かながきの ぶんしょうは なぜ 「よみにくい」と いわれるのか?

 ひとつ まえの きじを ひじょうに おおくの かたに よんで いただいたようです。まったく よそう して いなかった ことなので、おどろいて おります。とても ありがたい ことです。


●じかん げんしゅは ちこくする ひとに めいわくが かかるので やめて ください


 この きじに たくさんの かたが ブックマークを して くださり、また コメントを かいて くださりました。きじの ないように ついての さまざまな コメントも いただいたのですが、わたしが かんじを ほとんど つかわずに ぶんしょうを かいて いる ことに ついての コメントも たくさん ありました。
 ぜんかいの きじからは だいぶ あいだが あいて しまったのですが、きょうは、そうした かながきに ついての コメントを よんで かんがえた ことを かいて みたいと おもいます。


●きじの ブックマーク・ページ(1)
●きじの ブックマーク・ページ(2)
●ブックマーク・ページの ブックマーク・ページ
●ブックマーク・ページの ブックマーク・ページの そのまた ブックマーク・ページ


 いじょうの 4つの リンクさきから ブックマーク・コメントを いんよう させて もらいます。

b:id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。


 わたしが ブログで かながきを じっせん して いる りゆうに ついては、これまで 5つの きじで のべて きました。

  1. 漢字について
  2. 「学校という空間」をこそ もんだいに しよう
  3. 表記が 生成される 場に たちかえってみる
  4. こくご はいしろん じょせつ
  5. 「こくご はいしろん じょせつ」への ほそく


 5.の きじだけは、「かんじ・かな まじり ぶん」という にほんごの 《かきあらわしかた》の もんだいには ほとんど ふれて おらず、おもに 《げんご》の もんだいを ろんじて います。にほんで はなされて いる さまざまな げんご*1の なかで にほんごだけを 「こくご」として とっけんてきに あつかう ことを やめましょう という ていあんを おこなって います。
 ただ、この 《げんご》の もんだいと かんじ・かな まじりの 《ひょうき》の もんだいの ふたつを、わたしは きほんてきに おなじ ろんりで かんがえて おりますので、きょうみの ある かたは、5.も あわせて よんで いただけると さいわいです。


 うえに あげた 5つの きじは、どれも ながい ぶんしょうなので、ここで かんたんに わたしが かんじを なるべく つかわないで ブログを かいて いる りゆうを のべて おきます。
 それは できるだけ おおくの ひとが ぶんしょうを よんだり かいたり できた ほうが のぞましいと かんがえるからです。わたしは いっぽうでは よみかきが できなくても なんの ふつごうも なく せいかつできる しゃかいが りそうてきだと おもって います。しかし、にほんごの よみかきが できないと さまざまな めんで ふりえきを こうむって しまう という にほんしゃかいの げんじょうでは、そうした ひとたちが よみかきを みに つけやすい かんきょうを つくって いくという ことも どうじに おこなって いく ひつようが おおきいでしょう。
 また、わたし じしん、もじで かかれた ものを よみ、また かく ことに よって、さまざまな よき ものを いままで たにんから うけとって きたと おもいます。もちろん、わたしが ほんを よむ ことが できる ゆえに、かえって みおとしたり みえなく なったり して いる ことは あるでしょう。だから、いっぽうでは、たんじゅんに 「よみかきによって せかいが ひろがり、みかたが ひろがる」と いって よいのか、ためらいも おぼえます。すくなくとも、「よみかきの できる ひとが それを できない/しない ひと よりも ひろい せかいと ふかい ものの みかたを もって いる」などとは だんじて いえない ことは はっきり して います。
 とはいえ、わたしじしん よみかきの できる ものの ひとりである いじょう、よみかきの できない ひとに たいして「よみかきなど できなくても よい」と いう わけには いかないし、「よみかき したいけれど できない」という ひとが いる じょうきょうを ただして ゆく せきにんを おって いると かんがえます。
 その ためには ふたつの ほうほうが かんがえられます。ひとつは、よみかきの きょういくを じゅうじつさせる こと。もう ひとつは、よみかきを みに つける ための ハードルを ひくく することです。
 もちろん、ひとつめの かだいも だいじですが、とくに にほんごの ばあい、ふたつめの 「ハードルを ひくく する」ことの ひつようせいは きわめて おおきいと いわざるを えません。わたし じしん なんどか かいて きた ことでも あるのですが、ブックマーク・コメントでの つぎの Cunliffe さんの してきは じゅうようです。

b:id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。


 にほんごに ついて ひととおりの よみかきが できる ひとは、その しゅうとくに ひじょうな じかんと ろうりょくが かかる という ことを しらない わけでは ないでしょう。また、そうして かけられた じかんと ろうりょくの だいぶぶんが かんじの がくしゅうに ついやされて いる ことも。
 にほんの がっこう きょういくを 6ねん なり、9ねん なり うけた ひとで ないと、おびただしい かずの かんじと じゅくごを おぼえるのは きわめて こんなんな はずです。
 いうまでも ない ことだと おもいますが、にほん しゃかいの じゅうみんの うち、にほんの がっこう きょういくを うけた、あるいは うけられる ひとは その いちぶに すぎません。いっぱんてきに がっこうに かよう としごろを がいこくで すごした ひとも いれば、がっこうに かよえなかった/かよわなかった ひと、その なかには としを とってから よみかきを まなぼうと する ひとも います。また、にほんの がっこうに かよっても、かんじや じゅくごが じゅうぶんに みに つかなった ひとも おおぜい いるでしょう。
 あべ・やすしさんの つぎの ぶんしょうも あわせて よんで ください。


●漢字が 排除するもの - hituziのブログじゃがー

漢字は、文字表記として ふくざつすぎるために、さまざまな文字弱者を 排除し、抑圧している。
もちろん、漢字を なくせば 文字弱者が いなくなるわけでは もちろんない。だが、おおきく改善することが たくさんある。
わたしが「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を もつひと、知的障害者、日本語学習者です。
そうしたひとたちが文字情報にアクセスする権利を うばっているのが、いまある日本語表記に ほかなりません。漢字が障害となる どあいは、それぞれ ことなっています。けれども、なんらかの かたちで、漢字は障害として はたらいているのです。


 こうして かんじが つくりだして いる 「もじ じゃくしゃ(文字弱者)」の そんざいを してきしますと、こう いわれる ことが あります。すなわち、この ブログを よみに くる ひとたちの なかに そうした もじ じゃくしゃが そんざいするのか、と。いままでに なんにんかの ひとから そういう いみの ことは いわれました。「わざわざ だいたすうの どくしゃに とって よみにくい かながきで かく ひつようが ほんとうに あるのか?」と。
 こういう かんがえかたは、たとえば つぎの ような はっそうと ほんしつてきに ちがわないと おもいます。
「この まちでは くるまいすで あるいて いる ひとを みかけない。だから、わざわざ えきに エレベータを つけたり、スロープを つけたりする ひつようは ないだろう。」
 これは いっけんして ひどい いいぶんだと わかるのでは ないでしょうか? ひつような エレベータや スロープが ないからこそ、くるまいすで いどうする ひとが まちに でて これないのかも しれない。「はいじょ されて いる たしゃの そんざいが、わたしたちによる はいじょの けっかとして みえなく なって いるのではないか?」という かのうせいを かんがえなければ なりません。
 おなじ ことは よみかきに ついても いえます。ひらがなでも かきあらわせる ことを かんじで かく ことで、かんじを しらない ひとを はいじょ して しまって いるのだろうし、その けっか はいじょ されて いるる ひとの そんざいが みえなく なって しまって いる ことは あるでしょう*2。
 だから、「いま この ばしょに いる ひと」だけでなく、「いま この ばしょに いない ひと」にも むけて、この ばしょを できるだけ ひらかれた ものに して いく こころみは じゅうようだと おもうのです。


 さて、せんじつの きじで いただいた コメントで おおかったのが、かながきの ぶんしょうが 「よみにくい」「よむ きが しない」といった ものでした。この きじに かぎらず、わたしは この ブログで かながきを はじめてから きじを かく たびに おなじ ことを なんども いわれて きたのですが、こうした はんのうは とても きょうみ ぶかいものだと おもって きました。
 「よまない」という せんたくしも あるのに、なぜ わざわざ よんだ うえで 「よみにくい」と かきこまずには いられないのだろうか? また、「よみにくいので とちゅうで よむのを やめた」という ような ことを わざわざ ブックマーク・コメントで ほうこくして くださる かたも たくさん います。わたしの きじの ような かながきの ぶんしょうでは なくても、とちゅうまで よんで やめる ことなど しばしば あるだろうに、どうして わたしの きじに だけ、わざわざ それを おしらせして くださるのだろうか?
 ぜんかいの きじに かんして つけられた 200を こえる ブックマークの うち、「よみにくい」「よむ きが しない」といった コメントを ざっと ひろって みたら、これだけ ありました(ほかにも べつの ひょうげんで 「よみにくい」という ことを いって いる コメントが たくさん ありましたが、それは また あとで ふれます)。

b:id:elwoodblues [*あとで読む] 読みにくい
b:id:baumkuchen555 みんなよく読めるな
b:id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること
b:id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな
b:id: [ネタ] 昔のドラクエみたいな文章で読みづらいぜw
b:id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる
b:id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0  アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり。
b:id:makiyamakoji とても よみに くいね
b:id:feita さすがによむきがおきないね。
b:id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。
b:id:hotomaru [教育] だめだ よむきにならない
b:id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?
b:id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…
b:id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない
b:id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。
b:id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻の常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ
b:id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化
b:id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。


 おつかれさまで ございます。
 みなさん、じしん たっぷりに わたしの ぶんしょうが 「よみにくい」という ことを ごしてき くださって います。
 「よみにくい ものは よみにくい」のだ、と。それは そうですよね。よみにくい ものは よみにくい、よみやすい ものは よみやすい、おいしい ものは おいしい、うつくしい ものは うつくしい、ですよね。
 「ふせいじつ」と まで いわれました。じぶんに とって よみにくい ぶんしょうを かく かきては 「ふせいじつ」ですか? さぞかし よい ごみぶんなのでしょう。


 うえの ような コメントは いつも いただいて いるので、もう なれっこなのですが、こんかい めを ひいたのは fromdusktildawnさんの コメントです。

b:id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。


 この ひとの コメントは、わたしが いままで いただいた たくさんの 「よみにくい」という コメントの なかでも、れいがいてきな ものです。それは 「オレ」という ごほんにん こじんに とって 「よみにくい」と おっしゃって いる てんでです。
 なお、かながきの ぶんしょうが よみにくいのは たぶん fromdusktildawn さんの のうみそが おいたからでは ないと おもいます。ちょっとした なれの もんだいですよ(これは あとで せつめいします)。すくなくとも とりわけ としを とってから かんじを がくしゅうする てまと くろうを かんがえたら、すでに かんじ・かなまじり ぶんの よみかきを しゅうとくした ひとが かながきの ぶんしょうに なれるのは かんたんな ものです。かんじを つかって ぶんしょうを かきあらわさなければ ならない なにか ごうりてきな りゆうが あるなら まだしも、そんな ものは、あとで のべるように、かんじを まなんだ ひとに とっての ちょっとした 「なれ」いがいに ないのは あきらかです。
 ともかく、わたしの かながきの きじに 「よみにくい」と コメントする ひとたちの なかで、「じぶんにとっては よみにくい」という いいかたを する ひとは ほとんど いません。つまり、よみにくさの げんいんが よみてである じぶん じしんにでは なく、いっぽうてきに かかれた ぶんしょうの がわに あるのだ という かくしん(確信)が あるのでしょう。だからこそ 「わたしにとっては あなたの ぶんしょうは よみにくい」ではなく、たんに 「よみにくい」という いいかたが できる。まさに 「よみにくい ものは よみにくいのだ」という わけです。
 そして、「よみにくさ」の げんいんが よみて じしんに ではなく、かかれた ぶんしょうの がわに あるという かくしんを ささえて いる じょうけんとは、「この ぶんしょうは わたし いがいの おおくの ひとに とっても よみにくい ものである はずだ」という おもいこみに ほかなりません*3。「みんなも よみにくく かんじる はずだ」と おもうから こそ(おおくの ひとが 「よみにくい」と かんじて いるのは じじつでしょうけど)、えんりょ はばかりなく、じしんを もって、ただ 「よみにくい」と いえる。
 つまり、「わたしにとって」と いわずに、ただ 「よみにくい」とだけ いえるのは、たすうしゃに よりかかる という しせいを とる かぎりに おいてです。かながきの ぶんしょうに たいし、ただ 「かながきである」という りゆうで 「よみにくい」という ひょうかを くだせるのは、それが 「いっぱんてきに」――というのは とりもなおさず 「たすうしゃにとって」という ことですが――「よみやすい」と しんじられて いる かきかたから はずれて いるからに すぎません。
 こうした みずからが たすうしゃである ことに よりかかった、いわば けんいを かさに きた はっそうは、つぎの ような ひょうげんを とって あらわれる ことも しばしばです。

b:id:Yagokoro [これはひどい] 日本語酷すぎて読めない。


 「にほんご ひどすぎて よめない」だそうです。だいたい わたしに とっては、じぶんが かいたり しゃべったり する ことばが けっかてきに 「にほんご」に ぶんるいされるか どうか など しった こっちゃないのですが、この ひとは ごしんせつにも(よけいな おせわですが) わたしの ぶんしょうを 「にほんご」と みなした うえで、その 「にほんご」の なの もとに 「ひどい」と だんじる わけです。この、「じぶんは 『にほんご』の なの もとに たにんの ことばを ひょうかできる/しても よい」と いわん ばかりの おもいあがりは ごりっぱな もんだと おもいます。
 かきことばで あるか はなしことばで あるかに かかわらず、たにんの ひょうげんを 「にほんごとして おかしい(まちがって いる)」とか、はんたいに 「にほんご おじょうずですね」とか ひょうかを くだす ことに むとんちゃくな ひとは よく みかけますけど、こういう ひとたちは いったい なにさまの つもりなのでしょうか?
 なるほど、あなたは たにんの ことばを 「にほんご」と みなすか みなさないかに ついて けんげんを おもちだ、と。そして、あなたが それを 「にほんご」と みなす とき、あなたは それを いっぽうてきに ひょうかできる とっけんを おもちだ、と。すなわち、あいてが あなたたちの 「ひょうじゅん」と かんがえる 「にほんご」に いっぽうてきに あわせるのが とうぜんだ、と。そう かんがえて いるのでしょう。ほんとうに けっこうな ごみぶんですわね。
 すでに のべたように、わたしは じぶんの ことばが さかえ ある「にほんご」という いちづけを あたえて いただこうが そうで なかろうが かまいや しないのですが、こーえーな ことに 「にほんご」という ぶんるいに ふくめて くださるのだと しても、その 「にほんご」には さまざまな かきあらわしかたが かんがえられますし、じっさい おこなわれて います。かきてが どういう よみてを そうていするかに よって、「にほんご」は、かんじ かな まじり ぶんで かかれることも あれば、かながきで かかれる ことも あるでしょう。あるいは、ローマじで かかれる ことも あれば、ハングルで ひょうきされる ことも あるでしょう。てんじで かかれる ことも あります。わたしは さきに のべたような、また リンクした きじで のべて きた りゆうから、かながきを えらんで おります*4。
 たとえば、ひらがなや かんじを しらないけれども アルファベットには なじんだ にほんご わしゃ(話者) どうしが、アルファベット ひょうきの にほんごで やりとり する ばあいが あります。おそらく、そういった ばあいには、だいさんしゃが よこから くちを はさんで 「きみたちの にほんごは よみにくい」などとは いわないでしょう。では、なぜ わたしの かながきの ぶんしょうが いちぶの ひとを いらだたせ、「よみにくい」「よむ きが おきない」といった コメントを さそって しまうのか?
 その りゆうの ひとつには、わたしが かんじ かな まじり ひょうきでも かけるのに、あえて かながきで ぶんしょうを かいて いるという ことが あるでしょう。つまり、「わざわざ いとてきに よみにくい(と かんじ かな まじり ぶんに なじんだ ひとには かんじられる) かながきで かいて やがる」という はんぱつが あるのでは ないかと おもいます。
 しかし、そこには 「にほんごで かかれた ぶんしょうで ある いじょう、じぶんたち だいたすうの よみてに とって よみやすい かんじ かなまじり ひょうきで かかれるのが とうぜんだ」という ぜんていが――くったく なしに 「よみにくい」という コメントを かきこむ ひとは あんまり じかくして いないのでしょうが――あるのでは ないでしょうか? ふだん にほんごの よみかきに さほど ふじゆうを かんじずに すんで いる ひとは、「にほんごで かかれた ぶんしょうで ある いじょう、じぶんにとって よみやすいのは あたりまえだ」と おもって しまいがちなのでしょう。だから、「にほんご」で かかれて いるにも かかわらず、「にほんご」の 「ふつう」の よみてである じぶんたちに とって 「よみやすさ」の てんで はいりょされて いないと かんじられる ぶんしょうには いらだたずには いられない。
 くりかえしに なりますが、そうして いらついた ときに、くったく なく ただ「よみにくい」と はばかりなく いって のける ことが できるのは、たすうしゃとしての けんいを かさに きる ことに よってです。その ことに わたしが きづく ことが できたのは、はてなブックマーカーの みなさまがたから 「よみにくい」という コメントを たびたび もらった おかげです。わたし じしん べつの ばめんでは、おなじように たすうしゃの けんいと けんりょくを かさに きた ものいいを むじかくな まま して いるのかも しれません。


 つぎに いんようするのは、コーリィー・フォードという ひとが 1949ねんに かいた コラムです*5。あえて、かながきに なおして いんようします。

 このごろ たてものの かいだんは、むかしより こうばいが きつく なった ように おもう。けこみが たかく なったのか、だんすうが おおいのか、なにか そんな ことに ちがいない。
 たぶん、1かいから 2かいまでの きょりが ねんねん のびて いる せいだろう。そういえば、かいだんを 2だん ずつ のぼるのも めっきり むずかしく なった。いまでは 1だん ずつ のぼるのが せいいっぱいだ。
 もう ひとつ きに なるのは、ちかごろの かつじの こまかさである。りょうてで しんぶんを ひろげると、しんぶんが ぐんぐん とおくへ はなれて いくので、めを すがめて よまねば ならない。
 つい せんじつ、こうしゅう でんわの りょうきん ばこの うえに かいて ある ばんごうを よもうと あとずさりして いる うちに、きが ついたら、ボックスから からだが はんぶん そとに はみだして いた。この としで メガネなんて かんがえる だけで ばかばかしいが、とにかく しんぶんの ニュースを しりたくても、だれかに よんで きかせて もらうしか なくて、それでは どうも ものたりない。さいきんの けいこうなのか、みんなが ひどく こごえで しゃべるので、よく ききとれないのだ。
 なにもかもが むかしより とおくなった。わたしの いえから えきまでの きょりも ばい ぐらいに ふえたし、これまでに なかった おかが ちゅうかんに できた ようだ。……


 みての とおり、この ぶんしょうは、みみが とおくなり、また あしが よわく なった としよりの、いわば 「じこ ちゅうしんてきな」 してんから かかれた ジョークです。これが こっけいに かんじられ、ジョークとして うけとられるのは、ふつう としよりが じこ ちゅうしんてきな してんから ものを いう ことが ゆるされて いないからです。
 もじを よむのに くろうするのは 「かつじが こまかすぎるから」では なく、かれ・かのじょが 「としを とって ろうがんに なったから」と される。また、はなし ごえを ききとるのに くろうするのは 「みんなが ひどく こごえで しゃべるから」では なく、ほんにんが 「としを とって みみが とおく なったから」と される。
 だから、ふつう としよりは えんりょがちに 「わたしに とっては しんぶんの もじは こまかすぎて よめない」と いわざるを えない。


 おなじ ことは ぶんしょうの ひょうきに ついても いえる はずです。かんじ かなまじり ぶんに なれた たすうしゃは、じぶんたちが たすうしゃで あるからこそ、じしん たっぷりに おおごえで 「この ぶんしょうは よみにくい」と いえる。しかし、その いっぽうで かんじ かなまじりの ぶんが よめない、あるいは よみにくい ひとが、おおごえで はばかりなく ただ「よみにくい」と いうのは むずかしいでしょう。かれら・かのじょらは えんりょがちに 「わたしには よめない/よみにくい」という いいかたを するか、あるいは えんりょして 「よめない/よみにくい」という ことを いわないか、どちらか でしょう。
 そうやって かれら・かのじょらに えんりょを しいて いるのは だれか? それは かんじ かな まじり ぶんだけが 「まとも」な 「にほんご」だという じょうしきを つくりあげて きた わたしたち たすうしゃでしょう。
 いしかわ・じゅん(石川准)さんの ことばを かりると、たすうしゃは、じぶんが 「はいりょされて いる」ことを つごうよく わすれる いっぽうで、しょうすうしゃへの はいりょを 「とくべつな はいりょ」と みなしがちです。いしかわさんの ぶんしょうを、こんどは かながきでは よみにくいと いう いちぶの ひとたちに 「とくべつに はいりょ」して、もとの ぶんしょうの まま いんようします。

 もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。
 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
 たとえば、駅の階段とエレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーターは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。


 あえて かながきで ぶんしょうを かく ことが かんじの よめない ひとへの 「とくべつな はいりょ」だと するなら、かんじ かな まじりで ぶんしょうを かく ことも、その ほうが 「よみやすい」と いう ひとへの 「とくべつな はいりょ」と いわなければ なりません。はんたいに、かんじ かな まじりで ぶんしょうを かく ことが よみてに とっての 「あたりまえの はいりょ」だと かんがえるならば、かんじの よみかきに こんなんを かかえる ひとに はいりょするのも 「あたりまえの はいりょ」です。
 ようするに わたしが いいたいのは、かんじの よみかきが できるからと いって えらそうに するんじゃないよ、という ことです。


 その うえで、この ぶんしょうを よまれている かたに、かながきで かく ことを おすすめしたいと おもいます。
 わたしは まえの きじで つぎの ように かきました。

 さて、あきらかに ふごうりで くだらないという ことが わかりきった ルールを まもるという ことは、けんりょくに くっぷくするという ことです。けんりょくに くっぷくするという ことは、おそらく おおくの ひとに とって みじめな ものでしょう。そうした みじめさを かんじずに いきて ゆきたい ものですね。そして、けんりょくと たたかわずに みじめさから のがれるためには、じぶんが けんりょくに くっぷくして いるという じじつ、ふごうりな ルールに したがって いるという じじつを わすれなければ なりません。つまり、じっさいは ふごうりな ルールに したがって いるにも かかわらず、その ルールが 「ごうりてきな りゆうが ある」ものだと おもいこめば よいわけです。


 これは べつの ぶんみゃくで のべた ことですが、じつは かいて いる ときに かんじの もんだいなども ねんとうに おいて いました。
 かんじの よみかきに あまり ふじゆう しなく なった ひとは、その ために おびただしい じかんと てまを かけて きた はずです。また、「あまり ふじゆう しなく なった」とは いっても、それでも じっさいの ところ けっこう ふじゆう して いるでしょ? てがきで もじを かく ときに かんじの かきかたを おもいだせなかったり、パソコンで かく ときだって どうおん いぎご(同音異義語)が あるときに どの もじに へんかんすべきか わからなかったり。むずかしい かんじや じゅくごが つかわれて いる ぶんしょうは、よむのだって たいへんだし。こうして かんじの せいで よけいに じしょを ひく てまが かかる。かんじを しらないと はずかしいと おもわせられたりも する。
 そうやって これまで くろうして きたし、いまも ひび くろうして いるから、その じぶんの くろうを ひていしたくない という きもちに なるのは、ある いみ しぜんな ことでは あります。じぶんの くろうに 「いみが ある」と おもうために、かんじを つかうことに 「ごうりてきな りゆうが ある」と おもいこもうと する きもちも わからないでは ありません。

b:id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記。
b:id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。
b:id:qp365 日本語はひらがなとカタカナだけじゃ駄目なことが良く分かる。悪いけど面倒で全部読めなかった
b:id:zeri やっぱ漢字があると読みやすさが全然違う んだなあと再確認


 ところが ざんねんな ことに、というか さいわいな ことに、かんじを つかわなければ ならない という ごうりてきな りゆうは たぶん そんざい しません。
 たとえば、「にほんごは どうおん いぎごが たくさん あるから、かながきでは いみが とおらない ぶんしょうに なる」という ことを いう ひとが います。
 しかし、これは ものごとの じゅんじょを とりちがえた ぎろんで、「かんじを つかうから、どうおん いぎごが たくさん できて しまうのだ」と いうべきだし、どうおん いぎごを さける くふうを すれば よい ことでしょう。そもそも、どうおん いぎごは どんな げんごでも あるのだし、たしょう それが あっても、ぶんみゃくで はんだん できる ように かきかたを くふうする ことは かんたんです。
 じっさい、はなし ことばでは、そうやって ぶんみゃくから はんだん できる はんいで どうおん いぎごを つかったり、また ぶんみゃくから わかりずらい どうおん いぎごの しようを さけたり といった くふうは なされて いる わけです。もちろん、はなし ことばでは、イントネーションを はじめとして かながきでは かきあらわせない じょうほうを ふくんで いるので、たんじゅんには ひかく できないのですけれども。しかし、わかりにくい どうおん いぎごが おおすぎるのが もんだいだと いうなら、あたらしい ことばを すこしずつ つくって いけば よい だけの はなしです。


 ほかに よく ある ごかいは、かんじは ひょういもじ(表意文字)なので ビジュアルてきに はあくしやすい という ものです。たとえば、つぎの ような コメントも そうした ごかいに もとづいて いるのでしょう。

b:id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど


 ちょっと かんがえれば わかる ことですが、かんじが かなや アルファベットと くらべて とくべつに わかりやすいという ことは ありません。「かんじは ひとめで その いみを はあくしやすい」と いう ひとは おおいですが、そう いう ひとは アルファベットだったら どうなのか という ことを すこし かんがえて みると よいでしょう。アルファベットだって おなじなのです。
 えいごを よむのに なれた ひとは、たとえば "guitar"という もじの つらなりを みた ときに、ひとめで その いみを はあくして いるでしょう。いっぽう、"kltjautr"といった もじの つらなり――これは いま わたしが でたらめに キーボードを うって つくった もじれつです――を みても、ひとまとまりの ものと にんしきする ことは できない はずです。
 つまり、かんじを よむのに なれた ひとが、たとえば 「雪」という かんじや 「弦楽器」といった じゅくごの いみを ひとめで はあくできるのも、それと まったく おなじ ことで あって、たんに 「みなれて いるから」に すぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、もじを よむのに てきおうしやすい からだを もった ひとに とっては、みなれた たんごや れんご(連語)を、もじ たんいではなく、ひとまとまりの ごく(語句)として にんしき する ことは かんたんな はずです。
 ようは ちょっと した「なれ」の もんだいで あって、「かんじ そのものの とくちょう ゆえに、かんじで かかれた ぶんしょうは よみやすい」という ぞくせつは まったくの あやまりです。「かんじで かかれた ぶんしょうは よみやすい」と かんじるとしたら、それは たんに あなたが それに 「なれて いるから」に すぎません。
 これでも なっとく できない ひとは、つぎの あべ・やすしさんの きじ(さっき リンクしたのとは べつの きじです)、ぜひ さんこうに して ください。


●よみやすさって、なんだろう - hituziのブログじゃがー


 わたしの ブログを いつも よんで くださって いる かたが、どれほど かながきに なれて きたのかは きいてみないと わかりません。もしかしたら、おおきな ふたんを かんじながら よんで くださって いるのかもしれず、そうだとしたら こころ ぐるしく おもいます。
 わたしは かながきで かかれて いる なんにんかの ひとの ブログなどを いくつか じゅんかいして よんで おりますけど、かんじが つかわれて いない ことへの ていこうは いまや まったく かんじなく なりました。むしろ、かんじの おおい ぶんしょうよりも、かながきで わかちがきされた ぶんしょうの ほうが、よむ ときの ふたんは かるい ようにすら かんじます。わたし こじんの けいけんからは、かんじ かな まじり ぶんが よめるなら、かながきの ぶんしょうにも すぐ なれる ことが できると おもいます。
 もっとも、その 「なれる」ための てまが わずらわしい という ひとも いるのでしょうし、わたし じしん 「なんで おれの ほうが おまえに あわせて なれなきゃ いけないんだよ」という いみの ことを いわれた ことも あります。そういう ひとに いうべき ことばを わたしは もちあわせて おりませんし、むりに 「なれて くれ」と もとめる つもりも ありません。
 かんじを つかいたい ひとは かんじを つかって ぶんしょうを かけば よいし、かながきの ぶんしょうが かながきである という りゆうだけで よみたく ないのであれば、よまなければ よいでしょう。どういう ひょうきで ぶんしょうを かこうが、あるいは どういう ひょうきで かかれた ぶんしょうを きらおうが、その ひとの じゆうです*7。
 ただ、「にほんごは こう かかなければ ならない」とか 「まともな にほんごは こういう ものだ」とか くだらない けんい(ほんっっっっとに くだらないと おもいます)を かさに きて、しかも その ことに むじかくな まま、ひとの ことばや ひょうげんに ひょうかを くだすのは、やめて ほしいと おもいます。

*1:「はなされて いる」という ひょうげんは たしょう ごへいが あるかも しれません。とうぜん、にほん しゅわ(日本手話)も ふくめて 「にほんで はなされて いる さまざまな げんご」と いって います。

*2:わたしは しごとじょうの つきあいで、にほんごの よみかきに こんなんを かかえる ひとと であう ことが わりと ひんぱんに あります。その ひとたちの なかには、にほんごで はなしたり きいたり する ことは できるけれど、よみかきと なると おおきな こんなんを かかえて いる ひとが すくなからず います。むろん、かんじだけが ハードルに なって いる わけでは ありませんが、かなや ローマじ など、ひょうおん もじ(表音文字)で ぶんしょうを かきあらわす ことが もっと いっぱんてきに なれば、その ハードルが かくだんに ひくく なるのは たしかです。

*3:そう かんがえると、かながきの ぶんしょうに たいして よく つけられる「みんな よく よめるな」という コメントも なかなか あじわいぶかく おもえて きます。

*4:なお、わたしは かながきよりも ローマじ ひょうきの ほうが いくつかの りゆうで のぞましいと かんがえては おります。

*5:『あなたの年齢当てます』朝倉久志 やく。なお、いんようは やまざき・こういち(山崎浩一)『危険な文章講座』(ちくま新書)からの またびきです。

*6:石川准「本を読む権利はみんなにある」(上野千鶴子ほか編『ケアという思想』岩波書店、2008ねん)

*7:わたしは うえに リンクした 5.の きじで かいた とおり、かんじ かな まじり ひょうきを 「ひょうじゅん」として おしつける 「こくご きょういく」ごと はいし すべきだと しゅちょう して いますが、ひとり ひとりの かきてが かんじを つかう ことを きんし すべきだとは かんがえて いません。