拙著『「公共性」論』がお分かりにならないとおっしゃる先生方の言について、読者諸氏が留意すべきこと
小田中先生とか山形先生とか挙句の果ては松尾匡先生までが「むずかしい」「よくわからん」とおっしゃる拙著でございますが、皆様ゆめゆめだまされてはなりません。
この手の賢明な大先生方がおっしゃる「わからない」「むずかしい」は往々にして「趣味に合わん」「好きじゃない」の婉曲な言い替えにすぎないのであります。
たとえば松尾先生のこちらでございますが、非常に偏った角度からではありますが、見事にポイントを押さえたコメントになっていることはお分かりになると存じます。
(ちなみに本書にはもちろん、はっきりした答えは描いておりません。といいますかイースタリー先生の新著と同じく「万能薬はない」が答えになると存じます。ただしその場当たり的対応を律する基本原則として、松尾先生も注目される「立憲主義」が重要になるとは存じます。
それから私は、基礎所得制度は幸か不幸か松尾先生が想定するほどの激烈な厚生改善効果は発揮できない――「みんなが幸せになっちゃって、そのおかげでみんな政治的に無関心になっちゃって、かえって困っちゃう」ようなことにはならない――と存じます。松尾先生が論じておられるのは「基礎所得」一般というより、基礎的社会サービス全般のフリードマン的クーポン化かと存じますが、現状では公教育のクーポン化についてある程度の研究が進んでおり、かつての楽観論は影を潜めている――最悪の場合、単なる「富者への補助金」に堕する可能性が指摘されています。このメカニズムは基礎的社会サービス全般――ではないにせよ、ある程度広範囲に及ぶ恐れがあると存じます。赤林英夫先生のサーベイをご覧ください。)
私自身の考えるところでは、『「公共性」論』は『モダンのクールダウン』に比べると間口が広く、人を選ぶところの少ない本であります。口の悪い方は『クールダウン』について「オタク第一世代にしかわからない」とまでおっしゃいます。そういたしますと『クールダウン』に的確なコメントをお寄せくださった小田中先生は、選ばれた存在――ありていに言えば隠れオタクであるということになります。まあ、なんてこと。先生、実はモーオタだったとかいうことはありませんか。悪いことは言わないから白状しなさい。カミングアウトすれば楽になりますよ。