湯浅誠の声明とインタビューへの違和感

 湯浅誠が内閣府参与辞任について述べた言葉や、

湯浅誠からのお知らせ: 【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版) 湯浅誠からのお知らせ: 【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版)

それをめぐって受けたインタビューに違和感がある。

特集ワイド:内閣府参与を辞任、湯浅誠さん 「入って」みたら見えたこと - 毎日jp(毎日新聞) 特集ワイド:内閣府参与を辞任、湯浅誠さん 「入って」みたら見えたこと - 毎日jp(毎日新聞)

もともとの意図を考えるとうなずけるものはある

 もともと、湯浅の辞任の言葉は誰に、どんなつもりで言った言葉なのかを考えながら読むといいと思うのだが、まず彼が内閣府参与になったことで政府の犬になったとか、梁山泊の末路状態みたいな受け取られ方をしたことに対して向けられた言葉ではないかと感じる。
 湯浅が自分の掲げた要求や理想モデルのために、政府に参画すること自体は、十分にありうることだと思う。ぼくのような左翼だって、自分たちの言っていることを実現するために、部分入閣するなんて有り得る話だし、中央政府だけでなく、地方政治でもいろんな実験がすでにある。その中身こそ問題なのだが、ぼくは湯浅が参与としてやってきたことの中身を評価するほどの情報はない。だから、湯浅が政府に参加して良いとか悪いとか、そういうことをいえる立場にはない。


 政権の一角に入ったことへの反論として、湯浅の声明やインタビューを読むと、わりと素直に入ってくる。頑迷に政権参加を否定する相手に対して、“現実を変えるために自分を変えず、そうやって石頭なことを言っていたら何も変わらない。現実をよくするために一歩でも二歩でも前へ進む選択と努力をすべきだ”、“入ってみて気づく現実もたくさんあるんだ”――こういう角度での発言として読むと、湯浅の気持ちがわかったように感じるのだ。
 内閣府参与になることも要求を実らせる第一歩だが、そこから外れる――席を蹴るのも状況を動かすパフォーマンスなのだ、と湯浅は述べる。「なんだ。都合が悪くなったら責任逃れで逃げていくのか」という批判を意識してのことだろう。ここも湯浅の反論の心情はよくわかる。


 自分の掲げた要求や理想に一歩でも近づけるために、観客ではなく当事者として動く。動いたことの責任はとる。逆にいえば、一歩たりとも近づけず、それどころか後退してしまったときには、その責任を運動側は感じるべきであり、感じないままの無感覚の運動は反省すべきだ――こういうふうに湯浅は言っている、とぼくは解釈した。

湯浅の発言の一部や、それが一人歩きすることのあやうさ

 誰に言っているかを想定し、上記のように要約すれば、違和感はほとんどない。
 ところがである。
 湯浅の声明は長い。
 長いので、いろんなことが含まれている。その中には首をかしげるようなところや、相互に矛盾するようなところが出てくる。さらに、そういうものが他人によって独立してとりだされるとき、逆に有害な言説になって逆立ちしてしまうのだ。


 たとえば城繁幸などは、湯浅のこの声明を読んで、消費税引き上げに言及していることに小躍りしている。

日本で左翼と呼ばれる人達は、ほぼ例外なく「日本型雇用死守、消費税引き上げ反対」を旗印としている。だがそれは、終身雇用に入れない人を排除することであり、排除された人へのセーフティネットをも否定することだ。
その意味では彼ら既存左派は、ほぼ例外なく小さな政府主義者と言っていい。

http://jyoshige.livedoor.biz/archives/5325033.html


 湯浅は声明の中でこの問題を何と言っているのか。
 湯浅は、医療を例にとって、給付全体をふやさないと大変なことになるけども、負担(税・社会保険料)はこのままでいい、というのでは、私費負担を増やす方向にしか行かんではないか、と述べる。
 そりゃそうだ。
 で、「大企業や大金持ちから持ってこい(俺たちは1円も負担しないぞ)」という議論を紹介したうえで、自分の財源論を5点にわたって述べていく。

簡単にまとめておくと、1)税の原則は「あるところからもらう(応能原則)」なので、税目として消費税だけを考えるのは適当ではなく、所得税の累進制強化や資産課税・相続税強化、グローバルな金融取引課税や法人課税など広く考えるべき。実際の経緯としても、法人税減税が行われる、リーマンショックにもかかわらずグローバルな金融課税はなかなか進展しない、タックスヘブン(ケイマン諸島など)を経由した不正事件が日本でも相次ぐ(オリンパス、AIJ)など、国内外において企業が強すぎ、各種租税特別措置、証券取引優遇税制など改善すべき余地が多々ある。

http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html


 これはまったく正しい。
 そして、日本の「既存左派」というのは基本的にこの路線である。
 たとえば社民党は、そもそも消費税(およびその引き上げ)という選択肢を排除していない政党であるが、

消費税3%「上げざるを得ない」/社民政審会長が発言 TV番組 - しんぶん赤旗 消費税3%「上げざるを得ない」/社民政審会長が発言 TV番組 - しんぶん赤旗

税制には、富の偏在を防ぎ、負担能力のある人から社会の支えが必要な人へと所得を再分配させていく機能こそ必要です。逆進性の強い消費税を基幹税に位置づけて安易に税率を引き上げることは、低所得者層に一層の負担を強いるだけです。所得税・住民税の最高税率の引き上げや累進性の強化、企業に応分の社会的責任を求めた法人税の見直しに取り組みます。

http://www5.sdp.or.jp/vision/vision.htm


と党理念(社会民主党宣言)にあるように、湯浅と同じ構想である。


 共産党はどうか。これは消費税という税制そのものに批判的な政党である。
 では、共産党は庶民負担を一円も求めないのだろうか。共産党はもともと「累進課税・応能負担での税制改革」を掲げていたが、さきごろだした社会保障「提言」では、具体的に「負担」にふみこんでいる。


 このような社会保障の抜本的な拡充をおこなうためには、ムダの削減や富裕層・大企業への不公平税制の是正などだけでは財源は確保できません。この財源は、国民全体で、その力に応じて支えることが必要です。所得や資産に応じた負担――「応能負担」の原則、累進課税の原則に立った税制改革で財源を確保します。

http://www.jcp.or.jp/web_policy/2012/02/post-141.html


 そして、「所得税の課税所得に対して累進的に1・5〜15%の税率を上乗せして課税」を具体的に提言し、国民負担を求めるさいの3条件まで提示している。


 消費税増税に反対することがすなわち「ビタ1文出さない」ということとイコールのはずがない。城は自分の「脳内左翼」の亡霊と戦っているにすぎない。

“迫力ある訴えをするために消費税増税を認めてはどうか”

 しかし、湯浅自身はさらに次のようにのべていることは、どう見たら良いのだろうか。

2)ただし、消費税を頭から否定する必要はない。日本で消費税に反対する人も消費税率の高いヨーロッパ諸国をモデル視するように、「徴収した税を何に使うか」が問題であり、税と財政をトータルで考え、それによって所得再分配機能が強化されるかどうかで判断すべき。高所得者から徴収しても、徴収分を高所得者に使うのなら所得再分配機能は強化されない。逆も同じ。

http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html


 この一文は、その後に書いてある次の一文とセットになっている。

5)何よりも優先されるべきは、世界一の高齢社会に見合った財源規模の確保と所得再分配機能の強化であり、消費税をめぐる賛否よりも争点化すべき。企業は法人税がイヤ、富裕層は所得税・資産課税がイヤ、庶民は消費税がイヤで、結局必要な税と財政の規模が確保できないのでは、現実には、社会保障から排除され、脱落していく貧困層がさらに拡大し、孤独死・孤立死も増加していく。税目以前に国の財政規模を確保し、所得再分配機能を強めていく発想からは「消費税を受け入れるから、あんたたち(富裕層や企業)ももうちょっと保険料など負担してくれ」という持っていき方があってもいいのではないか。そちらのほうが迫力があって、状況を変える力も生まれるのではないか。
今のままでは「政府はどうなってもかまわないから、税を支払いたくない」という声が強く、その力関係の変わる兆しがなく、結果として政策的経費縮小の打撃を傘の外の人たちがもっとも強く受け続ける状態が続いてしまうことを、私は懸念しています。

http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html


 こういう言い方が許されるなら、はじめから「法人税」だの「所得税」だの言わなければよい。

「まず財政規模を確保することが大事だ。消費税10%、いや18%に賛成する運動を経団連といっしょにすれば、スンナリ通るよ。お金がなきゃどうしようもないもん。お金を集めてから、所得再分配機能を強める闘争をすればいいじゃん。ホラ、それやらないと貧困層が死ぬよ。あんたは、貧困層の死に手を貸すわけ?」。
 
 もしこれが「言いすぎ」だというなら、湯浅はなぜ「所得税増税を受け入れるから、あんたたち(富裕層や企業)も応分の負担をしてくれ」という迫り方をしないのかという疑問が湧く。自分たちも負担をするから、という「迫力」は少なくとも出ている。なのに、湯浅はそうは言わず「消費税」なのである。結局、この声明の主張は、消費税増税のムードに負けているのか、政権に入って無原則に官僚の気持ちを「理解」してしまったのか、どちらかでしかない。


 現実の世論状況と政策決定は、湯浅の言うような「迫力」で決まるものでもないだろう。
 左派が累進課税や応能負担原則で攻め上げる。財界が消費税で騒ぐ。そういう力がぶつかりあって、「政治的・社会的力関係総体」(湯浅)によって決まるのだ。現在は消費税を引き上げるか引き上げないかのところでしか攻防がないのは、「増税の前にやるべきことがある」という行革圧力としての右派の声や、政局がらみで民主党の引き上げ法案に反対する声が大きいからで、その一つの流れとしての累進課税や応能負担をとなえる左派の声は、あまりにも小さすぎるからだ。
 もしその声が十分に大きければ、「消費税増税もやらせていただきます、あっ、でも累進課税の強化もちゃんとやりますやります」、というようなポーズを、民主党政権はとらざるをえないだろう。*1


 そういうときに左翼がやるべきことは、消費税の引き上げを認めることじゃなくて、「必要な水準をそろえるためなら、我々も負担する用意がある」ということを言うことなのだ。ただしそれは「累進課税・応能原則によって!」。


 いま、多くの国民が、将来の社会保障の財源は大丈夫なのか、自分たちも何らかの負担をしなければいけないのではないか、でも消費税増税には反対だ、どうしたいいのかと真剣に悩み、模索しています。世論調査結果にもそのことははっきりと表れています。
 そういう時に日本共産党が「全部大企業と富裕層の負担でまかなえる。みなさんは一円も負担しなくてよい」という主張だけしていたら、国民の疑問にこたえることはできないのではないか。ここは、「国民みんなの力で支えよう。もちろんその原則は能力に応じた、所得税の累進課税の強化で」と率直に訴えるべきなのではと考え、提起した政策であり、今回の「提言」で新たに踏み込んだ分野の一つです。
 具体的には所得税の累進性を強化する改革を提起しています。……この所得税の課税所得に対する累進的な負担は、例えば年収四〇〇万円の夫婦片働きの世帯では、課税所得は一五〇万円で現在の所得税は七万五〇〇〇円ですが、これが二万円程度増えます。(小池晃「消費税増税ストップ! 社会保障充実と財政危機打開の財源提案」/「前衛」2012年4月号所収p.30、強調は引用者)


 負担増がウリの左派の社会保障提言ってどうよ、と思う人もいるかもしれないが(笑)、湯浅の真意を正確に受けとめれば本来こういうことになるだろう。*2


 湯浅がこのタイミングで消費税うんぬんの発言をしてしまうことは、城の例をあげるまでもなく、致命的な「消費税増税の応援歌」になってしまい、なおかつ湯浅自身の意図する「累進・応能」という原則さえもいっそう破壊することになるだけだろう。


社会運動の「自己責任」?

 もう一つの違和感は、ウェーバーの「責任倫理」を「結果責任」と読み替えて、左派は結果責任をもっと重視すべきだという意見についてである。


 湯浅は次のように述べている。


政府の中にいようが外にいようが自分は調整の当事者であり、『政府やマスコミが悪い』と批判するだけでは済まない。調整の一環として相手に働きかけたが結果が出ない−−それは相手の無理解を変えられなかった自分の力不足の結果でもあり、工夫が足りなかったということです。そういうふうに反省しながら積み上げていかないと、政策も世論も社会運動も、結局進歩がないと思う

http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2012/03/30/20120330dde012040004000c.html

重要なことは、結果としてうまくいかないことはあり、その責めは、いろんな反応・反響を予期し切れなかった自分のシュミレーション不足だと考える必要がある、ということです。それを「相手が悪かった」または「想定外」と無反省に切り捨ててしまったら、今後に向けた教訓は出てこず、進歩もない。それは、原発事故をめぐる一連の政府・東電の反応から私たちが学び取るべきものでもあると思います。

http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html


 ウェーバーをもち出してのこの議論は、今をさかのぼること20年ほど前に、丸山眞男と日本共産党の間でたたかわれた議論(というか、丸山が昔言ったことをずいぶん後になって共産党が突如かみついた感の強い論争)を思い出させる。共産党は戦争に反対したというが戦争を阻止できなかったではないか、それでは「言うだけ」だ、戦争の勝利に具体的に貢献せずラッパをくわえて死んだ木口小平の「シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と同じじゃねーのwwwという意見を丸山は持っていて、それを論じる際にウェーバーを引用したのである。


 実は、運動の側にいる者として、「相手(行政当局者や財界)」ということではないんだけども、世論に対してうまく訴えられなかった「自分の力不足」をもっと自己検討する気風があってもいいのではないか、という点では、湯浅と問題意識を共有している。


 たとえば共産党だって、参院選で後退したときに、「あれって、俺らの消費税増税反対の訴えが悪かったせいなんだろうなあ…」的総括をやっている。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-09-27/2010092701_09_0.html


 だから、湯浅が自己検証をもっと運動側はやるべきじゃねーの? というふうにまとめるなら、違和感はないのだ。


 しかし、湯浅のこの論調は、それを超えている。
 結果が出なかったことはすべて自分の責任として考えろ、という論立てになっているのだ。湯浅が述べているように「社会運動の自己責任論」である。
 これは、官僚組織の中にも必死でやっている人がいる、という認識とセットである。必死でやっている人もいるのに、届かないのは運動側の責任だ、というわけだ。


私がこの2年間で発見したのは、官僚の中にも、私と同じような方向性を目指しながら働きかけを行っている人たちがたくさんいる、ということでした。その人たちはテレビや新聞で原則論をぶったりはしません。錯綜する利害関係の中で説明・説得・調整・妥協を繰り返しています。決定権をもたない組織の一員として、言いたいことを声高に言うことなく、しかし結論が「言いたいこと」になるべく近づくように奮闘しています。ところが、外側の私たちは、そうした内部の奮闘の結果として最後に出てきた結論が情報に接する最初になるので、そこから評価が始まり、交渉が始まります。批判の矛先が奮闘した当の本人に向くこともしばしばです。Aという担当者がいて、ある事柄をなんとかしたいと発案し、提起する。課内から局、局から省、省から政府と持ち上がる過程でさまざまな修正が入り、結論としての政策が出来上がる。しかし、もともと同じ方向性の主張を掲げていた人たちが、その結論を原則的な立場から頭ごなしに批判し、説明者でもある担当者をなじる。この過程が何度となく繰り返されていけば、少なくとも私だったらだんだんと気持ちが萎えていきます。

http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html

 たとえば、地元の零細業者が仕事を受けやすいようにする「小規模工事登録制度」を創設する運動というものがある。ある自治体で、そこの担当者が「あれはぜひ実現させたい」と議員に言っているのを聞いたことがある。そういう志をもった人がいながら、なかなか実現させられない、というのはたしかに運動側に大きな責任があるだろう。

 しかし、テーマによってはそのような問題意識をもった官僚が政権の中にいないこともしばしばあるし、福岡市の人工島事業のように、我々はそんな事業に税金をつぎ込んでも土地は売れないからムダ遣いになるだけだと批判するのであるが、やっている担当者も「これは売れませんわー」と陰でボヤキながらも、その土地を売らざるをえないという枠組みからどうにも逃れられないというものもある。*3
 何よりも湯浅自身が述べているように、財源の総枠が現在の政治を前提としている限り、なかなか動くものではない。そういうときに、結果はすべて自分たちの働きかけ方の問題だといえるだろうか。あっちの事業は打ち切られたが、こっちでは助成が始まった。そういうとき、あっちの事業の運動は真剣さが足りず、こっちの助成の運動は努力した、ということなのだろうか。そういう要素があったにしても、それをすべて自己責任に還元してしまう思考に違和感を覚えずにはいられない。
 運動には客観的情勢に左右される、すなわち自分たちの努力だけではどうにもならない要素が少なからずあるではないか。そのことを言いたいのだ。
 ぜんぶ客観情勢や交渉相手のせいにする思考は論外にしても、ぜんぶ自分たちの努力のせいにするのも、またいただけない。要はその二つが現実にどれくらいだったのかということを見極めることなのであって、全部自分たちのせいだと考えてみようとというのは、便法としても受け入れられるものではない。そういう思考は絶望や焦燥を生み出し、短期にはバネになることもあるが、長期的には人を運動から離れさせていくもの、ねばり強い働きかけの放棄につがなっていくものだ。

どっちにしろ運動団体は結果責任を引き受けざるをえない

 それに、放っておいたって、本来運動団体は「結果責任」を引き受けてしまうものなのである。
 たとえば、何か難病の医療費助成を実現する運動団体があったとする。その団体にとっては、助成が実現するかどうかがまさに大事な結果である。今年度それが実現できなかったとしよう。
 それはその運動団体にとって、そしてそこに加わっている患者たちにとって、とてつもない打撃だ。
 実現できなかったことによって、普通は、手ひどく結果責任を負わされているはずである。いちいち結果責任を重視しろ、などという具合にお説教いただかなくても、当事者自身が重く深く受けとめているにちがいない。
 デモをやるだけやったけど、今年は無理だったわなあ。
 というのでは、たえきれない重みが患者家族にはある。
 もし、それで平気な顔をしているのであれば、その運動団体は不真面目だと言うこともできるし、逆にいえば、そういう形で結果責任を引き受けているともいえる。高額な私費負担を押しつけられる難病治療を今年も続けるのだ。


 はじめに戻ろう。
 湯浅の言いたかったことは、言いたい相手を想定してみると何となく理解できる。それはいい。
 でも、それを離れて湯浅の言説を取り出して一人歩きさせてしまうと、とたんに有害なものになってしまうようにぼくは感じた。だから、湯浅の声明やインタビューが独自に取り出されて、都合良く賞賛されているのを、ややあやうい気持ちで見ているのである。

*1:2012.4.2追加:ブクマの指摘で気づいたが今回の民主党の法案には所得税の最高税率アップが入っている。ぼくの方がこの案は昨年末に流れたと勘違いしていた。上記の論旨には影響ないが、そのような配慮を民主党政権がせざるを得ない程度には左派の声は大きいものであった。

*2:ただし、共産党の提言における「国民負担増」は、破壊された社会保障を再生させる緊急の第一段階ではなく、欧州的水準を確保するための第二段階へ進む際の話であり、なおかつ経済成長によって可処分所得を減らさないように配慮することを前提としているのだが。

*3:湯浅にとっては、それを動かすようなさらにスゴい提案をすべきだということになるだろうか。