PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

伝えるということ:科学リテラシーや科学コミュニケーションに関するあれこれ


科学者の説明責任なんてことが言われて久しい。1970年代以降、公害や遺伝子操作技術の登場なんかを経て、世間は「確かに科学技術が現代社会に及ぼす影響は大きい」と得心したのだろう。


1970年代ぐらいまで、まともな学者はマスメディア(特にテレビや週刊誌)なんかには出てこないという話があった。その理由はよくわからない。一般向けの仕事は学者としての業績にならないからだとか、マスコミご用達の、いい加減な話ばかりする学者もどき・元学者(学者タレントだかタレント学者なんて呼ばれてたかな? もう死語かな、と思ったらググるとけっこう出てくるなあ・汗)と同一視されたくないからだとか、言われていたけれど。


しかし80年代から90年代ぐらいになると、メディアからの求めをむげに断る学者さんは減ったような気がする。昨今では逆に、予算獲得のためにはメディア露出が有効だなんて話を学者さんから聞くようになった。変われば変わるものだ。


インターネット普及後、誰に求められたからというわけでもなく、ネット上で自分の考えや研究成果を世間に発信してくれる学者さんが増えている。研究者同士に向けたものは早くからあったけれども、我々のような門外漢に向けた情報が増えてきたのは2000年代に入ってからかな。


その層の厚みが格段に増していることを最初に痛感したのは、2009年の新型インフルエンザ禍のときだったかもしれない。


09年、新型インフルエンザの発生時には、どうにかして感染症や防疫に関する知識のないわれわれにわかってもらえるようにと、さまざまな人が情報を仲介したりかみ砕いたりしてくれた。医療関係者ばかりではなかった。さまざまな人がそれぞれの動機でそれぞれにできる情報発信に取り組んでいた。基礎的な情報、たとえば疫学についての解説をしてくれる人もいた。信頼できる情報源のリンク集を公開する人もいた。海外の報道を翻訳してくれる人もいた。翻訳については、著作権的にはおいおいと思うんだけど、助かったのは確かだ。


日頃は「このサイトは研究者や医療従事者向けなので一般の方のご質問はご遠慮ください」みたいなことを言っているWebサイトまでも、米CDC(疾病対策センター)の一般向け広報資料を翻訳したりしていた(いや、翻訳を読めるところを紹介したのだったかもしれない)。彼らの直接の目的は「一般の人に対応する医療従事者に情報を提供すること」だったのかもしれない。でも、それをオープンなところでやってくれていたおかげで、ぼくらもそのおこぼれに預かることができた。


「リスクコミュニケーションで『やってはいけない』とされていることを端からやってしまった『悪いお手本』が政府発表の中継、CDCの会見や情報の出し方は『いいお手本』」なんて話をしているWebページに出くわしたときには、「そんな『どう説明すべきか』なんて研究もされているのか」と驚いた。「リテラシー」について考えるとき、リスクコミュニケーションの問題として独立させて考えられるようになったのは、このときの経験が大きい。「リスクコミュニケーション」という言葉には、それ以前から触れていたんだけどね。


もちろん、そういうさなかだって勝手な持論を展開する人もいたし、専門家のなかにも強烈なバイアスがかかっていることを感じさせる話をしている人もいた。状況も変動したし、専門家だって早とちりもした。たとえば政府の「水際作戦」に対する評価もばらつきがあった。「ここさえ見ていれば万事安心」なんてWebサイトはなかったと言ってもいいだろう。あちこち読んでもどう理解すればいいのか困ったことは何度もあったし、こちらの理解もぐるぐる変わった。それでも、マスメディアとうわさ話にしかアクセスできなかったかつての状態に比べれば、一定の根拠に基づいた推論にたくさん触れられるだけ百万倍もマシだったとぼくは思っている。


さて、311震災、なかんずく原発事故を体験中のいま、「科学者の説明責任」といったとき、その「科学者」って、どんな人たちを含むのだろう、そして、その責任範囲はどこまでなんだろう。


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上記togetterまとめを読んで、そこから関連としてリンクされていた下記のもろもろも読んだ。


読んで、下記のブクマのあれこれを思い出した。

「あれこれ」のなかには、たとえば下記の記事なんかがある。


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同時に、過去の自分の仕事のことを思い浮かべていた。「その道の専門家と二人三脚で本を作る、記事を書く」ということを、80年代後半からずっとやってきた(そればっかりではないけど)。たとえば、釣魚事典や音楽史(ルネサンス期〜ロマン派)、焼き物鑑賞(主に色絵磁器)、DTP・印刷(主にフォントと組版)・デザイン(主にエディトリアルデザイン)といったジャンルについて、多くの場合は初心者向けにまとめるような仕事だ。


その間、かなり早くから感じていたのは、「門外漢や後進に知見を伝えることが達者な専門家はほとんどいない」ということだ。仕事としては、原稿をいただいたり一方的にお話をうかがっても、そのままでは使えないことがまったく珍しくない。彼らの多くは、門外漢や初学者が彼らの言葉をどのように理解するか、いや、どのように勘違いするか、間違って理解するかをほとんど想像できていなかった。「自分が技術(あるいはものごとに対する理解)をもつことと、得たものを誰かに伝えたり、同じことができるように教えることは、まったく別ものだ」と言い換えてもいい。わかっているからといって、それを伝えたり教えたりすることができるとは限らないわけだ。


とはいえ、かみ砕くにしても勝手に書き換えたりするわけにはいかない。そこで、もらった原稿を前にしてまずはわからないところ、理解の怪しいところをひとりで探り出し、それを元にして執筆者や監修者にあれこれ質問することになる。「これはこういうことか。そうではなくて、こういうことなのではないか。たとえば『条件AのときにはBになるから、それを回避するためにCを実行すべき』ということなのであれば、こう言い換えてもいいか。さらに、こういう図を加えてはどうか」等と根掘り葉掘りやるわけだ。もちろん、こっちがスットンキョウな勘違いをしていることもある。その場合、原稿の表現が問題だったのか、ぼくだから勘違いしたのかという切り分けが必要になる。そうしたやりとりで何かが明らかになったことで、別の部分の説明が不適切だと気づくこともある(いや、不親切というべきか。間違った説明がされているわけではないのだから)。著者と原稿を間に話をし続け、気づくと何時間も経っている、なんてことも何度もあった。1冊の本を出版するのに何年もかかることもあった。最近は2〜3ヶ月で本を出しちゃうことが多いようだけど、最低でも半年やそこらかかることを前提に予定を立てていた。


だからこそ、わかりやすく説明ができる人をメディアが珍重するのはわかる。そんな人は滅多にいないのだもの。しかし、一方で彼らの「わかりやすい説明」が場合によっては手ひどい誤解を招きかねないものかもしれないということもわかる。自分だって薄氷を踏む思いでどう表現すればよりわかりやすいかを専門家たちと模索してきたのだもの。出版界では長いこと「入門書というのは功なり名を遂げた大家こそが手がけるべきもの」なんて考え方が支配的だったりするのは、そんなところにも理由があるのかもしれない。


もうひとつ思い出したこと。2000年頃から地元で義務教育に関わりながらあれこれ調べてきて、情報教育だの総合的学習の時間だの小学校での英語活動の導入なんかにからんで「教わっていないことを教える困難さ」なんてことも痛感したなあ、なんてこと。いまの教員は、習っていないどころかかつては思ってもいなかったようなことを教えなければならなくて、しかもそれを効果的に実現するための支援策なんてのはほとんどまったく機能していない。


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あれこれ考えると、いま現在の状況や課題を「どう伝えるか」という問題では、メディアの取材力と咀嚼力の問題が非常に大きいと考えざるを得ない。これはぼくが、今は休業中とはいえ、自分の仕事が編集屋でありライターだからかもしれないけれど。しばしばサイエンス・コミュニケーターとかサイエンス・ライターといった役割の必要性や重要性について語られることがある。彼らに求める機能を既存のメディアは十分に果たしてこなかったし、彼らが役割を果たせる場を、つまり、営みとして成立できる条件をメディアが用意してこなかったということだ。端的に言えば「メディアの志の低さ」が元凶だと言っていいんじゃなかろうか。


誰が悪いなんてことは言ってもせんないことではあるのだけれども、自分の職業に引きつけて言えば、どうしてもそう考えざるを得ない。


学者だろうがそうでなかろうが、自分の専門外のことでは専門家だって妙なことを言うし、自分の専門のことだってずっとその道で食っていればバイアスから自由になるのは容易なことではない。そういう目で専門家の話を扱えるのは、同じ専門家と、メディアの人間ぐらいではないのだろうか。


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スットンキョウなことを平気で断定的に語る専門家には、正当な批判をいわれのない誹謗中傷や無理解と言い換えて屁とも思わない鉄面皮を多々見かけるのに、かなうかぎり誠実であろうとする専門家はその瑕疵の指摘や無理解に対峙した際の消耗が激しく、悩みを抱え込みやすい者が多いように見える。それは、前者は思いつきのような好き勝手を口走るだけのコストで名誉欲や物欲に結びつく見返りを得る者が多く、後者は「一般向け」という難題に向けて細やかに神経を配るコストを負担するにも関わらず、役割を果たし得た満足感ぐらいの見返りしかないことが多いことと関係がありそうだ。そう見るのは、ぼくに余計なバイアスがあるからだろうか。


学者さんがどうあるべきかなんてことを考えるのはぼくの手に余るけれども、メディアの片隅でメシを食ってきた人間としては、いまのメディアに「語ってもらうべき人」を見つけ出して、その人の話を吟味し、適切に咀嚼してメディアに載せる力がないことを悔しく思う。


そして、顔のない「一般人」を前にしたときに、なにをどう語るべきかを悩んで立ちすくんで沈黙してしまう人の方が、ムチャクチャを言って平然と金を稼いでいる人よりも、ぼくは信用できる。そしてまた、自分にできることを模索して、リスクを背負いながらできる範囲で情報を出してくれる人は、さらに尊敬できる。誰でも間違えることがあるのは織り込み済みだ。


もちろんメディアには、相互批判をフォローして値踏みできるだけの力(もちろん誰かの力を借りてできればそれで十分だ)が求められる。読者にも「どんな情報も一定程度の確かさしか保証されない(もちろん幅はある。かなり怪しい〜かなり大丈夫そう、ぐらいの。適切な値踏みは難しいにしても)」という最低限の理解が求められるのだろう。これはしんどいことだとは思うけれども。


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ちょっと飛躍。

バブル期のことだったと思う。当時の勤務先だった編集プロダクションの社長が、なんかのパーティかなにかで愚痴ったことがあった。「娯楽読み物ばかりがもてはやされる状況が続いて、編集がみんなそういう売れるわかりやすい企画に走るようになって久しい。60年代や70年代のように哲学書や思想書が一般に必要とされる時代がまた来たときに、そんな本の編集ができる編集者がどれぐらいいるんだろうか」と、嘆いたんだったと思う。これってお定まりの「最近の若いモンの非力さ軟弱さ」って奴だし、そのときは腹の中で「お前が言うか。誰がそんな企画を立てて受注してるんだ」と思いもした。けれども、今、いかにも安手の自己啓発本やビジネス書が書店の棚を埋めているさまを眺めると、メディアから力を奪ったのはメディア自身だよなあと思わずにいられない。いや、どうすればよかったのか、これからどうすればいいのか、自分でもわかんないんだけど。思い出したので書いておく。