こうした人々の貧困状況はますます隠ぺいされ、それを改善する糸口を失ってしまう。こうして貧困ラインの引き下げは、低所得者層の年金や賃金水準に大きな影響を与える。素朴な公平論や生活保護パッシングは、貧困ラインが担う社会的な機能と、それが与える社会的な影響力を見落としている。その結果として、自分たち自身も暮らしにくくなるかもしれないということに気づいていない」205頁。

 岩田氏は、最近の最低賃金の引き上げは、生活保護基準の貧困ラインの機能を活かして、それを上回るための積極的優遇政策である、と肯定的な評価である。そのため、冒頭の最新のインタビューでは、生活保護基準の引き下げが小宮山厚労相の今回の発言にあったように、実際に引き下げられれば、最低賃金の今後の引き上げの必然性のいくばくかを失うことにもなる、と見なすこともできるだろう。

 もちろん最低賃金の引き上げは経済学的正統では否定的なものである(=雇用の減少をもたらす)。他方でそれとは違う意見もある(引き上げの雇用増を立証する論文もある)。他方で、生活保護基準の引き下げが、「貧困ライン」の引き下げになるとすれば岩田の理解を援用すれば、日本が貧困についてより消極的な立場に移行するその表象ともいえるだろう。