情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明


漫画、あるいは小説、もしくはエッセイなどの
印象、あるいは連想、もしくは感想を書いてるBlog。

萩尾望都もマニアへの対応には苦慮していた、という話。「まんがABC」(1974年)、「わたしのまんが論」(1976年)より。




 


マニアさま――
わたしはまったくもって人間であります
ほんとです




 こういったまんが好きのマニアの一派に、いわば変格マニアとでもいうべき少数派がいて、これを私はド・マニアといっている。


 その考察は独断と偏見に満ち、その自己顕示欲はボウリングのボールのごとく、ピンをすっとばして、疾走し、その鼻は芸術性と文学性に満ちて天をあおぎ、一般大衆を見くだすその目はカマキリのごとき。

 萩尾望都といえば、1970年代を通じて最も「マニアうけ」した少女漫画家であったと言っても過言ではないかと思います。
 やっぱりというか、残念ながらというか、そういう人には(ごく少数だった、とは思いたいけど)困った方もいらっしゃったようで、萩尾望都も少々、いや、かなり苦労していたみたいなんですね。


「まんがABC」より「M・マニア」


 
 別冊少女コミック1974年6月号に掲載された読切「まんがABC」(現在の所単行本未収録)より。*1


 

M・マニア


マニアさま――


わたしがこうして
お手紙をさしあげるという――


のは――いつも――
お手紙をいただいているのに
お返事がかけず――ここでまとめていっちまおうと


・・・・・・・・・感謝しております


でもお願いですから
とつぜんの ご訪問だけはおひかえくださいませ――


マニアさま――
わたしはまったくもって人間であります
ほんとです


道を歩けば すっころんで
足もくじくし いじけるし


テーケツアツで ネコ好きで
ネコはわたしを 好かんで


神経痛とも ヒステリーともひとは申しますが


双方ともおっ母さんからの遺伝だと思います


マニアさま――
―お願いですから


わたしがいつも かく作品に 大満足して
一日ねてるなど 思わんで くださりませ
よみ手以上に 製作者側は 理想が高いんです


マニアさま 
えーと




草そう
ウィズ ラブ アンド キス


 このような項目と内容を書かせてしまう、その「マニア」たちが、仕事場への突然の訪問時にどんな行動をしたんだか、どんな手紙、いやさラブレターが届いていたのやら。
 この時点ではまだ「ド・マニア」という言い方はなさってませんね。


 実態は「わたしのまんが論」の方にも書かれてるんですが、いやいや。
 手書きセリフもあって、送られてくるものとして「おてがみやペーパーナイフ ケーキ・ごはん 手あみの・・・ ペンや紙などまで」、「電話もこまるが 電話はいま出ないから・・・」(どこで番号を調べるんだ!?)


 こんなことも描かれてます。
 



 ちなみにA〜Zの全項目は

A・アップ
B・バック
C・キャラクター
D・ダービー*2
E・エンピツ
F・ファッション
G・原稿料*3
H・編集
I・アイデア
J・助手(アシスタントさん)
K・カンヅメ
L・LOVE
M・マニア
N・ネコ
O・岡田史子
P・プロ
Q・クエスチョン
R・連載
S・SF(サイエンス(科学)とファンタジー(詩) )
T・タイム(時)
U・アン・ハッピー(悲劇)
V・バイタリティー
W・笑い
X・ボツ ― ボツ原稿
Y・よみきりまんが
Z・ZZZ


 となっており、「D.ダービー」の項にもマニアがらみの内容があって


  


 この人まるっきり人気無くてね
 アンケートビリッケツなんだよ・・・でも


 手紙だけは山ほどくんだけど


 こういうのをマニアうけするといい こういった手紙をファンレターといわずラブレターという


 ・・・あー。
 現在で言えば人気投票にダンボール投票するような、違うか。



「わたしのまんが論」


 りぼんデラックス1976年冬の号*4に掲載されたエッセイ*5です。
 句読点、漢字変換は原文ママ(になってるはずだ)。


 
 


  • 先生!サインください


 ガウンの上からはんてんを着て、白ネコをひざの上にだきながら考える。昨今は考えることが多い。折りよく、りぼんデラックスからこのページをもらったんで、考えてることを書いてみよう。
 まんが家になって6年、いちばん苦しんだ、となると作品のことになるが、他にもうひとつ苦しんだことがある。それは、マニア連のことだ。
 連中の活動はめだって活発だ。手紙をよこすし、面会を申し込んでくる。文化祭には展示をやり、サークルを作って活発にまんがの話をし、同人誌を制作してまんが評論文やまんがを刊行する。
 私はいやが応でも、四方からぶつかってくる連中を、よけようもないまま、6年を過ごしてきた。あまりよける気もなかったのは、こちらがマニアに対してある種の期待をもってたせいもある。私はマニアが、作家予備軍だと思っていたのだ。つまり、いずれ彼らはまんがを描き出すと。
 だが、作家予備軍とマニアとは、本質的に違うことに、最近気づいた。出会いはなからセリフが違う。
「先生、私の描いた作品、批評してください」というのが予備軍で、
「先生、サインください」というのがマニアだ。(最初はとまどったが、じきになれた)
「先生、デビューするにはどうしたらいいんですか。構成力を養うために、どんな本を読んだらいいでしょうか」というのが予備軍で、
「先生、趣味は?」と聞くのがマニアだ。(最初はとまどったが、これもまたじきになれた)
 私は、「私のサインや私の趣味が、あなたにどんなかかわりあいをもつんですか?」と聞きたい気持ちでいっぱいで、たずねると、「だって、好きな先生のことは何もかも知りたいんです」と返事がくる。
 それでいうなら、私が大好きなといえば手塚治虫先生になるわけだが、先生が好きな花は何かとか、趣味は何かとか、べつにそう知りたい気はおきない。先生が読んだ本の、読書感想文なんてのは聞きたいきがするが、結局そうした総括が作品になるのだから、私なりに、楽しんで作品を読んで、それで満足している。私が手塚先生に会いたいなぞと思うときは、同業者として、先輩の意見を伺いたいときぐらいなもんだ。手塚先生の話をしだすと、小学生のころ読んだ「来るべき世界」の話からとうとうと続くので、ここいらでやめにしよう。
 でも、とにかくマニアは、まんがが好きで好きでたまらないというエネルギーにあふれてる(このエネルギーが創作に結びつかないのは残念だが、他の仕事や恋愛をするとき役にたつだろう)素直で好感がもてる。



  • まんがは芸術です


 さて……。
 こういったまんが好きのマニアの一派に、いわば変格マニアとでもいうべき少数派がいて、これを私はド・マニアといっている。
 とりようによっては、彼らは実に面白い一派なのだ。だが、ひとくちでいえば、その考察は独断と偏見に満ち、その自己顕示欲はボウリングのボールのごとく、ピンをすっとばして、疾走し、その鼻は芸術性と文学性に満ちて天をあおぎ、一般大衆を見くだすその目はカマキリのごとき。(カマキリに悪い)
「萩尾さん!」とどなられる。「ハア?」
「あなたは、コメディなんて低俗なものを描いてはいけません。あなたのコメディはみんな失敗作だと思う」という。
「はァ、コメディはきらいですか」
「きらいだ。おもしろくない」
「なぜですか」
「絵が雑だ。それに、人を笑わせようとしている」
(読者を笑わせるも泣かせるも同じことだ、それに、笑わせる方が倍はむずかしい)
「あの、ストーリーは読まないんですか」
「ストーリーなぞ問題じゃありません。私はていねいに描かれた絵が好きなんです。あのムードが。だから、シリアスだけ、描くべきです。まんがは芸術です」



  • 書く人と読む人のちがい


 私がまんが家になって6年。以後一生シリアスだけ描けなんて、この人本気かしら。それにストーリーが問題じゃないなら、何のためにまんがを読んでるの。絵だけ見たいなら、山口将吉郎でも、カイ・ニールセンでも、すてきなさし絵画家がいっぱいいるじゃないの。と、思いつつ……しかし、ユニークなひとじゃなー、と、おもしろがったり。
 本来、ものの描き手と読み手はちがう。唄のもんくじゃないけれど、両者の間には深い川があって、それはとても渡りきれない。渡る唯一の方法は、読み手が描き手になることだ。かつて、私もこの川を、手塚先生や石森先生のまんがにひかれて、えんやこら渡っていったのだ。だから本当に思うのだが、描こうと思わない人に、描き手の世界はわからない。
 私は高校生のころ、友人たちとまんがグループを作っていた。その名も高きキーロックなどと喜んで、4ヶ月に一度ぐらい肉筆回覧誌を刊行していた。各自、ごひいきのまんが家がいて、熱中して読んでいた。それから、お互いに描いた作品を、ほめたりけなしたりして、一日も早くうまくなろうと、すったもんだやっていた。
 私達は、プロになりたかったのだ。だから、まずちゃんとした絵が描けねばならなかったし、ちゃんと読める話が作れねばならなかった。仲間がいるということは心強かった。
 自分で気づかない欠点も長所も、他人の目からはちゃんと見える。
 欠点はつくろい、長所は広げた。それでも、私たちは若かったのでプロへの道ははるかに遠かった。
 思い返しても、あのころ、高校3年生の一年間は、一番豊かで、一番楽しい、一年間だった。



  • ド・マニアにささげる言葉


 ……私は小さいときから、まんが好きで、描いていたせいか、アマでいたころも、プロになってからもだが、描き手の気持ちに通じるところをもってて、それが、今の描き手にやたら注文をつけたがる、ド・マニアをみてると、ふしぎでならない。
 以前、「アニメーションなんて、金もうけのためにだけ、作ってるのだと思ってたわ。でも、中には好きで作ってる人も、いるのね」という意見に出会って、アゼンとしてしまった。
 そんなこといったって、いったいぜんたい……セルに一枚一枚絵を描いて、それにまた色をぬっていくという仕事は、どう見ても、もうけのためだけの仕事じゃない……金もうけだけなら、他にいくらでも方法がある。
 どんな稚拙なアニメでも、絵が動くということで抗しがたい魅力がある。ノートや、教科書のはしに、少しづつ変化した絵を描いて、パラパラとめくって見て、それが、動くおもしろさ。……絵が動く。これはもう、目的が何であろうと、創造の根本だ。
 アニメはすばらしい、まんがはすばらしい、なぜか、というに、そこに創造性があるからだ。なんでこれが見えない。
 ド・マニアは創造性なぞ、知らぬげに見える。そんなものは、問題外だと思って無視しているのかもしれない。
 ド・マニアはよく、「辞書にないことばを使ってはいけない」とか、「地図にない地名を使ってはいけない」とか、「ここに書かれている英文の、動詞が抜けてるのはけしからん」とか、いってくる。
 ううむ、と私はうなり、この人達は、光ありき。地図ありき。ゆえに山河ありき。とか、辞書ありき。ゆえにことばありき。とか、文法ありき。ゆえに会話ありき。ぐらい、考えてるのじゃないかと思い、学校でどんな教育を受けているのか心配してしまう。
「なんでかしらね。根本がなくて、知識ばっかりての。これ、受験教育に関係ないかしら」と、友人と話してみる。
「あるかもね。受験教育は、創造性なんて殺してしまうところがあるもの。頭の体操にはなるけど、物事に対する興味なんて、促進されないもの。テスト用よ」
「英語だって、習ったけど、文法だ受身だ、完了形だ、英文和訳だってやって、アメリカへ行って日常会話ひとつできないでしょう。言語って本来、相互理解のためにあるのにね」
 ド・マニアたちを見てると、たいそう頭はいい。だが、創造性には乏しい。しかし頭がいいので人のアラばかり見えるらしい。しかし、人のアラばかりみてるより、何かやったほうがおもしろいのに。
 私は、だから、ド・マニアたちがけいべつの目で見る、一般大衆、一般読者の方にこそ、実に豊かな感受性や想像性を感じるのだ。そして何より、そちらの方にものに対するやさしさや、あたたかさが感じられて、この道6年、そして今年も、また描こう、と思うのだ。
 卒業のころになると、まんが好きの人々がわが家にアシスタントを希望してくる。いちように私は断る。アシスタントは、のどから手が出るほどほしい。だが、卒業してすぐの女の子はほとんど使用できない。実社会で働いた経験がないので、仕事に対する考え方が、クリスマス・プディング並みに甘い。電話の話し方から教えなければならないとなると、手がいくつあってもたりない。アシスタント望む。しかし、2年以上、どこかで働いた経験のある方。わが家のアシストは銀行に3年いた。電話のかけ方が、すこぶるうまい。



 この一文が重過ぎる。


 本来、ものの描き手と読み手はちがう。唄のもんくじゃないけれど、両者の間には深い川があって、それはとても渡りきれない。


 このエッセイの中では、一般読者、マニア、ド・マニア、漫画家予備軍と4種類に分類されていますが、萩尾望都自身が漫画家なので、読むだけで描かない人とは根本的に目線が違うのは当然ですな。
 実際、漫画を読んでいる人の中では、予備軍は一番比率が低いんじゃないのかしら。そんなことない?



 しかし、萩尾望都のコメディがつまらないという意見もあるんだなあ。
 私は「3月ウサギが集団で」*6、「ごめんあそばせ!」*7、「とってもしあわせモトちゃん」*8、「スペース ストリート」の悪乗り感とか好きですけどねえ。



 しかし、人のアラばかりみてるより、何かやったほうがおもしろいのに。


 自分は漫画を描きませんが、そう、何かやろう。



余談1 70年代にマニア人気があったという傍証


 たとえば、1978年の「だっくす」12月号*9の漫画家人気投票では1位。


 



 作品部門でも「トーマの心臓」トーマの心臓 (小学館文庫)が1位なのを初めとして、4位に「ポーの一族」ポーの一族 (1) (小学館文庫)、9位に「11人いる!」11人いる! (フラワーコミックススペシャル 萩尾望都パーフェクトセレクション 3)、13位に「アメリカン・パイ」アメリカン・パイ (秋田文庫)
と4作品も入ってる。


 


 で、この投票がどの程度偏ってるかというのは・・・まあ雑誌が雑誌だからってのはあるけど、ワースト投票に挙げられてる作品を見れば「一般大衆」から乖離していたというのはお分かりいただけるんじゃあないかと。
 ワースト投票の上位がこんな感じ。


 


余談2 「まんがABC」に描かれていた未来の断片


 多数のカットが描かれているのですが、「11人いる!」11人いる! (小学館文庫)*10になるであろう原型が数点描かれています。


 
 (右へ90度回転してます)




 キャラクターもストーリーも、作者の中での誕生と誌面での誕生とは大きく年月を隔てることがある、という例としては竹宮惠子の「風と木の詩」風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)の主人公ジルベールも、その名前とイラストが読者の前に提示されたのは別冊少女コミック1973年11月号の「1ページ劇場」において*11で、その時点で構想から3年以上、発表までも3年ですか。
 漫画・映画・小説などの惹句としてある「構想10年」ってのはそう珍しくないのかもしれませんね。



余談3 「たん」の話


 1970年〜2年間くらい、萩尾望都と竹宮惠子が同居して*12仕事をしてた時期というのがありました。所謂「大泉サロン」ってやつ。
 で、その辺のことを描いたエッセイ漫画とか見ると竹宮惠子のことを「ケーコたん」って書いてるんですよ。
 やっぱり1970年代前半には「たん」が普通に使われてたって言って良いんじゃないだろうか。


 ちなみに、「ロコたん」っていう人形もあって(参照>ロコたん)、1972å¹´4月に最初のバージョンが発売。
 これは講談社週刊少女フレンド*13で連載されていた古茂田ヒロコによるファッション系イラスト漫画の主役キャラクターの商品化。
 つまり、1970年代には「〜たん」フィギュアが発売されてたんだぜー、と言っても嘘ではないということになります。




 といった所で今回はここまで。


*1:同タイトルで1回1ページの漫画の描き方指導記事のようなものが77年から連載されましたが、まったく別物です。

*2:アンケートにより決定される作品の順位

*3:デビューの原稿料が一枚千円〜二千円との記述。

*4:発売時期としては1976年1月

*5:これが1回目で、以降休刊まで、里中満智子、竹宮惠子、一条ゆかり、大和和紀、水野英子、木原敏江、土田よしこ、ところはつえ、弓月光の順で掲載された

*6:お葬式ごっこって今にしてみるとかなりひどいが発表時期が時期だしな

*7:音楽・バンド漫画のような気もする。女の子がドラム担当って当時としては稀有なのではなかろうか

*8:これとか大和和紀の「おいらケムケム」とかみたいな、謎生物系コメディーって今あんのかしら

*9:この誌名はこの号までで、次の号から「ぱふ」に誌名変更

*10:この1年少し後、1975年9月号〜11月号に前編・後編・完結編の3回に分けて掲載された

*11:1973.9.15と日付が入っている

*12:今風に言えばルームシェアですが

*13:1974年にオイルショックの影響で隔週になったけど、それでも誌名は「週刊」のままだったのです、この雑誌