学生が自分の主張を述べにくくなる心理について

私は学生が自分の主張を述べられないのは精神的な背骨が無いからだという主張をしたが、かなり多くの方から「そんなの関係ないのでは?」というご意見を頂いた。そこで、価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれないにいただいたトラックバックを中心に学生が自分の主張を述べにくくなる心理について書かれた部分を抜き出す。変質的に思えましょうが、私のメシの種そのものですのでどうかご容赦を。

一般論として,先生は研究に正解はないと言いながら不正解だけはきっちり指摘してくるから,思いつく限りのことをすべてボコボコにされる学生は嫌になるんだよね.

あと,自分の経験に照らし合わせて考えてみると,本当に究極的に何も言えなくなってしまうのは,「僕はそう思う.それが好きなんだ.論理的な理由なんてない」っていうときかな.

結局,論理的に話を詰めていって,最後に意見が対立するのは,そう,好き嫌いだけだ.

重要なのは,否定できない研究アイデアはそうそう存在しないという事実です.

一般論として,先生は研究に正解はないと言いながら不正解だけはきっちり指摘してくるから,思いつく限りのことをすべてボコボコにされる学生は嫌になるんだよね.

否定できない研究アイデアはそうそう存在しないので,学生が提案したアイデアに対して「それはこういう理由でダメだよね」と指摘できないことはほとんどありません.

説得力がある理由を提示された学生は「じゃあこのアイデアではダメなんだ」と 納 得 します.

自然と学生は「先生はダメなところがない完璧なアイデアを求めている.そんなの思いつかない」と思うようになり・・・.

これから言おうとすることが間違っていることに気づいているときには何も言えない

何を考えてもダメなところが見つかるので何も言えなくなります.

実は,そのアイデアがダメなのは,現時点で学生と先生の間で共有している は ず の 問題の背景や前提条件においてなのですが,学生はそのことに気づいていません.

せっかく考えたアイデアを先生が納得してくれなかったら,前提条件の方を改めて説明したり変えてみたりしましょう*1.

問題の背景や前提条件を正しく共有することが大事です.

ただ、「間違うことに対して恐怖をいだいている」ことを克服して「自分の考えや思いを外に問う」にいたる過程は、(分野によるけど)2ステップなんじゃないかな。(1)「研究者」としての主体を確立すること、そして(2)「研究者」としての主体を客観化すること(完全にそれに同一化しないこと)。

自分でもよく考えのまとまっていない事に関して決断を求められて、相手のペースに引きずられて発言を二転三転させていると、自分でも嫌だし相手からの軽蔑も感じて非常に不快だ。

研究を教える、ということは
1.自分の背骨を見出させる
2.(少なくとも)分野の背骨を体感させる
3.自分の背骨を分野の背骨の中で位置付けることを学ばせる
4.その具体的形式的方法について教える
ということになります。

大学院ならともかく、卒研の1年では1〜3を身につけるのは難しいかもしれませんね。4ならば形として教えやすいですが、表面的であるのは免れえないでしょう。まあこれは制度の問題でなかなか一教員がどうにかできるものではありませんが。

逆に大学院ではこれら4つは必ず学ぶべきこと。とくに博士ならばサイエンスの背骨くらいまで及んでしかるべきじゃないかと個人的には思います。

flashアニメ黎明期はそういう意味では動く事がメインで、1コマあたりのクオリティはあまり問われてなかったので投稿しやすかった
棒人間で動きまくる方が評価されていたから
これがyoutubeやニコニコの登場で、プロ(の編集やMAD作品)と同じ土俵で比較されるようになる訳で敷居は高くなったよな〜と
自主制作でも凄いのいっぱい投稿されててビビるし

私の場合自分ルールが強固過ぎるというのがあるので、「精神的な背骨が育っていない」というのは違うような気がする。むしろ背骨が曲がらない(柔軟性がない)って感じ。で、その自分ルールに縛られながらも、他人をそれに巻き込むのが嫌でそうならないように気をつけて、それがストレスで病んでいって余計周りも困らせるというか。

「他人の求めている答えを察すること」がゲームのルールだと思っていた

筆者も「他人から自分がどう見えるか」が一番気になる。自分で鏡を見てチェックするよりも他人に見てもらった方が確かなような気がする。なにしろ、「自分」は一人しかいないけど「他人」は自分以外の人すべてだから。民主主義を採用するなら、圧倒的に他人が勝ちますよね。そんで自分が負けるのも分かってる。多数が勝つのが民主主義という奴ならば。

この学生さんにとって大学という場は、既に“制度”だったんじゃないかな。こないだ村上春樹が言っていた「The System」ってやつ。

凡人代表としていわしていただければ、何が分からないのかが分からない事が最大の問題であり、これが解決できれば苦労はしません。つまり、彼は「どうしてそれが正しいと思うのか」という問題にもまだ達していなかったと推測します。

配属説明会でも「研究の仕方を勉強すると思え」と言われたのだし,自分は4年では「研究の仕方」を勉強しているのだ,と思っていた.指導教官はコーチだと思うじゃん.今思うに,あれはコーチじゃなくて対戦相手だ.しかも自分と釣り合わない強さの.毎週KOされながら,鍛えられては行くだろうけど…リングと対戦相手は用意するから弱点の発見とか練習法とかはコーチなしでやれ.1年じゃ無理です.

「当たり前すぎて教えてもらえなかった」事は
『研究は間違えて良い,むしろ間違いを堂々と述べよ』
『答えは誰も知らない,当然指導教官も知らない.だから教官が間違えている事もある』
研究は難しいということ以上に「そんなのに気づかないはお前だけだ」と言われそうで怖い(だから「教えてもらえなかった」事とした).

こういうのは卒業研究のようなことに限らず、「自信がないことについては口を塞ぐ。判断を他者の責任において行なう。」というその人にとっては普遍的できわめて合理的な行動パターンなのだと私は思っている。そうすることがその人の「精神の背骨」なのである。あまりにも普段の生活でそれは合理的な行動パターンになっちゃっていて。このエントリでも傷つくことを怖れるな的な意見があるが、変に反論とかされて無駄なコストをつぎ込むのを回避しようと思うのはとても合理的でそれがダメだと言われてもそんなの信じないのが自然な反応ではないか。この手の引っ込み思案が実際に損につながるという可能性は否定しないがその程度の言説で刷り込まれた行動パターンをどうにかできるわけはない。「正解とか不正解とかない」なんて言われるのは想定済み、というかそんなのわかりきっている。

なぜなら彼らが間違うことをおそれるのは、洗脳されているといっていいほど社会からたたき込まれているからだ。だからまず「間違うことにたいして恐怖を抱く必要がない」という洗脳解除をしないといけない。

今は、価値判断基準を個人で持つことを否定する時代。

正確に言うと、「価値判断基準を極大集団で共有しているということに幻想を持つことで自我を守る」ことが当たり前になっている時代。

その当たり前に依って自我を保っている人は、無意識のうちに「個人として価値判断基準を持つ」ことを恐れ、またそういうことが出来ている人に対してコンプレックスを持っている。

なので「背骨を持て」と言われても、反射的に、「それが出来れば最初から苦労はない」などに代表されるテンプレートの言葉で反撃してしまう。

もちろん、「最初から苦労がない」などという言葉が、自分の抱えている問題についてまったく理解していないということを如実に示していたりするわけだが。

もちろん背骨がある程度のことが、苦労を除けるほど万能の解決策であるなどということはありえない。そんなことにすら気づけないほど盲目的に「万能の解決策の存在」を信じようとしているのだから、これはもはや狂信と呼んでいいベクトルの思考停止だろう。

通常,弟子は師匠の背骨をコピーしようとする.というか,そもそもそれが「弟子入り」の定義かもしれない.にもかかわらず,next49さんは「最期まで君は自分の主張の正しさを自分の言葉で言えず、常に私の保証を求めたね。はっきり言ってそれが私にとっては本当につらかった。」と言って突き放しているともとれることを言われている.長期的に見ればコピーにとどまってはもちろん駄目だけれど,価値観の雛形もない弟子にそれは酷のように思える.

「君」は、研究テーマに魅力を感じていない、と思う

彼らの最大の欠点は自分の頭で考えないことだ。

毎日暇なので、学生時代に学び漏らした事を追いかけたりしてます。エリクソンの「ライフサイクル論」(参照:エリクソンの発達理論)を見てると、青年期以降、世間体を気にして物事を選ぶような生き方をし続けると、「自分が無い=孤独になる」可能性が示唆されております。先述の表現者は、何もクリエイターだけの話じゃないですものね。たとえば自分に無い人は不安になって常に相手の愛を疑うでしょう。価値観が相手にあるのですから。「愛してるなら、私も死ぬからあなたも死んで!」と言う奴は自分がありそうに見えて、実はこのタイプじゃないかと。

ブログ更新して、自分の意見をまとめる、そんなことを毎日繰り返している自分としては、このコラムにはぐっと来るものがある。結局、外からソースを集めて紹介するこのブログは、管理人である俺に基本的な知識(経済やら政治やら芸能事情やら)が不足しているわけで。抽象的で客観的なコメントしかつけられない。それが悔しい。もっと主観的に、突っ込んで書こうとしても、いつもブレーキが働く。

なんかこのあたりの流れを読んでいて、どっかでいつか読んだ本のことを思い出した。なんだっけ。この日記検索したら出てきた、若桑みどりという人の『都市のイコノロジー』という本だった。

考えてみれば、戦前、戦後を通じて教室といえばぞっとするほどの画一的な空間でありつづけた。この一方的な空間のなかでは、主人公は教師だ。学生は微小な粒子からなる集合体だ。粒子が全体に責任を持てないのはあたりまえだ。小学校、中学校、高校を通して徹底的に集団の粒子にならされてきた者が突然きみは威厳にみちた空間的に独立した存在だなどと言われても白けるほかない。
『都市のイコノロジー』若桑みどり - 関内関外日記

 これだな。つーか、職場にある本なら、そこらにあるか。あった。うーん、この章のタイトルは「私語の世界」。どちらかというと、大教室における私語がテーマ。でも、遠からずという気はするがどうだろう。というか、初出はわからないが、どうも今から20年前くらいの本だ。今現在の学生たちの話ではないから、俺の狙いははずれているかもしれない。でも、最後の締めは、なんかまた近いような気がする。

 私には、かれらのはったバリアがわかる。バリアがわかるのは動物的な直観かもしれない。エネルギーを使うこと、傷つくことをなによりも恐れている。むしろ弱く感じやすい魂がその奥に感じられるのだ。すでに十分に傷つけられた、十分に被害にあった魂がある。傷つくことを恐れないでいるには、もうあまりにもかれらは老いたのだ。

 かれらはこれ以上めんどうなことにならないようにじっと自分の世界を守るだろう。挑戦することを禁じられ、情況に順応することだけを教えられた、特異な二〇歳をわれわれは前にしている。このような二〇歳を私は外国で見たことはない!

 まあ、俺は高卒なので大学やそれ以上のことは雲の上すぎてわからんが、小中高の中で、少なくとも俺は上のような弱い魂の人間であり続けたし、そうでなくなろうというきっかけをついに得ることはなかった。もちろん、それをすべて教育のせいにすることなどできないが、少なくとも、俺は、問題集の答えの冊子を覗き見してもいいから、模範解答を答えることだけに執着するようなガキだったし、たとい自分が自信満々の回答を持っていても、先生に当てられないなら、それに越した幸運はないと、そう考えて生きてきた。その性向が変わるような出会い、きっかけ、教育というものには出会わないで終わった。それで、完全にスポイルされたでくのぼうとして、ここでこうして息をしているのだ。

答えを教えすぎ。「ソツロンとは何か?」という前提を考えさせる必要がありそう。

研究にせよ仕事にせよ、一定レベルの経験や知識を積めば間違うことに対して恐怖を抱かなくなるのではないでしょうか。

どちらかといえば雑談の方が、そういった経験や知識の蓄積が利かない分、苦手な人は苦手なままになってしまいそうで……ええ、何歳になっても雑談ってやつは苦手でたまりませんよ。

  • 背骨の話は、教官と学生の関係としては踏み込み過ぎだと思った。おそらく性善説に基づいて、普通に表現したらかなりネガティブな評価になるところを避けて、その現象の背景について考察した結果ああいう形になったんだろうけど、面と向かって言ってその結果を受け止められる関係じゃなきゃ、あそこまで踏み込んではいかんのだよなあ。だんまりになっちゃう現象に対する考察のアウトプットを出したければ、学生とは切り離してあげて欲しかった。
  • 質問される=責められている気分になるという指摘は、なるほどと思った。日本的コミュニケーションとして、うまく行ってる=>黙認、なんか声を出す=>非難という構図があるのかもしらん。
  • それで連想したのだが、アスペルガーの人向けの定型発達者対策として登場する「質問には謝罪で答えろ」。これはつまり「なんで遅刻したんだ!」に対して(×)遅刻した理由を答える、(○)ごめんなさいと言えって話ね。昨日学習過程の話*1をしてたときにどうも引っかかっていたのだった。
  • 質問する側としては、受け手が非難として受け取っていないか念頭に置きたいと思った。

自分の中に価値基準を持つということは,意識的にせよ無意識にせよ,どこかで現状を全肯定するプロセスを経ているということで,だから,外に基準を置くなと諭されても,ではどう改善するかと言えば,この事実を認識した上で自信を持つしかないではないか?

自分の価値観に従って行動し,受け入れられることに慣れた人間が,自分の価値観に従って行動すること,はパブロフの犬に過ぎないわけで,もし偉そうに語りたいなら,自分の価値観に自信が無かった過去から,何を考えて何を思想として確立し現在に至ったのか述べてみせろと思う.

それぐらい,少しずつ社会適合的に自信を持つ人間と,そうでないものの差は,大きい.なぜなら適合戦略が正反対なのだから.最初から前者を取ることのできた者は,幸いなるかな!

考えれば考えるほど泥沼なのだ,なぜなら望ましい価値観に変えるということは,価値観それ自体に根拠が無いのだから,社会適合的になるということしか意味しない.個人という概念に歩みよれという外圧によって.

だから,価値観の上塗りをすることは,宗教か哲学か誰か他人かは知らないが,根拠を持つ他者に感銘を受けて変革していくしかないのではなかろうかね.自分で立つと錯覚するのはそのあとでやることだろう.変えてやりたい人間は,だから,素晴らしいと自負するあなたに,まず感銘させてやりなよ.

その人を変えたかったら「あ、この人が言ってること正しいな」「このやり方かっこいいな」「自分にメリットあるな」と思わせないといけないと思う。
たとえば、上のブログの2人は、その生徒にそう感じさせるだけの何か(背骨か知的能力か何か知らないけど)を見せたんだろうか?
簡単に言えば、生徒がその人を見て「この考え方を真似しよう」と思うだけのことをしたんだろうか?

こんな意味で、僕は、教育の成功は教育方法(または教育者)の魅力にかかってると思う。
サービスの成功は買った側が満足したかどうかで決まるだろうから、これを元にざっくり言ってしまうと、「あの先生に習えて良かったか?」って問いへの答えが教育の質をそのものだと思う。
先生と生徒が近い(と僕は思っている)大学の教育では、高校までの教育よりさらにクリティカルだ。

正解・不正解のほかに,妥当解や,傷のある解というのもあるはずです.いくつかは想定でき,いくつかは実際に表現してはじめて,本人または他人が,その正否あるいは妥当性を検証できるものです.卒業研究は,どこに妥当解を置き,そこを目指して卒業論文完成までどこまで努力できる/したかを,本人と指導教員が確認する作業です.また卒論だけでなく査読付き学術論文でも,傷のない論文というのは皆無で,見つけた(あるいはそこに明記されている)傷から,新たな展開が得られるということも,研究者なら誰しも体感しているはずです.

外部に正解を求めることと,価値判断の基準を自分の中に持つことは,対置よりは,両立可能な概念であり,その割合は,人や作業によって変わるものです.例えば「とりあえずコンパイルして,エラーメッセージや出力から,正しい振る舞い(コード)に修正する」「論文のある節を,一応埋めてみたとはいえ,その表現に満足できない.でも他に書くべきところがあるから,いったんペンディング*2する」ことも,それしかできないのはまずいですが*3,必要に応じてすべきだし,自分の見る限りではどの学生も,そういった作業を,誰かから教わったのか教わったのか,またその効率はともかくとして,やっています.

エントリでは「精神的な背骨」という謎めいた言葉を使っているけれど、それは、ぶっちゃけて言えば配置のストックをどのくらいもっているか、ということに尽きます。

先生が言いたいのは、学生さんが見るべきは、学生さん自身の内面などではなく、作品それ自体だ、というそれだけのことです。

しかし、すでに非対称な関係に支配されているために、先生が何を言っても生徒は自分の内面をのぞき込んで答えを見つけ出そうとしてしまいます。

作品に「美」を与えるのは、鑑賞者です。オブジェクトとその配置から、鑑賞者が美を読み解くのです。それだけの話なんです。

クリエイティブな仕事をしようと思うと、基礎をしっかり身につけた上でさらにそこに個性を乗っけなければいけない。生の個性だけというのはありえない。(知識を身につけたからといって個性が発揮できるとも限らないけど、それは才能だから仕方ない)

天才というものは存在するけど、そういう人は要するに基礎を身につけるのにかかる時間が極端に短かったりするわけで、基礎を学んでいないわけじゃない。

大学の勉強もそうで、基礎的な内容に関してはごちゃごちゃ言わずにどんな形でもいいからさっさと身につければいい。他人からの評価を気にしててもいいし、模範解答追いかけててもいい。多分、ある日ある境界を越えた瞬間に、次の世界にいけるから。

ひとつ気になるのは、その境界を越えてない人の数が増えてきているんじゃないかということだ。

「研究には正解とか不正解とかない....」ということもおそらく真であるでしょうが、正解でも不正解でもない状態をそのまま許容するというのは、ある種のせっかちなひとにはなかなか難しいものです。さらに「正解でも不正解でもない状態を」受入れつつ、自分の主張を述べるというのも、かなりの高等技術です。

確かに間違いを認めるというのは、誰にとっても、どのタイプの人間にとっても辛いものであると思いますが、とりわけ王様タイプが表現者(研究者)になった場合はきついんじゃないかなあと。これは自分が王様タイプなのでよくわかります。

 王様タイプは一目置かれたいという欲求が強い。そのタイプが研究者になった場合、派手な業績(言い換えると間違いでない・認められる主張)などは一目置かれることに関してはプラスに働き、逆に間違いであることを認めるというのはマイナスに働きます。周りの研究者にとってはどうでもいいことかもしれませんが、一目置かれるための「彼」のステータスをすべて台無しにされるわけですから、相当にぶっとい背骨がないと耐えられないかと(この「背骨」って言葉、なんかひっかるんすよね。↑の人は背骨は後天的に作られるものって言ってるけど、僕は先天的なものもかなり大きいと思う。けれども、後天的な要素も確実にあると思うから「背骨」という表現を使います)。

その背骨を作るのが、王様にとっては難しい。だって、他人を気にしなきゃいけないんだもの。王様タイプにとっては、これを乗り越えない限り研究者という職業につくのは難しいそうです。

B4が指導教官相手に対等の議論をできるようになってほしかったというのは、ちょっと要求レベルが高すぎる。教官は学生にとっては「評価する人」の側面を持ち、権力的上下関係が存在する。先生の評価や心証は卒業できるかどうかに直結する部分もあるので、評価は横においといて議論がしたいと教官が思っていても、そんな簡単に抜けませんわな。やっぱり怖いですよ。教官の方はそれに無自覚なのかも知れないけど。

それから、B4が黙っているのは、知識を獲得したばっかりで自分の適用のしかたに自信が持てないのもあると思う。分野でおなじみの理論であっても、初めて使う道具みたいなもんだし、慎重な人ほど考え込んで黙る気がする。

学生が黙ってしまうのは、この学生だけの問題じゃなくて、それまでの教育や環境ののあり方の問題もあるんじゃないかな。義務教育から大学3年までは、教育する側が想定している唯一の正解だけを求められており、正解じゃない場合は減点。これが刷り込まれている。優等生だった人ほどこのパターンにはまっている気がする。で、大学に来る人は元優等生の割合が高い……全然笑えない。

発表は1回限りで、それが理解されたかどうかで成否が明確に分かれる。つまり、発表には「失敗」がある。「そのときの発表での失敗」は、発表後には取り返すことができない。また、自身のアイデアは、大半の場合、最初から理解できる形で出てくるわけではない。

このため、表現には「理解できないアイデア」から「理解できる表現」にフォーミングしていく過程が必然的についてくる。その一手段が「発表の練習」であるといえる。その性質から、発表の練習は「理解されない」ということを内部に抱えることになる。

「理解されない」ということは、自分の意見が理解された上で否定されることよりも、はるかにストレスの溜まることである。理解されないから、まずその部分を内容面でどう直したら良いかわからないので、話が進まない。また、理解されるためには結局「共通の知識」に頼ることになることが多い。そこでやはり「共通の知識をもつ人間」と「持たない人間」の格差が生じるため、指導教官と学生の関係は非対称になる。

実際の現場でもこういうことが起こっているのではないかと思う。

教授「何か考えを言って」

学生「間違うから嫌」

教授「間違ってもいいから言って」

学生「間違うのは嫌」

教授「表現というのは間違うこともある」

学生「理解できたら間違わなくて済むはず、間違うのは嫌」

教授(え?だからそういうことじゃなくて・・・)

学生(一番大事にしている信念を傷つけてくる、パワハラだ・・・)

研究というのは正しいかどうか分からないところに、自分の理解や解釈を持ち込んで、表現するものという理解。

「自分が無い」学生なんて本当はいないでしょう。「考える力のない学生」というのもレトリックです。自分の理想とするあたりに対して「自己主張が足りない」「考えて判断する力に欠ける」と感じる、そういう学生がいるということですね。

自己主張が強すぎればただの頑固な傲慢になりますし、謙虚すぎても意志薄弱とか自信がないように見られてしまうだけです。程度の問題なら、程度の問題とわかるようにして書かれたほうが良かったように思われます。

しかし自分のことを思い返してみても、大学時代でさえ学問=テスト勉強だったな、と思う。私が先述のようなことを考えるようになったのは、会社に入って繰り返し「お前はどう思うの?」と聞かれてからだと思う。

私は仕事で、この文章にある「表現者」にわりかし近いと思われる活動をしている。が、必ずしも価値の判断基準を常に自分の中においているわけではない。資本主義社会における職業人=プロフェッショナルならば、常に他者から必要とされるものを創りだしていかなければならない。だから、自分ひとりが消費者でない限りは、価値は常に自分の外が決めることになる。

むかし糸井重里が、「大切なのは常に、自分と他者の間の中点を取ること」というようなことを言っていたが、自分がプロフェッショナルを目指す上でやってきた活動は、まさにそういうことだったと思う。「自分の背骨」でもって考えた血肉を、恐れながら震えながら、勇気をもって「自分の外」へ差し出す。引き裂かれて血が吹き出る。傷つきながらまた考えて、差し出す。ということの繰り返し。そういった意味で、この世界における価値というのは、「自分と外の世界の中点そのもの」と言える。

(だから、自分の主張をとりあえず述べて、相手の反論が正しいと思えてから自分は間違っていたと考えれば良いんだよ)

たぶんこの方が問題としたいのは、彼ら学生の世界には、外の世界の円しか存在しないのでは、ということだ。中点は、自分自身で円が書けなければ、取りようがない。もし学生たちがビジネスの世界で活躍したいと願うなら(研究職でも同様かもしれないが)、まず自分自身の円を書けるようにならなければいけない。ここで言われている「背骨」は、おそらく強固なコンパスの針のことだろう。

甲殻類にならないで学生が発言するようになるには、「間違える事は恥ではない」という事を言葉ではなく身をもって気がつかせてあげれるのが重要なんだと思う。(言うは易し行うは難しなのだが。)id:next49さんの研究室でもディスカッションとかセミナーとかあると思うけど、そこで教授やid:next49さん達スタッフや博士課程の学生達はどれだけ間違った発言をしているのだろうか。もちろん、間違いを認識しながらの発言ではなくて、発言している時は正しいと思っているんだけど、後々ゆっくり考えてみたら間違えだなーという発言。そういう発言を"やっぱ間違いだわ発言"とここでは書くけど、その種の発言は研究室のような教育の場では非常に大事だと思う。

常に正解を外に求める。→ 正解を求める文化で教育を受けた。これは、ホフステードのUAI/IDVで考察した。集団指向でリスク回避的な文化では教育機関は正答を求める方向に流れがち。ただ、個人レベルではバラエティーがある。進学率が上がると高等教育に、正解を求める人が増えるのかもしれない。ただ、この分析だと文章の底に流れる葛藤みたいなものが説明できない。

ユングの外向・内向 → 外向人間だと表現が得意で求められているように行動する。表現も巧みなので一見『背骨』があるように見える。しかし本当に「表現したいことがあり、葛藤している」のは内向タイプ。こうしたタイプが葛藤を乗り越えると表現者として花開くこともある。実際は中に規準のあるタイプの方が規準がないように見える。

この人は多分「外向」が強い人だ。「私」の規準が外で作られる。内向の人たちは先生の言う事やマンガから自分の背骨を作ったりはしないし、先生の声が聞こえたりはしない。心の中に規範の元があるからだ。この内部規範は「背骨」と言える。そしてこの二つの性向は1人の人間にバランスを取りながら存在している。いったん「自分は外にある規準から中の規準を作った」と言っておきながら、後段で「外にある人は表現者になれない」となる。

学生に問題意識がない → 社会人として答えのない問題を考える機会があると問題意識が生まれる。高等教育をそのまま進むと問題意識が育まれる時間がない。なので、海外の大学院ではいったん社会人経験を積ませたりする。これは教育システムの問題ではない。外に求めるのではなく、そもそも問題意識が存在しないだけである。

内面から自然に湧き上がってくる何物かの想念に導かれて、必然的に向かわざるを得なくなるような方向を目指すのではなく、どのような方向であれ常に妥当する客観的な技芸を習得すること。この局面においては「精神的な背骨」などさして必要とはされませんし、「表現者」たる気構えなどもっと必要ありません。必要なものは客観的に妥当だと認められる「正解」や「最適解」であり、あるいはそのような解を導き出す定式やモデルであり、あるいはそのような定式やモデルを構想し得る方法的認識です。その方法やモデルや最適解がいったい何を目指すべきであり、人間に何をもたらすべきなのか、などといった価値的な問いについては、現代のArtes Mechanicaeは「語りえぬもの」として「沈黙」するのでしょう。

 そもそもH教授に指導教官になってもらおうと思ったのは大学2年生のときに受けた「一般」の授業である「文学概論」で、自由にやらせてくれたからだった。生徒数人を出席簿順にグループ分けして課題図書を与え自由に発表させるという授業を受けたときに、課題を与えた生徒たちに一切口を出さず、発表が終わった後自分の意見や疑問をそっと述べるだけである。何も強制しない。出席も取らないし課題図書を読んで来なかった生徒を批判するようなこともしない。

 生徒の持つ潜在能力を信じきっておられたのだろう。「何もしない」というのはなかなかできないことだと思うのだ。H教授の講義を受けたのは2年生のときのその授業の最初の1度と、最後の1度の、2回きりである。僕たちのグループの発表では、じっと発表を聞いて最後に「今回は発表側の生徒と聞く側の生徒の間にちょっと準備の差がありすぎたね」と一言述べられただけであると記憶している。

これは貴方御自身が自分の論文に対して、反論の余地があるなら「正解」だけど、全面的に賛成であるとした場合は「不正解」という事で、つまり自己否定する段階を設けて自己の研究を表現する事だけど、実は双方とも外部に依存しているから成立する事なのだ。貴方は先生である前に研究者であり表現者だ。

ある学生が「常に外部に正解を求めた」事すらも研究であるに違いないのだ。それを否定するのは貴方の主張する「研究」ではないのではあるまいか。研究の本質は自分が正しいと思ったり感じたりした疑問なのだから、外部への依存によって表現する事は決して間違いではない。

まず、人格形成は、大学の教員の仕事ではない。大学に入るまえの親の教育の問題である。

大学の教員は大人として、そこに立ち入る必要はない。

一方で、自分でものを考えることをしたことがない大学生は、自らを成長させることに失敗したのだから、自分の不明を恥じるべきである。

ぶっちゃけて言うと失礼だが、大学生(大学院生)は大人なのだから、大人として扱うべきだと思う。

大人が大人の人格形成をしようなんて、相手に対して失礼でしょう。先生。

都合の良いときだけ未成熟を武器にするのはやめましょう。大学生。

 上にできることというのは、「間違えたところで死ぬわけじゃねえし、恥じゃねえ」というのを下に思わせることができる環境づくりしかない。間違えることは恥じゃない。間違えてることがわかっても間違いを直さないのが恥だ。

合唱をやっていると、判断基準を「外」に持ってしまいがちなんじゃないかな、と思うことがたまにあります。

「みんな」とか「指揮者」とかに判断を任せて、「自分」を無くしてしまいがち、というか。

「指揮者・先生の思い通りに」とか「まわりの歌い手に迷惑をかけないように」とか「目立たないように」とか「間違えないように」とか・・・そういうところばかり考えて、「自分はこう歌うんだ!」という想いに蓋をしてしまう人が多いような気がする。

このやりとりそのものには賛否両論あるだろうが、「出来の悪い学生はちょっとした学会にすら行けない」と愚痴を言ってはばからない教員がいる一方で、「出来の悪い先生が受け持つとちょっとした学会にすら連れて行ってやれない」と反省する教員もいるということである。どちらが正しいということではなく、世の中はちゃんとバランスがとれているということだ。

今回の騒動は紛れもなく研究室の一端を表しているのだけれど、目に見えないところにそれとは反対のもう一端が存在するということも心にとめておいてほしいなと思った次第です。特に、これから進路を決める高校生あたりに。

つまり、嫌われないこと、がいつの間にか、考えない、になっている。

相手があるが故に、間違いを恐れているではなく、そもそも、考えることを放棄している。自分自身の意見を述べる恐怖ではなく、そもそも物事を考えなくなって、自分という人間を小さくしている。

あらきけいすけの雑記帳:いまどきの学部学生をクソだと思う一つの理由のid:pollyannaさんのコメント

「ジャンプしてごらん、受け止めてあげるから」と教師が腕を広げているのに、そこに学生が飛び込めずに足がすくんでしまっているような状況が、つらいなあと思いました。

無条件に受け止められる経験、失敗は失敗として人格とは切り離して評価される経験が、もしかしてそういう学生さんには足りていなかったのかもしれませんね。
学校もですが、親子関係にも根はあるかもしれない、と思いました。

失敗しても叱責されても、自分の全人格が否定されたとまでは思わない“強い”(ある意味鈍感な)人が研究業界を目指し、生き残っていたのは昔の話で、今はそういった“強さ”(鈍感さ)をまだ得ていない人も大勢研究業界を目指しているというあたりで、なにかしらコンフリクトが生じるのかもしれません。

企業をはじめとする一般社会でも「自分でものを考えられる」人材を求めているはずで、こういった摩擦は起きても良さそうなものですが、なぜかそこまで目立ちません。
昔ながらの企業(私がかつていたところもそうでした)は疑似家族のようなもので、親・祖父母・兄弟・おじおばなどになぞらえられるような奥行きのある人間関係の中で、「受け止められる経験」「失敗しても誰かは自分を認めてくれる経験」を再体験でき、新入社員は無理なく成長していけるのかもしれません。

その点、研究室だと、どうしても指導者と学生の一対一の関係になってしまうため、たとえていえば母子密着のような問題が起こりやすいのかなあ、などと思ったりしました。

この件で教員の皆さんが責められているのをみると、子供の育ち方の責任をすべて母親に押しつけるような構図と似たようなものを感じ、たまらず出てきた次第です。

表現にはスキルが必要で、それは自分から表現してみることで伸びて行く。もちろんちゃんとした指導も重要で、作文教育で体系的なスキルの教授が行われてるかってとこにも問題はあるだろうけれど、別の側面として、表現教育の場の問題もあるんじゃないか、という気がした。

どんな演技のワークショップでも稽古場でも、大前提となっていることがある。それは、「基本的なルール(自分や他人に危害を及ぼさない、等)を守る限り、そこで何を表現しようが許される」という安心感と一体感をその場に作ることだ。出した表現はもちろん後から批評を受けるけれど (そうでないと改善できない)、それはあくまでよりよい表現をするための建設的な意見であって、人格批判ではない、ということをすっと信じられるだけの空気が必要だ。これはあまりに当然のことで、わざわざ言わないインストラクターやディレクターも多いけれど、演技にかかわる者の間ではほとんど常識に属する話だと思う。

役者という、人前で表現をすることを自ら選択した者にとってさえ、表現することはとても怖いことなのだ。少しでも萎縮するような要因があると、灯りかけた表現の種火はすぐに消えてしまう。種火が、少々の風では消えないくらい力強い炎になるまでは、慎重に守ってやる必要があるのだ。参加者全員がその恐れを乗り越えることが出来てはじめて、表現について取り扱う準備が整ったことになる。

プロの役者でさえそうなんだから、学校の生徒ならなおのこと、表現をしようとする最初の段階での安心感がとてつもなく重要なのではないか。

  • 最低限のルール (人格攻撃をしない、とか) を守っていればどんな表現も許される、
  • 表現したものに対する評価は、表現そのものの良し悪し (感じたことをどれだけうまく表現できたか)についてのものであって、感じたことそのものについての評価ではない。

ということがはっきりしていれば、生徒もずいぶん楽だと思うのだ。もっとも小学生にこういうルールを(頭ではなく、体感として)わかってもらうのは相当難しそうだ。高校生くらいなら何とかなるかもしれないなあ。

「精神的な背骨が育っていないから」ではなくて、自分の意見を言わないのはそもそも研究の目的が理解できてないから。間違うのがわかってて、それを論破されるのがもうほぼ確実に予想出来てるのに、わざわざ自分からフルボッコされるようなこと言うわけないじゃん。もう黙ってるしかないじゃん。

一般論として,先生は研究に正解はないと言いながら不正解だけはきっちり指摘してくるから,思いつく限りのことをすべてボコボコにされる学生は嫌になるんだよね.

立場や能力の非対称性を考えると「正解はないけど、君の正しいと思うことを主張して?」という要求のひどさに対して慎重であるべきだと思います。公開の場で人格非難を行ってますし、甘えているのはid:next49さんでは?

「自分の価値観を貫くことと協調性を保つことは対立しないと思う。対立すると思うのは、日本的な「何でも我慢」の精神で物事を捉えているから。繰り返すけど、我慢は一歩間違えると感情を枯渇させる引き金になる。「凍り付く」ってのは感情が枯渇してるってことでしょ?」

確かに自分が書いたのは研究に限定しての話なのですが、それには理由があってですね…

一言で言うと

研究には興味無いので、そこで背骨とか価値基準とか持ってませんし要りません。

でも他のことでめっちゃ背骨あるので別にいいです。

ってことがあるからじゃないかなとか。

多分、ブックマークでのコメントや他の人のエントリでも言及あると思いますが。

変な話なのですが、自分がB4とかM1くらいの頃はよく

「自分は学生で習う身だしへなちょこでOKだし、研究に興味失っても転身できるし他にやりたいこともできることも一応はあるし、少々さぼっても別にそこまで損はしないけど、指導教官は研究が仕事で、これでお給料もらってるんだよな」

と思っていました。

教官が熱っぽく語りかけてきても自分があまり熱意を持てないとき、もちろんそこには単なる感性の違いやら教官の先見の明マジ最強とか自分の無知さ加減にひどい怠惰っぷりなどなど、実に多数のファクターが影響してきます。

が、何より教官はこれが仕事なのだ、これでずっと人生やってきたのだ、研究に対しての思いが違うのだと思うと、自分は一番納得がいったのですね。

「やりたいことをやれ」と言われても、「なりたい自分」がわからない為に、またそのロールモデルも示されない。

なりたい大人がいない。芸人や女優はバカばっかり。

個性という言葉に振り回され、学校社会からドロップアウトしていった友人達もたくさんいます。彼らがどうなるか、どうなっていくか、今の僕にはなんとも言えません。そんな彼らの現状は、浪人という名のニートです。親から将来に対する投資を引き出したくば、既定路線に乗って勉強するしかないのです。

将来に対する明るい見通しも示されない社会で、学校のがんじがらめなシステムに縛られ、そのシステムの上で最低限要領よくこなすのが、残念ながら今の時代の大多数の学生の在り方です。将来に対して「若者が何をやっても変わらない」、そんなニヒリズムが支配しています。この点だけで言うと、学生闘争時代のエネルギーは羨ましくもありますが、今の社会を作ったのは彼らでもあります。彼らと違い、全入時代の今の大学生はエリートではありませんが・・・。

何が悪かったか、一カ所に原因を求めることもできません。ただ、この時代の閉塞感のようなものを打ち破ってくれる何かを、他人事のように待っているだけです。僕らには時代を変えるエネルギーがない。それは認めざるを得ない。

学校のテスト対策に特化した思考訓練が延々と12年もされてるから仕方ない。

大学受験で成功できるかどうかは、テストで点取れるかどうかが問題であって、

失敗は単純に忌避すべきであり模範解答があるならそれを覚えたり、

覚えられないなら模範解答により近い解答を考えられるようにする能力が必要であるわけで、

実際、その影響のせいなのか、自分も論文を書くときにかなり苦労している。

国語のテスト対策に特化しすぎて「採点基準に従って加点式で採点すると点数が確実に8割くらい取れる」

って文章しかかけなくなってしまってるようで、教授にわかりにくいわかりにくいと叱られる状態。

あともうひとつ重要なことは、大半の学部学生にとっては、研究なんてどうでもいいってこと。

だから、大学受験以降(要するに研究)のことを考えて思考力を磨こうなんて動機がそもそも起こらない。

研究なんてできてもできなくても、卒業さえできれば就職にはあんまり関係ないからね。

っていうか、喧嘩にナンパ、愚痴でも零せば、じゃなくて、バイトにサークル、就活に卒業旅行を大学に求める学生と(授業は出ずに、全部優なら嬉しい)、単位に一定の要件を求める人の温度差というか、スキルの習得には一定のプラクティスが必要である(そして、一定のプラクティスの実践がスキルの獲得を保証しない)とする教官側と、「金払っているんだから、バイトにサークル、就活で忙しいから、授業に出なくても社会で活躍するスキルを身につけさせろ」「ネトゲーとBlogとTwitterより面白い授業をしたら出席してやる。俺が出席しないのは、面白い授業をしない教官が悪い。楽曲を買わないのは、俺に買わせるほど感動的な曲を出さないアーティストが悪い」という学生側との温度差だよな。

自己評価だけを大事にして、他者の評価をまったく気にしないような人間になってしまうと、社会に適応することができなくなって不幸な感じになるかもしれない。

他者の評価ばかり気にして自己評価することができないと、他人からいい風に見られようとばっかりしすぎて、自分のやりたいことが分からなくなってしまうかもしれない。

他者の評価と自己評価があまり乖離(かいり)しないことが大事な気がする。そしてそれは、誰かが最初に適切な評価(フィードバック)をしてあげることが大事で、大体の人間にとってそれは両親だと思うんですよね。

受験できなかった理由は、聴奏→即興演奏ができなかったから。
(当時の)8級には、試験官がまず曲を弾き、そのあと受験者がそれとまったく同じ演奏をするという「聴奏」という試験があった。7級は、この聴奏をしたあとそのまま、その曲のアレンジをして演奏しなければならない。これが、即興演奏。

聴奏は非常に得意だった。間違えない自信があった。そして作曲も、作曲コンクールに入選したくらい好きであり、得意だった。でも、どうしても「自分で作ったものをその場で聴かせる」ことができなかった。曲が作れないからではない。メロディーはすぐに浮かぶ。でも、それを人に聴かせるのがどうしても恥ずかしかった。

誰もが、私に即興演奏の力がないと判断した。当たり前だ。
悔しかった。できてるのに。頭にあるのに!人に見せようとすると、手が震えて止まってしまう。

最後の日、私は先生に言われた。
「ただ、自由に思ったまま弾けばいいのよ。」

ただ、自由に!?自由のどこが「ただ」なんだ!!
自由に何かを表現するということがどれだけ難しいことか、先生にはわかる?
私にとってそれは、その場で服を脱ぐことよりも恥ずかしいことなんだ。自分が思ったことをそのまま出して、それを先生に「評価」されることが、本当に恥ずかしかった。なんで自分をこの人に見せる必要があるのか理解できなかった。

で,どうするかというと,やっぱり議論するしか無いんだよね.で,ダメダメに見えることを言う人は,たいてい議論が下手というか,こっちが追い詰め方がうまいというか(我々は,多分厳しいことを言われ続けているから,厳しいことを言うことが得意になってると思う.自分に厳しい人は,より人にも厳しい.だから,俺は甘い方だと思う),必要以上に学生に「あぁ,ダメダメなんだなぁ」と思わせてしまう手管をもっている.で,それでいい芽を摘んでしまうことが,何より恐ろしい.

先生方の質問をよく聞いていると,質問のテンプレを持っていることがわかる.ということは,そのテンプレに答えることが出来るようにしておけば,先生方の(恐い)質問は,実は恐くないんだ.研究ってのは,やりたいことを,研究のテンプレにはめ込んでいく作業といえないこともない.型がある.流儀がある.何か,面白いこと,やりたいことを,「研究」というやり方で行い,見せ方で発表する,それが大学(院)の研究.その辺のことを,輪講とかで注意深く聞いておくといいんでないかなぁ.テンプレ通りにやればいいってものでもないし,この研究にはこれ,という明確な型があるわけでもないし,とくに,俺は知っている型が少ないというか,システムソフトウェアとかその辺に寄っているので,それを議論しながら,いつも考えていないといけないんだけど.ちなみに,その分野の論文を読むと,そういう型がわかってくるので,よく読んでおいて下さい.同じ既存研究がないよー,というのは,論文を読まない理由にはならないんだよ,とかなんとか.

それでもまあ、歳がいくにつれどうしても必要な時くらいはなんとか無難にこなせるようになっていったんだけど

大学の研究室は無理すぎた。それまでは何十人の生徒の中の一人だったのが研究室では一対一。

それで考えを述べるように言われるとパニックで頭真っ白になって何も言えない。

せめて普段軽口を叩けるくらいの関係になれば少しは何かいえたのかも知れないけど、指導してくれた人はそういうタイプじゃなかったし

何かもうどうにもならずにドロップアウト。成績のよさだけでいい大学いったけど自分の行くとこじゃなかったと痛感した。

今は気楽にやれる職場でどうにかやれてるけど、それでも時々心臓が凍りそうになることはある。

もはや、卒業研究ができるかできないかというのは、「ひ」と「し」の区別がつくかつかないかという能力を測る程度の役割しか担っていないのではないかと思う。そして卒論を書かせるというのは「ひ」と「し」の区別がつけられるように訓練するくらいの意味しかないのではないかと思う。たまたま適性のない人にとっては単なる苦行以上でのなにものでもない。もし、それ以上の社会的役割があるというのなら、「その理由を教えて」ほしい。そう、もちろん、「間違っていてもかまわない」。ただし、周りがみんなそうしているからといった「精神的な背骨」のない回答は望ましくない。

渡された女性誌を読んでて、ああこういう雑誌って、

背骨話とは逆方向の人間ができあがるようにつくってある。

っておもった。

いまだ愛されコーデとかブランドのバッグとかいってるんだけど、

おもいっくそ価値の判断基準が他者にあるよね。

人から見てどうか、皆が知ってるかどうか。

他人の美意識=正解って世界観が逆に清々しい。

この中の自分らしさなんてのは、正解とされているものの中から選んでるだけ。

店、ネットテレビ雑誌にでてたもの以外の選択肢を持とうとしてるだろうか。自分含め。

むかしの女の子ってこうやって作られていたんだなあって思うよ。

  • "価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。"ぐさっと来たよ。グサ・・・、そうなんだよ結局他人の目が怖くて情報発信できなくて、脳内で済ませちゃうんだ・・・かっこわるorz変わりたいな。
  • 精神的な背骨を作り始めた時に、折っちまったんだなーと思った。
  • 外部の価値判断基準を知ってこそ自分の中の価値基準ができる。ハタチそこそこの学生に自分だけに拠る価値基準を求めるのは酷では?
  • これは言葉で言っても伝わらない 本人が痛い思いをした時に真剣に悩んで悩んだ挙句にやっとつかみ取れるもの
  • 教育に失敗した人が「教わる側が悪かった」と逃げるのはよくある話。「彼は能動的でなかった」とボヤく先生は(言いわけをみつくろって)そのボヤきを本人にぶつけない。いいコンビじゃないかなぁ。
  • 背骨の無い人に、今更(卒論作成時)そんなこと言っても手遅れだし無駄なのだが・・・
  • 別に、表現者になることが一人前になるコトじゃないし、「あえて外に置く」というポリシーを持たないとやっていけない表現分野もあるのに。
  • 研究者は表現者じゃねえだろ // この人は三島由紀夫を読んだことがないに違いない
  • 研究以外のことでも背骨は必要なことを認めた上で。教官の前で黙るなというのはやっぱり無理w 研究内容が血肉になるのって卒論修論書いて眺めてからだべ。指導教官相手に自分の言葉で話すのは怖いよ
  • メシ(他人の価値観)を喰らって出てきたモノが、表現。メシを喰わなきゃクソも出ない。若いうちは、メシを食わなくてもクソができると思いがちだが、それではやせ細って飢えて死ぬ。
  • そういう教育がされてないから。(高校までの)学校教育が"ただ従順に指示に従う羊になることを求めている"から。素直な人間は当然そうなる。で、大学へ行って訳が分からなくなって放浪へ。戻ってこない人も。
  • 直接相手に言えないことを書き留める掃き溜め、チラウラと化したはてなダイアリー。こういうネットの使い方もアリだと思った。
  • なるほど、ネットで公開するにあたって元学生を(本人が知らないところで)人格批判したからここまでエントリが伸びてメタブクマがグチャグチャになっているのか/本人にはその自覚が無いと思うが
  • 最近の20代前半くらいの子たちって、自分で自分の成長を止めてる子が多い。「自分の成長はここまで」って根拠のない規定を行ってしまっている。理由は不明だけれども。
  • こういうことを書きたくなる気持ちはなんとなくわかる。けれど、この二人がうまくいかなかった原因はもっと違うところにあるんじゃないかと思う。
  • 仰っていることはある意味正論。僕も指導教授に同じことを何度も何度も言われてました。ただ指導教授は、其れを口に出さずに相手に理解させ実践させられる力が足りないから仕方なく言うのだとも仰っていた。
  • 日本では背骨を育てるような初等教育が行われてるかって言うと怪しい。特定の学生の問題ではなく広く教育の問題でしょこれは。
  • 友達がこれ読んで怒りつつ挙げ句泣いてた。俺の友達を泣かすなんて酷い記事だ。
  • 「まだ君には精神的な背骨が育っていないから」→すでに精神的な背骨をバッキバキに折られてる可能性もある。その場合育てるのとは別なやりかたで背骨を修復しないといけないのかもしれない。
  • 「他人」の内面語り。こういうことをなんの疑いもなくぬかせる人にこそ「甘えるな」という言葉がお似合い。
  • 足一歩動かすにしても他人の目が気になるから、いっそそれを許容して人の目を気にしまくって生きてやろうと思っていたのでこれは堪える。これを言われると本当に引き篭もってネットの回線を切って首を吊るしかない
  • 背骨を手に入れるやり方を教えろって、学生の頃は思ってた。でも、そこは言葉とか手法とかで伝達できないんだ。いいとこ、自己啓発セミナー的な何かで終わってしまう。背骨形成をする、潰れない程度の、適度な圧力。
  • 俺的にこれは正しいと思う。その学生と俺は完全な同類であり、俺は表現者にはなりえない。自覚してるけどどうこうしようとは思わない。だってどうにもならないんだもの。そういう人種もいるんです。
  • 「私が『どうして、それが正しいと思うの?その理由を教えて。』と聞くと、いつも君は表情を凍らせて黙ってしまったね」そこでの切り返し方を教えるのがてめえの役割だろうが。豆腐の角に頭ブツけてしねよ
  • どこか先生の自己肯定に聞こえてしまう/外部の価値観を一旦選び取った後にそれとの軋みとして表現者の「背骨」が形成されるんじゃないかと思うけど
  • 「君への言葉を一度形にしておかないと私の頭に一生こびりつきそうなのでここに書かせてもらう」 色々あるけど、まぁ動機がだいたい全てを表しているかなぁ。
  • それはいわゆる禅問答というヤツではないのか?それを書くことは「貴方の内面は空虚であること、それをまず認めろ。話はそれからだ」ってことでしょ? / 骨まで砕かれてしまった人はそれまでなのか
  • うがって読むなら「親の求める"いい子"像」に囚われてる人への言葉。
  • ?論文にはアクセプトとリジェクトがあるんだから客観性は意識するだろ。自分の主観だけで書いたらSFになっちゃうだろ。違う?/あと変にやりこまれない様にという意味でこれも知っておいた方がよさげd:id:repon:20090118
  • 言わんとすることは分からなくもないが、この言葉を伝えたところで、彼は貴方の求める背骨とやらに翻弄されるだけに違いない。
  • 背骨が弱い人を「甘えるな」と叩いたり背骨自慢してる人は何なんだろ。他人の背骨が育つのを邪魔したいの?
  • 泣きそうだよ。事実上の敗北宣言なのにも関わらず当人はあの長文エントリで教授としての責任を果たしきったような気になって自己陶酔してそうで嫌悪感で死にそう。なぜあれが通用するのだ。悔しくてたまらない。
  • まああれだ。これから気張っても人生伸びシロの無いエントリ主を下目に見られる所まで行けば良いわけだし、それはこれからだから。/と書きつつ当の学生はこの人に対して何の感慨も抱いてないような気もするけどね。
  • メタブ盛り上がってるなあ。これが刺さって激高しちゃう人は生き辛そうだ…。あと学校に人格形成まで求めるのは酷だろ。家庭環境・友人関係の影響が大き過ぎる。
  • 与えられたテーマが、本当のところ自分自身のものではないと本気で悩んで研究したくなくなったことがある私が通りますよ。
  • メタの方が盛り上がっちゃって面白い / 究極の疑問として「貴方は何故それを自分の背骨だと確信できたのか?」ってのがある。むしろ逆に背骨を確信できるようになれ!って話かもしれんけど。
  • たまたま配属された研究室とゆー狭い世界に、たまたま適合できなかった場合、それを学生のせいにするのはよくない。
  • これは指導者としての敗北宣言だと思う。この手の考え方を、普段の関わりの中で手を変え品を変え学生に染み込ませる事が教官の使命ではないだろうか。日本は背中で物を語れば事足りるという徒弟的発想が大きいキガス
  • 元エントリは敗北宣言つーか、「僕は君を育てるつもりは端からありませんでした、ご愁傷様。」と読めてしまうのがアレ。大学の研究室とやらはそんなもんなのか。
  • こりゃひでえ。背骨が必要だというなら、それを作るのがてめえの仕事だろうが。それをできずに「あー、君とはやりにくかったよ」だなど、ふざけるにも程がある。
  • ほんっと自己啓発好きなのな、どいつもこいつも。マゾヒストどもめ。guri_2のアレ思い出してヘドが出そうになったわ。話の構造も反応もまったく同じ。どうせ「背骨のあるやつ」がいたら出る杭認定だろう?くたばれ。
  • 元エントリに原則同意だけど、大人は若者が積みあげている途中の「自分」を「それは君じゃない、ただの正解だ」と蹴倒してしまうこともあるから、若者は口のうまい大人に出会ったら一度疑っていいと思う。自戒含め
  • 生徒に直接いえるほどの関係を結べなかった先生ってのは、どうなんだろうな。
  • 「ボクは"背骨"を自分で手に入れたマッチョ。お前はウィンプ。だから駄目」と断じてるだけなのにこんなに称賛を集めるとは、みんな決断主義好きすぎw/意に沿わない学生への鬱憤をブログで晴らした人の例は過去にも…