伊藤博文の克服

■プロジェクトJAPANシリーズ 日本と朝鮮半島
第1回 韓国併合への道 伊藤博文とアン・ジュングン
http://www.nhk.or.jp/special/onair/100418.html

 リアルタイムで視聴。何か想像以上に、各方面(主に修正主義的な人々)に気を使ったのだなと思わせる構成になっていた。おそらく『アジアの”一等国”』(http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090412/p1)への批判があまりにも大きかったせいで相当ナイーヴになっているのだろう。
 そのせいもあって、この番組は内容として不満が残るものであったのみならず、構成においてもやや不自然なところが多かったように感じられる。主題は明確で、「帝国主義者」で「リアリスト」の伊藤博文と「反帝国主義者」で「理想主義者」のアン・ジュングンという二人の登場人物の違いを、それぞれの立場の象徴として際立たせ、その二つの立場から韓国併合という歴史事件を見ていくというものである。ところが、伊藤博文に関する描写が、おそらく「日本の植民地主義は善政であった」という立場の人を納得させるために、弁明的な紹介が多く、そのせいで「帝国主義者」としての描写がよく際立っていなかった。『アジアの”一等国”』においては、「よき植民地主義も悪しき植民地主義もなく、ただ植民地主義がある」という観点から、「よき植民地主義者」後藤新平が明確に「帝国主義者」として描かれていたのに対して、今回、伊藤博文は「よき植民地主義者」であることが強調されていたのである*1。この点では、台湾問題を描いた昨年のシリーズから後退しているといえよう。
 だが一方で、この番組はそれぞれの立場を「両論併記」しただけと見せかけた日本植民地主義の実質的な擁護、というよくある構成にとどまるものではなく、けしてそれをはっきりとは明示しないが、メッセージとしては、明確にアン・ジュングンの側に立つものであった。
 伊藤博文による朝鮮半島の「近代化」政策に民衆が反発する。この要因として、番組では「ナショナリズム」が挙げられてる。出演していた日本の歴史家は、これを「よかれと思ってやったことが理解されないかわいそうな伊藤博文」と言いたげな様子であったが、もちろんそれは「帝国主義者」伊藤博文に対するナイーヴな評価である。また、韓国の「近代化」があたかも伊藤博文によって初めて行われたかの描写も、評価は様々あれ韓国のひとびとによって行われた自主的な「近代化」政策である「光武改革」を無視するものであり不当であろう。一方、こうした「近代化」と「ナショナリズム」の対立を、伊藤博文とアン・ジュングンの二人にたいして、番組は重ねることはしていなかった。アン・ジュングンはその子孫によって「ナショナリスト」ではなく、むしろ「ロマンチスト」であったという紹介がなされる。伊藤博文とアン・ジュングンの対立は、「帝国主義―リアリスト」と「理想主義―ロマンチスト」の対立なのである。言い換えれば、「近代化―パターナリズム」と「伝統―ナショナリズム」という、日本の植民地主義を肯定したい人びとが持ち出す安易な対立ではなく、むしろ、未だ完成していない「近代」を巡る対立なのである。
 番組の終盤、「武力の平和」ということばが紹介される。それは、伊藤博文が暗殺される直前に行った講演の中に登場することばで、彼が「帝国主義」を受け入れ、その枠において行動するリアリストであったことの象徴的なことばと位置づけられる。そしてその後に、まさにその「武力の平和」をスッパリと否定する思想として、アン・ジュングンの「東洋平和論」が紹介されるのである。裁判で、伊藤博文の暗殺を「東洋の平和のため」と答えたかれは、「東洋の平和とは何か」と問われ、「韓国や清や日本がみな自主独立して行くこと」と返すのである。これは、日本がパターナリスティックな方法を用いてアジアを率いていくことこそが「東洋の平和」であると考えた伊藤博文に突きつけられたNOであり、「帝国主義」の枠を乗り越える「理想主義」である。にもかかわらず、朝鮮半島は1910年に日本の植民地となり、日本の大陸政策の拠点となっていく。そのナレーションとともに流される映像は、「日本化(皇民化)」されていく朝鮮半島であり、自主独立が奪われた朝鮮半島である。
 番組の出演者、ナレーションは、けしてこのどちらの立場にコミットするかは言わない。かわってほのめかされるのは、EU、そして東アジア共同体の理想である(いや、ぼくはけしてEUが理想的な共同体だとは思わないが)。これは伊藤博文の「武力の平和」ではなくアン・ジュングンの「東洋の平和」へのコミットであるといってよいのではないだろうか。20世紀初頭が、弱肉強食の時代、「帝国主義」の時代であることが強調され、伊藤博文がその時代状況に優れた適応を見せていたことを「評価」しつつも、しかしなお、それを乗り越える理想として、アン・ジュングンの「東洋の平和」を番組は評価したのではないか。

*1:ただし――、事実として伊藤博文がやったことが「よき植民地主義」とよべるもの(少なくとも、日本のほかの帝国主義者たちがやったであろうそれと比べて)であったのならば、アン・ジュングンは「だからこそ」伊藤博文を暗殺しなければいけなかったといえる。