突然、束論に目覚めた

前回のエントリーからずいぶん時間が空いてしまった。大学では特任教授になって、講義コマ数と出勤日数が減ったから大きな余裕ができるはずだったのだが、新しい仕事が入ったり、共同研究が増えたりして、逆に忙しくなってしまったのだ。それでブログの更新がなかなかできないでいる。

忙しいと言っても、数学の勉強だけは継続的に続けている。やっぱり、数学が心底好きなんだよね。以前には知らなかった数学を、新たに理解することはとても大きな効用をもたらしてくれる。今ではもう、数学で一旗揚げるなんていう野心はみじんもなくなったけど、生きているうちにできるだけ、興味を持った数学を勉強したい。

というわけで今回は、今勉強している数学についてエントリーしようと思う。それは「束論」という分野だ。岩村聯『束論』共立出版のまえがきから引用すれば

束あるいはラティスというのは、ある種の''演算が指定された集合''すなわち''代数系''であって、近ごろよく話題になるブール代数もその1種である。

となっている。

なぜこの「束論」にめぐりあったかというと、数理論理学と位相の関わりからなのだ。ぼくは「位相空間が面白くて勉強している」ということを以前にエントリーした。そして、位相空間の再勉強のあとに、「そういえば」とある本を思い出したのだ。それはずっと昔に買って未読のままだった田中俊一『位相と論理』日本評論社という本だ。思い出したことは、この本に数理論理学における「完全性定理」の位相を使った証明が解説されていたはずだ、ということだった(記憶違いだったことをあとで説明する)。それもブール代数と位相とのコラボレーションだという記憶だった。

ぼくは長い間、数理論理についての初心者にも読める本を書きたいと思っていて、専門書を集めていた。数理論理の本を書くことは拙著『証明と論理に強くなる』技術評論社で達成した。この本では「完全性定理」の証明(命題論理については完全なもの、述語論理についてはざっくりとした部分的なもの)を解説した。その際、田中俊一『位相と論理』で解説されている証明法は参考にしなかった(読んでなかったし)。それでこの本を本棚から久しぶりに取り出して初めて読んでみた。そしたら、めちゃくちゃ面白かった。「命題論理の完全性定理」の束論を使った証明が解説されていたからだ。ただし、残念ながら、「位相を使った証明」ではなかった。位相を使って証明される数理論理の定理は「コンパクト性定理」というやつだった。

「命題論理の完全性定理」というのは、「トートロジーは必ず証明できる」という定理である。もう少し詳しく説明しよう。与えられた命題について、それを構成する命題変数にどんな真偽を割り当ててもその命題が真であるとき、その命題をトートロジー(恒真命題)と呼ぶ。与えられた命題がトートロジーであるなら、その命題は必ず、通常の(公理から出発する形式的な)推論規則によって証明できる、というものだ。例えば、命題変数p,qから生成される命題((p \lor q) \land \neg p) \to q を考えてみる。p,qにどんな真偽の組み合わせ(4通り)を当てはめても、この命題は必ず真であるからトートロジーである。このとき、この論理式は推論規則で導出することができる。(どのように導出されるかは、拙著『証明と論理に強くなる』で読んでくださいな)。「命題論理の完全性定理」は、このようなことが一般的に成り立つことを主張している。すなわち、「形式的に証明できる命題は常に正しい」だけではなく、「常に正しい命題は、形式的に証明できる」というわけなのだ。前者はそんなに不思議ではない。なぜなら、推論規則は真なる命題から真なる命題を構成するような手続きだから。でも、後者はとても意外性のある帰結だ。どんな真偽を当てはめても論理演算で真と評価される命題は、推論規則をつなげて証明できる、と言っているからだ。

田中俊一『位相と論理』ではこの「命題論理の完全性定理」を束論を使って証明している。もっと詳しくいうと、束論にも「イデアル」という概念があって、それを用いるのだ。素イデアルの写像に関する性質をブール代数とリンデンバウム代数という構造に応用することで証明される。ぼくのような素人は舌を巻いてしまう証明だった。

ところで、束というのは、順序集合(全順序でなくてもよい、すなわち、順序を比べられない要素があってもよい)においてすべての「有限join」、「有限meet」が存在することが成り立つものと定義される。ここで、aが集合Sの最小上界であるとき、aをSのjoinと言い、aが集合Sの最大下界であるとき、aをSのmeetと言う。最小上界というのは、集合Sのどの要素よりも順位が後ろにある要素の中で最も先の順位にある要素。最大下界はその双対である。このjoinとmeetという演算を駆使することで、「分配束」とか「ブール代数」とか「ブール環」とかを定義でき、さらには環のイデアルの類似の概念を導入することができる。もちろん、極大イデアルや素イデアルも同様に定義できる。この「順序概念を基礎とする抽象的な代数世界」に命題論理の構造を埋めこむことで完全性定理が証明できる、という次第。イデアルというのは、数学を貫くアイテムなんだなあ、と再認識した。久しぶりにわくわくしてしまった。

この勉強が楽しかった理由は他にもあるのだ。それはゲーム理論を勉強しているとき、オーマンの画期的な論文「AGREEING TO DISAGREE」(Annals of Statistics, 1976)を読んだ経験だった。これはたった4ページの論文ながら、後に「共有知識(common knowledge)」という概念に発展して、ゲーム理論を革新することになる論文だった。共有知識というのは、「プレーヤーAはXという事象を知っており、しかも、プレーヤーBはプレーヤーAがXを知っていることを知っている」みたいな複層的な知識構造のことだ。こういう複層的知識構造を定義するプロセスの、非常に重要なところにjoinとmeetが登場したのだ。最初は意味がわからなかった。当時、一緒に意思決定理論を勉強していた院生に聞いて初めて意味がわかったのだった。30年ぐらい昔の懐かしい思い出だ。このjoinとmeetに束論で再会したのはとても興奮した。運命のようなものを感じた(笑)。ちなみに共有知識については、拙著『確率的発想法』NHKブックスや拙著『数学的推論が世界を変える』NHK出版新書に詳しく解説してあるので、興味ある人は是非手に取って欲しい。

もともとは数論が大好きで数学科に進学したぼくが、この年になって束論のような抽象代数に惹かれるとは、人生何があるかわらかんものだ。もちろん、それはぼくが経済学や意思決定理論やゲーム理論を経由したことにも由来する。人生経験は人を新たな境地に導く。以下に参考文献を列挙しておくね。

 

 

 

現在は、バブルや否や

 先週の月曜日、8月5日に株価の4451円の暴落が起きた。その前に8月2日にも2216円の下落となっているので、合計するとすさまじい値下がりだ。これを日銀の利上げや植田総裁の発言のせいだと非難する人たちもいるし、単なる短期的な調整と見る投資関係者もいる。現在の株価がいわゆる「バブル」でこれからも暴落を続けるのだろうか。それとも、そんなことはなく、再び安定したり上昇軌道に戻るのだろうか。もちろん、ぼくにはどっちだか判断がつかない。つくはずがない。(確実な判断がつくぐらいなら、こんなブログを書く暇に、株を買うか空売りするかしてるがな。笑)。判断はつかないが、もしも現在が「バブル」であるなら、それはとても重要な問題なのだ。そんなわけで今回は、経済学者の立場から「資産バブルの問題」について解説したいと思う。

 その前に、宣伝をひとつ。

今年は宇沢弘文先生の没後10年にあたり、記念のシンポジウムが企画されている。ぼくも登壇するので、是非とも皆さんにお知らせしたい。それは以下。

「宇沢弘文没後 10 年記念シンポジウム」
主催:宇沢国際学館

共催:学習院大学経済経営研究所・科学技術研究費基盤(C)「無形資産の生産力効果」
開催日:2024 年 8 月 24 日(土曜日)

開催場所:学習院大学西 5 号館 B1 教室   オンライン配信

(プログラム)
9:45 主催者あいさつ 占部まり(宇沢国際学館代表取締役)


1 10:00~11:00 社会的共通資本理論の再検討 浅子和美(一橋大学名誉教授)×宮川努(学習院大学教授)


2 11:15~12:00 宇沢弘文の数学 安田洋祐(大阪大学教授)×小島寛之(帝京大学特任教授)


(昼食休憩)

3 13:00~14:15「定常型社会」と「資本主義の新しい形」 広井良典(京都大学教授)×諸富徹(京都大学教授)×松下和夫(京都大学名誉教授)

4 14:30~15:15 21 世紀のコモンズ論 三俣学(同志社大学教授)×茂木愛一郎(前学習院大学非常勤講師)

(休憩)
15:30~「宇沢弘文追悼メッセージ」(ビデオ上映)
(2014 年制作・約 25 分:(出演)ケネス・アロー、ロバート・ソロー、ジョセフ・スティグリッツ、ジョージ・アカロフ)

5 16:00~17:00 宇沢弘文とマクロ経済学 清滝信宏(プリンストン大学教授)

ぼくの討論相手は、経済学者として業績をつむだけではなく、マスコミなどほうぼうでも大活躍の、そして相変わらずイケメンの安田洋祐先生だ。5年前の没後5年のイベントでも討論させていただき、今回はそれをお互いに発展させたものになると思うので、大変楽しみである。

それより何より、トリをつとめてくださるのは、あの、日本を代表する、世界的な経済学者の清滝先生だよ。一般の人はなかなかお目にかかれない学者だぜ。このチャンスを逃す手はないと思うぞ。しかも無料だ。お申し込みは下記からどうぞ。

宇沢弘文 没後10年記念シンポジウム 申し込み

 

さて、「バブル」の話に戻ろう。もしも現在の株価がバブルならどうして大問題なのか。それについて、拙著『シン・経済学 貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書から引用しよう。

注目すべきことは、バブルがはじけたあとに長期不況がやってくることです。南海泡沫バブルでも、オランダ・チューリップ・バブルでも、アメリカ資産バブルでも、その崩壊後に長期不況がやってきています。日本の80年代バブルの崩壊後も、日本は長期不況「失われた30年」に見舞われることになりました。2008年のリーマン・ショックは低所得者向け住宅ローン(サブプライム・ローン)の債券バブルの崩壊に起因したもので、世界中を不況にひきずりこみました。(p26)

では、なぜ、バブルがはじけたあとに長期不況がやってくるのか。それについても本書での説明を引用する。

その理由を一言で言えば、「資産バブルと長期不況は同じ現象だから」ということになります。

 成熟社会においては、人々の興味が消費から資産に移ることを説明しました。資産選好が強くなる、ということです。こうなると人々は、所得のほとんどを資産に積み増すようになります。この状況では、資産価格は必然的に高騰していきます。例えば、人々がこぞって、所得で消費財を買うのではなく、株を買おうとすれば、株価はどんどん上昇します。(中略)。

しかし、資産価格があまりに高騰すると、人々は資産の信用性に疑いを持ち始めます。こうなった瞬間、バブルの崩壊がやってきます。人々は我先にと資産を手放そうとするからです。これがバブル崩壊のメカニズムです。

バブル膨張とバブル崩壊のメカニズムが資産選好から来ることを理解すれば、バブル崩壊後に長期不況が到来する理由もわかります。それは、バブルの源泉であった資産への信頼が崩れたため、人々は「際限ない金持ち願望」を満たすために別の標的を求め、それが貨幣になるからです。

人々は資産選好を貨幣保有から満たそうとします。貨幣は政府が後ろ盾になっているので、最も信頼性の高い資産だからです。すると、人々は所得を消費ではなく、貨幣保有にまわします。このことはモノが売れない状態を生み出し、物価の下落をもたらします。これがデフレーションです。

 デフレーションとは物価の継続的下落ですから、これを裏側から見れば、貨幣の価値の継続的な上昇ということになります。これはまさに「貨幣のバブル」と呼ぶべき状況です。つまり、長期不況とはバブルの変種であり、強い資産選好のもたらす災いなのです。(p56)

以上は小野善康さんの不況定常均衡モデルから解説したものだ。(小野モデルについては、これやこれやこれのエントリーを参照のこと)。もっと詳しく知りたい人は、是非とも拙著をお読みくだされ。とにかく、バブルがはじけることは長期不況を呼び出すことにつながる。だから、バブルは大きくなる前に潰す必要があるのである。

 バブルとは何なのかを理解してもらうために今回は、「バブルの経済モデル」について解説する。参照するのは、Blanchard & Fischer「Lectures on Macroeconomics」だ。なぜこの本を本棚から取り出したのか。それは実は、大学院のときに植田・日銀総裁からこの本に沿って「バブルの経済モデル」を教わったからなのだ(ほんとの話)。

 まず、株などの資産価格を決めるための「裁定方程式」を知る必要がある。

r=\frac{(p^e_{t+1}-p_t)+d_t}{p_t}

ここで、p_tはt期の株価、p^e_{t+1}はt+1期の株の予想価格(記号eはexpectation(期待)を意味する)。d_tはt期の配当、rは利子率である。この等式が成り立つ理由はこうだ。すなわち、株を1単位所有するときの予想収益は、配当d_tと値上がり益(キャピタル・ゲイン)p^e_{t+1}-p_tを加えたものである。したがって、株保有の収益率はこの和を1株の購入価格p_tで割ったものとなる。これが、利子率rと一致しなければならない。なぜなら、もしも利子率より大きければ、預金から株へ資金の移動が起きるし、逆なら逆の移動が起きるからだ。

この裁定方程式の分母を払ってp_tの1次方程式として解くと、

p_t=ap^e_{t+1}+ad_t where a=1/(1+r)

となる。この式が意味するのは、「株の現在価格は次期の予想価格から決まる」ということだ。すると、来期の価格は同様にして来来期の予想価格から決まるから、めぐりめぐって、今期の価格も来来期の予想価格から決まることになる。これを逐次的に実行すれば、今期の価格は遠い将来の予想価格から決まる、ということになるのだ。

さて、p^e_{t+1}をもっと詳しく書くと、E(p_{t+1}|I_t)と表現される。ここで、E(  )は確率的期待値、I_tはt期に利用可能な情報である。したがって、E(p_{t+1}|I_t)は、情報I_tの下での来期の価格の期待値ということになる。すると、先ほどの方程式は、

p_t=aE(p_{t+1}|I_t)+ad_t 

と書き直せる。

E(p_{t+1}|I_t)の定義としてよく知られているのは、統計学の回帰分析、ベイズ推定、測度論の情報増大系などだ。最初の(ルーカスやサージェントが使っている)だと、これまでの価格などから次期の価格を回帰してそれをE(p_{t+1}|I_t)とする。二番目だと、これまでの価格などからベイス推定を行った予想価格をE(p_{t+1}|I_t)とする。どれでやるにしても、次の公式が役に立つ。

E(E(x|I_{t+1})|I_t)=E(x|I_t)

これは「the law of iterated expectaion」で、「期待値の繰り返し公式」と呼ばれるものだ。言葉で言えば、「明日利用可能な情報を利用して作る予想を、今日利用可能な情報で予想するなら、単に 今日利用可能な情報で作る予想と同じである」ということである。これを利用すると、a^{T+1}E(p_{t+T+1}|I_t) \to 0 \qquad(T \to \infty)

という仮定の下で、株の価格が次のように決まる(期をずらして期待値E(|I_t)をとり、the law of iterated expectaionを使えば出せる。やってみて欲しい)。

p^{*}=\sum_{k=0}^{\infty}a^kE(d_{t+k}|I_t)

ちなみに上記の仮定は、予想価格が大きくなるスピードはa^kが0に近づいていくスピードほどではない、ということを意味する。このp^{*}を「ファンダメンタルズ価格」と呼ぶ。ファンダメンタルズ価格の意味は、この株を買わずにその額を預金すれば、将来得られる利子の総額が予想配当額の総和と同じになる、ということ。言い換えると、「配当予想の利子率で割り引いた現在価値の総和が現在の株価」になる、ということだ。当たり前といえば当たり前の話。ファンダメンタルズ価格は当然、上記の裁定方程式の解となっている。

 さて、いよいよバブルの話に移る。ここで、p_t=p^{*}+b_tとおいて、b_tが0でないような解が可能かどうかを考えよう(任意のtに関してb_t=0なら、これはファンダメンタルズ解)。b_tをまさに「バブル項」と呼ぶ。これを先ほどの裁定方程式p_t=aE(p_{t+1}|I_t)+ad_tに代入すると、

p_t^{*}+b_t=aE(p_{t+1}^{*}|I_t)+aE(b_{t+1}|I_t)+ad_t

が得られる。ファンダメンタルズ解p^{*}は裁定方程式を当然、満たしているから、p_t^{*}=aE(p_{t+1}^{*}|I_t)+ad_tが成り立ち、したがって、これを両辺から相殺することで、

b_t=aE(b_{t+1}|I_t)

と変形できる。この式が意味するのは、次期のバブル項の予想値にa(=1/(1+r))を掛けると今期のバブル項になる、ということ。これを満たすp_t=p^{*}+b_tが「バブル解」となる。この式はE(b_{t+1}|I_t)=a^{-1}b_tと同値。したがって、期をずらすと、E(b_{t+2}|I_{t+1})=a^{-1}b_{t+1}。この期待値をとって、E(E(b_{t+2}|I_{t+1})|I_t)=a^{-1}E(b_{t+1}|I_t)。the law of iterated expectaionから、E(b_{t+2}|I_t)=a^{-1}a^{-1}b_t=a^{-2}b_tとなる。つまり、E(b_{t+k}|I_t)=a^{-k}b_tが得られる。a^{-1}=1+r は1より大きいから、バブル項の予想は指数的に大きくなって行かなくてはならない。

 このように、例えば、バブル項がb_t=(1+r)^tb_0であるような、p_t=p^{*}+b_tも裁定方程式を満たすので、株価の経路としては「考え得る」。これは、「ever-expanding bubble」と呼ばれる。けれどもこれは、人々が「株価はいくらでも、無限大の大きさまでも、高くなり得る」と予想していることなので、「数学的には可能」だけど、現実味があるとは言えない。例えば、「1株の価格が世界のGDPの合計より高くなる」などということは到底想像し得ないだろう。だって、その株で地球上の全商品を購入できちゃうわけだからね。そういう価格になる前の前のずっと前、天文学的に前の段階で、株をモノに換えようとするに違いない。

 しかし、もう少し現実味のある「バブル解」が存在する。それは、「Bursting Bubble」と呼ばれる解だ。それは、E(e_{t+1}|I_t)=0を満たす{e_t}を設定して、バブル項b_tが、確率qでb_{t+1}=(aq)^{-1}b_t+e_{t+1}となり、確率1-qでb_{t+1}=e_{t+1}を満たすような確率的プロセスだ。このようなb_tは、b_t=aE(b_{t+1}|I_t)を満たすのが簡単に確かめられる。したがって、このb_tに対するp_t=p^{*}+b_tは裁定方程式を満たす。この株価p_tは確率qで次期にファンダメンタルズ価格からはずれたまま、バブル項が(aq)^{-1}倍に膨張する。そういう意味で、「株価のバブル的膨張」を表現できている。しかし、このプロセスが前のものよりも現実的なのは、このような膨張が永遠には続かない、からなのだ。確率qの出来事が2回連続で起きる確率はq^2、3回連続で起きる確率はq^3、とどんどん小さくなって0に近づいていく。したがって、いつかもう一方のできごと、b_{k+1}=e_{k+1}が起きて、株価はファンダメンタルズ価格に戻ってしまう。このメカニズムが、「Bursting Bubble」の名の由来なのだ。

 ぼくが大学院で植田先生(現・日銀総裁)にこのモデルを教わったとき、先生は突如、黒板に折れ線を描いた。そして、実名の企業を挙げて、「これは私が以前に保有していた株の価格の推移です」と仰った。続けて、「このように値上がりして行きましたが、このあたりで私は怖くなり、売ってしまいました」というニュアンスのジョークを言って話を終えた(ように記憶している)。そういう脱線は稀だったので、今でも覚えているのだ。そんなこんなで、植田先生は今回、「私個人の所有株への恐怖」ではなく「国民たちの恐怖」を考えて、利上げをしたのかもしれないね(もちろん、冗談ですよ)。

 今回は、合理的期待形成の立場からのバブルモデルを解説したのだけど、これは「バブルがはじけると不況が到来する」ことの説明にはなっていない。次回は小野モデルの立場からのバブル崩壊とその後の長期不況のメカニズムを解説する予定だ。お楽しみに。そして、拙著↓もよろしく。

 

 

 

 

 

とにかく、三度の飯よりフェルマーが好きだった

今回は、昔話を書こうと思う。

少年の頃は、とにかく数学者フェルマーが好きだった、という話だ。

その話の前に前回に続いて、市民講座の宣伝をば。

生涯学習の市民講座である早稲田エクステンションセンターでぼくがレクチャーする一般人向けの夏期講習。それは、「素数の話」というタイトルで、8/31(土曜), 9/7(土曜)の2回講座となっている。講義概要は、以下。

素数は、1と自分自身以外では割り切れない整数です。2、3、5、7、11、13、17、19・・・というようにとても不規則に並んでいます。素数の研究は紀元前のギリシャから始まり、2千年以上もの長い間、数学者たちを虜にしてきました。今でも新しい発見がなされ、また、いまだに解かれていない難問もたくさんあります。そんな素数の魅力を初心者に向けて解説しましょう。フェルマーの小定理、ウイルソンの定理などの初等的な有名定理から、リーマン予想などの未解決問題、素数の作る新奇な空間など総合的に解説します。また、素数を使う数理暗号が私たちのセキュリティを守っていることもお話しましょう。

詳細や申し込みは、以下のURLからどうぞ。

素数のはなし | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

 

では、フェルマーの話に進む。

ぼくがフェルマーを知ったのは、たぶん、中学1年の終わりか2年の始めぐらいだと思う。数学の授業から素数に興味を持ったぼくは、書店にいって、素数のことを書いてある本を探しまくった。その過程で、コンスタンス・レイド『ゼロから無限へ』芹沢正三・訳、ブルーバックスに出会った。初版が1971年8月15日だから、刊行された直後のことと思う。この本は、「ゼロの話」、「1の話」、「2の話」という具合に自然数を語っていって、最後には「・・・の話」(これは無限集合論の章)、「eの話」で締めくくられる。

「3の話」のところで、素数を解説しているので買ったのだけど、「4の話」でフェルマーの大定理(x^n+y^n=z^nは、nが3以上だと正の整数解を持たない)や、2平方定理(4で割って1余る素数は、2つの平方数の和になる)に触れ、「5の話」でフェルマーの多角数定理を紹介している。中学生だったぼくは、わくわくしてしまい、すぐに虜になった。

その後、フェルマーのことをもっと知りたいと思って、巻末で芹沢先生の読書案内の中にあるイタール『整数論』村田全・訳、クセジュ文庫を買い求めた。これは、本当にぼくが焦がれた内容の本だった。

まず、フェルマーが挑んだディオファントス的な問題を解説する。例えば、4x^2+20x+8, 4x^2+4x-8がともに平方数である場合を求める、など。そのあと、オイラーが誤って命名したため、今では「ペル方程式」と呼ばれるが、実はフェルマーの創案である方程式x^2-Ay^2=1の整数解の解法について解説している。さらには、フェルマー方程式x^4+y^4=z^4に正の整数解がないことのフェルマーによる証明を詳説し、x^3+y^3=z^3に正の整数解がないことのオイラーのアプローチ(不完全だった)まで足を延ばしている。

この本があまりに好きすぎたぼくは、大学受験に失敗して浪人生をしていたとき、思いあまって翻訳者の村田先生にお手紙を出してしまった。「この本にあるフェルマーの業績をもっと知りたいので、本を紹介して欲しい」というファンレターのような要望のような手紙だった。村田先生が親切にもすぐにお返事をくださった。その内容は、「自分は数学者ではなく、数学史家なので、詳しくは知りません。それはともかく、あなたは浪人中だそうなので、そんなことで道草を食わず、まずは勉強をして大学に合格しなさい」という感じだった。いやあ、今思えばごもっとも。でも、お返事をいただけたのはとても嬉しく、励みになった。

その次に買ったのは、やはりクセジュ文庫のボレル『素数』芹沢正三・訳だった。この本には、フェルマーの2平方定理と4平方定理の証明が収められていた。そればかりではなく、「素数定理」(x以下の素数の個数がx/log xに漸近する、という定理)が成り立つ直感的な理屈まで説明しているスゴ本だった。ちなみに、著者のボレルは、測度論で出てくる「ボレル集合」に名を残す高名な数学者だ。でも、中高生の頃のぼくはあまり楽しく読めず、この本を真面目に読んだのは、つい最近で、拙著『素数ほどステキな数はない』技術評論社を書くためだった。年を取ってから読むと、実にすばらしい本だと思えた(ボレルの本は現在、絶版のため、素数定理のボレルによる初等的な解説を知りたい人は拙著で読んでね)。

その後、ぼくはフェルマーの大定理へ最新のアプローチをした森嶋太郎『ふぇるまーの問題』という本があることを知った。本屋では販売されておらず、普通の図書館にもないことがわかったが、どうしても手に入れたいと思った。どういう手段か忘れたが、東大の総合図書館にあると突き止めた。ぼくは、その本を読みたい一心で、東大受験へのモチベーションを高めたのだった。

なんとかかんとか入試に合格したぼくは、さっそく、本郷にある総合図書館に行った。総合図書館は荘厳な雰囲気で、「やっとここにたどりついた」という感慨をかみしめながら、入館証を作った。そして、意気揚々と森嶋太郎『ふぇるまーの問題』をリストで調べ、図書番号を持って、司書さんに提出した。司書さんが本を探しに行っている間は本当にどきどきした。

司書さんは本を持って戻ってくると、「これは貸し出しはできないので、書庫の中で読んでください。中に机と椅子があります」と言われてびっくりした。「この本は、そんなに貴重な本だったんだ」と感心したのだった。

渡された本は数学書とは思えないほど、小さい本だった。それを持ってぼくは書庫の中に入り、空いている机に着席した。どきどきしながら、本を開くと、完全に動揺してしまった。本には、何語だかまったく分からない言語が書かれていた。英語でもフランス語でもドイツ語でもない。たぶん、ラテン語だったんじゃないか、と思う。

ぼくは途方に暮れた。森嶋太郎『ふぇるまーの問題』ではないことだけは確かだった。数式はいっこもなかったから。どうしたらいいかわからず、小一時間、机に座って、1字も読めない本とにらめっこした。どうしたものかと思案をめぐらせた。

意を決してぼくは、司書さんのところに行って、「この本ではないようです」と告白した。事情を聴いた司書さんは、「君は番号の見方を間違っていますよ」と説明してくれて、もう一度、書庫の中に行き、今度はちゃんと森嶋太郎『ふぇるまーの問題』を持ってきてくれた。「これなら、貸し出しも可能ですよ」と。ぼくは、わくわくしながら借りだし、コピーもとった。思い出すと今でも、甘酸っぱい思いがあふれてくる。

 大学では、どうにか理学部数学科に進学することができた。そこで落ちこぼれた話は何回もエントリーしたので、ここでは省略する。代数幾何が専門の教官が指導教官になったのだけど、その先生に「数学で何がやりたいのか」と尋ねられ、正直に「フェルマーの大定理の周辺を勉強したい」とぼくは答えた。それを聞いた教官には、「今頃、そんな古典的な問題を勉強してどうする」と叱責された。「数論がやりたいなら、ゼータ関数とか保型形式とかやりなさい」と説教された。ぼくの中に悔しさとも憎悪ともつかない感情が渦巻いた。その頃はまだ、フライによる「フェルマーの大定理は谷山・志村予想に帰着される」という定理が発表されていなかった。教官の叱責は半分は正しく、半分は間違っていた。フェルマーの大定理は、決して古典的な問題ではなく、現代数学の標的になっていたのだ。一方で、解法のポイントは「ゼータ関数とか保型形式とか」であったのだった。

フェルマーの大定理は1995年、みごとにワイルズによって解決された。ぼくは、ひとり祝杯をあげた。自分が生きているうちに解決されたのは本当に嬉しいことだった。

 経済学の道に進んでしばらく数学から離れていたぼくは、数学の著作を書く仕事に戻り、加藤・黒川・斉藤『数論Ⅰ・Ⅱ』を入手した。その序章を読んで、思わず涙がこみ上げてきてしまった。そこには、フェルマーの研究が列挙され、それがいかに現代の数論に影響を与えたかが切々と書かれていたからだった。

 なんか、思い出話、自分語りに終始してしまったので、最近はまっている音楽を紹介してお茶を濁して終わろうと思う。それは、夜中の(夜更けの)曲紹介番組で偶然目にした(耳にした)「a子」さんというシンガーソングライターだ。ぼくが注目したときはまだマイナーだったけど、先月にメジャーデビューを果たした。めでたい。今は、彼女の曲しか聴いていない。YUIにはまって以来のはまりぶりだと思う。a子ちゃんといえばこれだ、というPVを2つリンクしておくね。YUIとは違って、いまどきの女の子の痛々しい歌詞がすばらしい。もちろん、曲もすばらしい。

a子 - あたしの全部を愛せない : MUSIC VIDEO (Ako - All to myself) - YouTube

a子 - trank : MUSIC VIDEO - YouTube

 

 

 

 

 

遠山啓『初等整数論』

 今回は、最近出版された遠山啓『初等整数論』ちくま学芸文庫の紹介をしよう。最近出版された、と言っても、初版は『数学セミナー』での1969年から1970年の連載を1972年に日本評論社から刊行したものであり、その文庫版ということになる。嬉しいプレミアムとして、数学者・黒川信重さんの解説が新たに加えられている。

 

 この本の内容に触れる前に、生涯学習の市民講座である早稲田エクステンションセンターでぼくがレクチャーする一般人向けの夏期講習の宣伝をしておきたい。それは、「素数の話」というタイトルで、8/31(土曜), 9/7(土曜)の2回講座となっている。講義概要は、以下。

素数は、1と自分自身以外では割り切れない整数です。2、3、5、7、11、13、17、19・・・というようにとても不規則に並んでいます。素数の研究は紀元前のギリシャから始まり、2千年以上もの長い間、数学者たちを虜にしてきました。今でも新しい発見がなされ、また、いまだに解かれていない難問もたくさんあります。そんな素数の魅力を初心者に向けて解説しましょう。フェルマーの小定理、ウイルソンの定理などの初等的な有名定理から、リーマン予想などの未解決問題、素数の作る新奇な空間など総合的に解説します。また、素数を使う数理暗号が私たちのセキュリティを守っていることもお話しましょう。

詳細や申し込みは、以下のURLからどうぞ。

素数のはなし | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

 

さて、遠山本の話にもどろう。

この本は、タイトル通り、初等整数論を解説した本である。章立ては「整数の基本性質」「約数と倍数」「いろいろな関数」「合同式」「群、環、体」「連分数」となっており、初等整数論の標準的なラインナップと言っていい。

一読した印象だと、高木貞治『初等整数論講義』岩波書店と同じ題材を、非常に丁寧に解説したように感じる。ただ、練習問題として、しゃれた問題も加えられており、受験業界の人には良いネタ帳になるんじゃないか、と思う。

高木本との違いは、行列理論を積極的に導入していることと、連分数へのアプローチが若干、洗練されている点であろう。とは言っても、連分数に関しては、高木本が「モジュラル変形」やミンコフスキーの「数の幾何学」など、現代数論で大事になる題材を導入しているのに対し、遠山本にはそういう「情熱」「情念」のようなものは感じられない。

その理由は、たぶん、遠山本のあとがきにあるように、初等整数論を「数学教育の題材」とみるスタンスを持っているからである。実際、あとがきでは、ハーディの言葉「初等整数論は早期の数学教育にとってもっともよい教材の一つであろう」を引用し、それに諸手を挙げて賛成している。それに対して、高木は、あくまで初等整数論を現代数論の入り口、「鳥居の如きもの」と扱っている。近頃のぼくが、遠山本より高木本のほうが面白く感じるのは、ぼくが数学教育者の感覚から遠のき、数学そのものに「情念」を持つようになった証しなのかもしれない。

とは言っても実はぼくは、遠山氏の著作で好きだったのは中学生のときに読んだ『数学入門』岩波新書だけだった。その後、『無限と連続』岩波新書など何冊か読んだが、あまり興味を感じなかった。遠山氏の数学の解説は、なにか淡泊というか、無味無臭というか、数学者の多くが秘めている数学概念に対する「情念」のようなものが欠落しているのように思えてしまうのである。これは、遠山氏の数学の著作全体に感じるもので(教育論の著作はそうではない)、「本当に数学者なんだろうか」といぶかるほどである。まあ、単なる趣味の問題なのであろうけど。

それでもぼくは、この遠山啓『初等整数論』ちくま学芸文庫を強く推奨したい。それは、黒川信重さんの文庫版解説がとても面白いからだ。

この解説は、黒川さんが遠山氏の最終講義に参加する話から始まる。

私は、東京工業大学に入学が決まり、下宿などを探しに大岡山キャンパスをふらついていて偶然、遠山先生の最終講義の案内を見てふらふらと講義室に導かれていた

という黒川さんらしいと言えば、らしいエピソードが書いてあって楽しい。

でも、そのすぐあとから、ゼータ関数の解説が始まる。いつもの黒川節である。

紹介されているのは、非常に簡単な、複素数sを変数とするゼータ関数(多項式ゼータ関数?)、

\zeta_n(s)=s^n-(s-1)^n、

である。この\zeta_n(s)について、次の定理を提示する。

(定理) (1) [関数等式] \zeta_n(1-s)=(-1)^{n-1}\zeta_n(s) 

(2)  [リーマン予想類似] \zeta_n(s)=0となる複素数sは、 Re(s)=\frac{1}{2}を満たす( Re(s)は複素数sの実部を表す)。

黒川さんは、親切にも、2次(n=2)の場合も証明してみせてくれる。その上で、一般のnの証明を代数版と幾何版の2通り与えてくれる。どちらも感動的に見事な証明だ。とは言っても、賢い高校生なら自力でできるだろう。

黒川さんは、きっとこの文庫版解説で、(意識してか無意識かわからないが)、遠山本に決定的に欠けているもの、すなわち、「その先に広がる魅力的な数学世界」を補ってくれたんではないか、と思う次第である。

いつものことではあるが、ぼくの初等整数論に関する著作の販促をさせてほしい。それは、『世界は2乗でできている』講談社ブルーバックスだ。この本は、2乗にまつわる数論を平易に紹介している。「ピタゴラス数」、「2平方定理」、「4平方定理」、「平方剰余」、「フィボナッチ数」など。楽しくて、情念に満ちた本なので、何卒です。

 

 

 

 

 

集合と位相の名著2冊

前回から、かなり間が空いてしまった。

今回は「集合と位相」の本を紹介しようと思う。

その前に、昨日、劇作家・唐十郎さんの訃報に接したので、唐さんの芝居の思い出を書こう。

唐さんの演劇を観たのは、1980年から1983ぐらいが中心だったと思う。たぶん、最初に観たのは、『女シラノ』だったんじゃないかな。『お化け煙突物語』も観た記憶がある。当時、日暮里に住んでいたので、唐さんの描く下町の人々に共感があった。とにかく、客はテントの中にぎゅうぎゅうに詰められ、足を伸ばすこともできないしんどい環境の中で、しかしだからこそ観客が一丸となって芝居を楽しむ、不思議な体験だった。とりわけ、水をふんだんに使った演出や、最後に舞台の後ろのテントが開いて、夜空を背景として演じられるエンディングは、どんな窮屈な思いも吹き飛んでしまうものだった。

唐さんの戯曲の持ち味は、いかがわしく下品で野蛮なタッチの中に、そこはかとない叙情が潜んでいることだ。とても好きだった芝居は、『下谷万年町物語』と『秘密の花園』と『さすらいのジェニー』。どれも水をふんだんに使った舞台だった。

『下谷万年町物語』はとにかく大人数の出る舞台でそのスケールと異次元感に圧倒された。『秘密の花園』は下北沢の本多劇場のこけら落としの公演。舞台に船を浮かべるエンディングにはどぎもを抜かれた。主演の緑魔子さんと柄本明さんがむちゃくちゃ良かった。とりわけ、姉と恋人の二役を演じた緑魔子さんの演技は秀逸。彼女の演技は劇団・第七病棟でも何度も観たけれど、その消えてしまいそうな儚さは比類ないほどの女優だと思う。

『さすらいのジェニー』は、ポール・ギャリコの原作を戯曲化したもの。ネコの冒険の物語。浅草の川沿いに安藤忠雄さん設計の建物を作ってそこで演じられた。これがまた演劇には全く向かない建造物で、聞こえないし見えないし寒いしで最悪だった。それでも、主演の緑魔子さんの切なさは最高だった。なにより、このときぼくは、愛猫を失った直後であり、この悲しい物語に号泣を禁じ得なかった。

唐さんは、稀代の天才的な劇作家だったけれど、これらの作品は時代のなせるものでもあったと思う。天才性と時代性がマッチしてこのような作品が生まれたのではないか。だから、こういう芝居はもう二度と出てこないように思う。

 さて、本題の「集合と位相」に入ろう。

ここのところ、ぼくは、「位相空間」の勉強に熱中していた。その大きな理由は、近々執筆する予定の本に、位相空間の解説を入れたいからだが、もうひとつ動機がある。ぼくは大学教員を引退したら(今は、再雇用で特任教授としてまだ講義している)、(純粋)数学の研究をしたいな、と思っており、そのテーマを模索している。それでいろいろな数学書を読んでいるのであるが、昔に熱をあげた「数論」も、未遂に終わった「代数幾何」もいまとなっては何かぴんとこないものがある。そこでたどりついたのが「位相空間論」なのである。実は、ぼくが経済学の中の意思決定理論で書いた論文は、どれも離散集合論と集合関数に関連するものだった。そういう意味で、ぼくはこういうジャンルに、情熱と適性があるんだろうなと思い至ったのだ。それで、昔読んだことがあり、しかし、通読はしていない二冊の名著をもう一度読んでみようと思った次第。

 二冊とは、松坂和夫『集合・位相入門』岩波書店と彌永昌吉・建一『集合と位相Ⅰ・Ⅱ』岩波基礎数学だ。

どちらもすばらしい教科書なのだけど、「どこが出来が良いのか」は全く異なっている。簡単に言えば、松坂版は、「話題をしぼって、非常に丁寧にわかりやすく解説する」スタンスの本であり、彌永版は「数学のさまざまな分野から豊富な例をとりこんで、位相空間の応用の広さを解説する」スタンスの本である。したがって、学習者は自分のニーズをはっきりさせて選ぶべきであろう。

松坂版は、とにかくわかりやすく、つっかえずにスラスラ読んでいける。今後の数学の勉強に必要となるであろう集合と位相の知識で重要なことだけを網羅し、最速で修得できるように工夫されている。余計なアイテムや、他分野を勉強していないとわからないアイテムは入れられていない。対して、彌永版は、いろいろなアイテムが投入されているので、リッチなもののなかなか進まない。なかなか進まないけれど、ひとつひとつの位相的概念をイメージ豊かに理解していける。

 二冊の比較のために、いくつか例を挙げよう。

集合論のなかで最も有用な定理に「ツォルンの補題」というのがある。「帰納的な順序集合は極大元をもつ」という定理だ。ベクトル空間の基底の存在とか、環における極大イデアルの存在とかを証明するなど、さまざまな場面で使われる。この定理について、松坂版では整列集合についての数ページに及ぶかなり長い準備のもとで証明が行われる。他方、彌永版では、ツェルメロの証明に想を得たHalmosの証明を紹介している。これは、短くカッコイイ証明なのだが、その分、イメージ化が困難でわかりにくい。

 「距離空間」については、松坂版は「実ユークリッド空間」のみを題材として、最短で位相の概念を作り上げる。彌永版は「関数空間」(関数の間に距離を導入して距離空間化したもの)や、「p進体」(有理数に通常の距離とは異なる、素数を使った距離を導入して、完備化した空間)など、発展的な距離空間を投入している。後者は、なかなか進まないとか、わかりにくいとかの難点を抱えるが、距離空間という概念がいかに応用範囲が広いかを知ることができる。数学ではいろいろなアイテムに「距離」を設定できるのだな、という「数学の自由奔放さ」を思い知れる。

 「位相空間」において、二冊の違いは明確になる。位相空間とは、距離空間の位相を抽象化して、一般的な集合に位相を導入した空間だ。松坂版では、「開集合」の公理を出発点として、「閉集合」「閉包」「近傍」などを定義していく。他方、彌永版では、「閉包」を出発点として、他のアイテムを定義していく。もちろん、どちらの本でも、「どの概念を出発点としても他の概念を定義できる」ことを証明しているのは言うまでもない。

どちらが優れていると感じるかは、何に注目しているかに依存する。ぼくの場合、最初は松坂版がわかりやすく、彌永版には歯が立たなかった。だから、松坂版で勉強して単位をとった。彌永版を読んだのは、最近になってからのことだ。今回勉強し直してみると、彌永版のほうがしっくりくる。その理由は、彌永版のほうが「関数の連続性」がしっくり来たからだ。「連続」とは、「像が切れてジャンプすることなく、つながっていること」だ。これを開集合で定義する場合、「開集合の逆像が開集合」というふうになる。「逆像」という「逆」で考えることの意味が把握しにくい。他方、閉包で定義する場合、「任意の集合の閉包の像が、像の閉包に包含される」となる。これは順像の形式になっており、「像が切れてジャンプすることなく、つながっていること」をそのまま表現しているように思える。とてもしっくりくる。

 位相空間については、他にも重要な違いがある。

松坂版は、距離空間でない位相空間の例は基本的に、「密着空間」(開集合が空集合と全体集合のみ)と「離散空間」(すべての部分集合が開集合)しか出てこない。他方、彌永版では、それらに加えて、「有限的位相空間」(有限集合の閉包は自分自身で、無限集合の閉包は全体集合になる空間)や「クルル空間」(群Gの指数有限正規部分群を使って、閉包を定義した空間)が導入されている。どちらも、閉包を使って位相を定義しているから、簡単に導入できている(この点は裏をとってないので嘘かもしれない)。さらに「ザリスキー空間」(体係数の多項式環のイデアルの零点を閉集合と定義する)も導入されている(これをは閉集合を経由して閉包を定義している)。これらの中では、クルル空間がめちゃくちゃ面白い。元の群を整数の加法群としてさえ、まったくイメージ化できない空間だけど、だからこそ、この空間でさまざまな位相のアイテムを試すのは意外性を感じて楽しめる。これこそ、抽象数学の楽しさの醍醐味だ。

 位相空間についての松坂版の利点は、大事な概念だけをすらすらと猛スピードで学習していけることだ。証明もわかりやすいので、つっかえることはほとんどない。「チコノフの定理」(コンパクト空間の直積空間はコンパクト)の有限交叉性を使った証明もとてもわかりやすい。他方、欠点は、距離空間以外の例がほとんどないので、なぜ位相空間が必要なのかが実感がわかないこと。

彌永版の利点は、意外性のあるリッチな例が投入されているため、位相空間のアイテムを図像的イメージがわかないまま試すことで概念理解を深めることができること。他方、欠点は、なかなか進まないので、連結性とかコンパクト性などの最重要概念に到達する前にギブアップする可能性が高いことである。

どちらを読むべきかは、動機と目的による。初学者は、もちろん松坂版からにすべきだろう。大事な概念だけ、最適なスピードで進めるからだ。しかし、位相空間については、彌永版をちらちら参照するとその本質に触れることができるだろう。一方、位相空間の本領を学びたい人には、彌永版をお勧めする。なかなか進まないが、ひとつひとつのアイテムをかみしめながら、あるいは別の本で調べながら読み進むと、異世界・異空間のスリリングな冒険を楽しめる。群論や数論や代数幾何の初歩をかじったことのある人は、彌永版に戻ると意外な収穫があるかもしれない。かくいうぼくがそうだった。

 最後に、いつものように、販促をさせてほしい。位相については、拙著『数学入門』ちくま新書を、ザリスキー位相については拙著『数学は世界をこう見る』PHP新書を手に取ってほしい。

 

 

 

 

 

 

久賀道郎『ガロアの夢』

自著の販促はしつこいと嫌われるので、そろそろやめて、別の話題に移ろう。

今回は、久賀道郎先生の名著『ガロアの夢』がちくま学芸文庫から復刻されたことを祝してこの本についてエントリーしたいと思う。

実は、久賀先生は宇沢弘文先生の親友で、宇沢先生から何度もお話を伺ったことがある。しまいには、宇沢先生から「君は久賀くんに似ている」とまでおだてられて、恐縮するものの、とても嬉しかった経験までした。その辺の事情はこのエントリーに詳しく書いてあるので、読んでほしい。

 この本のレビューをする前に、せっかくだから宇沢先生がらみで、ぼくが来週から行う市民向けレクチャーの宣伝とプッシュをしておこう。

宇沢弘文の社会的共通資本を考える | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

レクチャーは2月2日、9日、16日の3回行われる。内容の要約は以下である。

宇沢弘文は日本を代表する経済学者で、ノーベル経済学賞に最も近いと言われていました。主流派の経済学で多くの業績をあげたあと、制度学派という分野において独自の「社会的共通資本の理論」を提唱しました。「社会的共通資本の理論」とは、一言で言うなら「カネよりモノ」という発想です。自然環境、社会インフラ、教育、医療など公共のものを中心に、社会を管理・運営する理論なのです。この理論を通じて、市民が豊かで幸せに暮らせる安定した社会とは何であるかを考えます。

わりと少人数なので、いろいろ質問とかしたい人には向いていると思う。上のリンクから申し込んでほしい。

 さて、久賀道郎『ガロアの夢』の話に移ろう。

 

これは、専門的な数学書なんだけど、そのスタイルがかなり特異なのだ。通常の専門書とは全く違う書き方をしている。それは目次にも端的に表れている。次のようなあんばいだ。

数学以前のことなど(第0週~第3週)

エイヤーッとひっぱってみる(第4週~第7週)

奥さんがとり替わってもわからない紳士たち(第8週~第11週)

人はしっぽをもっている(第12週~第13週)

ガロア理論を目で見よう(第14週~第15週)

解けるか、解けぬか(第16週~第19週)

さよならはHATTARIのあとで(第∞週~第∞+1週)

この章タイトルを眺めるだけで、その異色さと久賀先生の才気が見て取れる。この目次では何の本かわからないだろうから、簡単に説明すると、要するに「ガロア理論」の本だ。ガロア理論とは、「高次方程式が四則計算と累乗根だけで解けるかどうか」を解明した理論で、おおざっぱに言えば、「解を入れ替える群」の複雑さに依存する、というものだ。本書は、そういう「ガロアの定理」を解説しているわけでなく、「ガロア理論の微分方程式への応用」を解説したものである。例えば、与えられた微分方程式が「四則と1次結合」「微分」「不定積分」「exp作用素」だけを有限回ほどこした形で解けるか、というような問題を目指している。

異色なのは、もちろん、章タイトルのユーモアだけではなく、数学の解説の仕方そのものにある。一言でいうなら、「厳密な数学的表現を捨てて、直感的イメージだけで進めていく」というスタイルで書いているのである。とりわけそれは「位相」が関係する部分に顕著である。「位相」を勉強したことがある人の多くが経験していると思うが、理解するのにはすごい努力が必要である。例えば、「連結」とか「連続写像」とか直感的には当たり前に思える概念が、非常にしちめんどくさい方法で定義されており、たくさんの人々が挫折を余儀なくされる。それに対して久賀先生は、その「直感的には当たり前に思える」イメージを使って解説しているのである。

例えば、「連結」については、

領域(すなわち陸地)Dのどんな2点P,Qを選んでも、Pを始点、Qを終点とする曲線をDの中にえがくことができるとき、領域Dは連結であるという、すなわち陸地Dの任意の1地点Pから他の任意の1地点Qまで人が歩いて(泳いだり、ジャンプしたりせずに)行けるとき、Dは連結であるというのである

という具合。また、「基本群の例」のところでは、

領域Dが全平面から1点P0を取り除いたものである場合を考える。海はなく1点P0に無限に小さい湖はあるだけなのである。いかに小さくても湖は湖であるから、既約にしたがい、P0をまたぎ越してゴムでできたレールを移動することは禁じられているのである。そのことが考えにくければ、点P0に天までとどくクイが打ってあると考えたらよい

みたいに解説が始まっている。

このようなイメージ的な書き方は、ありがたい人とそうでない人に分かれると思う。実際、本書の解説は数学者の飯高茂先生が書いているのだけど、次のような回顧をしている。

私は1961年に微積分の講義を久賀先生からきいた。私は高木貞治著『解析概論』に毒されていたので、極限の定義すら厳密に述べないで直感に頼る久賀式講義に馴染めなかった。

飯高先生が書いた数学書にチャレンジしたことがあるので、その印象から想像するだに「そうだろうなあ」と思う。でも、世の中のみんなが飯高先生のような天才ばかりではない。「厳密な数学的記述」にはついていけない人も多い。そういう人には、久賀先生の本は救いになる可能性がある。ただし、それゆえ「厳密に理解したい」と思ってはいけない。あくまで、「そういう感じなのかあ」とずんずん読み進んでいかないとならない。

ぼく自身は、この久賀先生の本が「数学力のリハビリ」になった。この本を読破したことで、数学的概念をどのように具体的なイメージにすれば良いのかを会得することができた。それをバネにして、経済学(というか意思決定理論)の論文を書けるようになった。さらには、いくつかの啓蒙書を久賀流で上梓することができた。例えば、『完全版 天才ガロアの発想力』技術評論社とか『数学は世界をこう見る』PHP新書とかである。今も、ある本の企画について、この久賀流を試してみようと準備している。久賀先生はそういう意味で、ぼくの「恩人」みたいなものだ。

宇沢先生と夕方の蕎麦屋でビールを飲んでいるとき、久賀先生の話をする宇沢先生は本当に楽しそうな顔をしていた。数学科に所属していた頃の感覚に戻ってしまうのだろうと思った。久賀先生がアメリカに旅発つ前日、宇沢先生が一人でお祝いしてあげたと言っていた。それには(ほんとか嘘かわからない)ちょっといわくがあるんだけど、そのネタについてはここには書けない。墓まで持って行く(笑)。

とにかく、久賀道郎『ガロアの夢』が文庫になったのは、まことにめでたいことである。筑摩書房はほんと、いい仕事をしている。

 

 

 

石川経夫『所得と富』

今回も引き続き、拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書の販促をしよう。これまで、これとこれとこれでもすでに販促のエントリーをしている。

ついでながら、「早稲田大学エクステンションセンター」が提供する市民向け講座でもレクチャーをするので、先にそれをアナウンスしておく。

宇沢弘文の社会的共通資本を考える | 小島 寛之 | [公開講座] 早稲田大学エクステンションセンター

レクチャーは今年の2月に3回行われる。内容の要約は以下である。

宇沢弘文は日本を代表する経済学者で、ノーベル経済学賞に最も近いと言われていました。主流派の経済学で多くの業績をあげたあと、制度学派という分野において独自の「社会的共通資本の理論」を提唱しました。「社会的共通資本の理論」とは、一言で言うなら「カネよりモノ」という発想です。自然環境、社会インフラ、教育、医療など公共のものを中心に、社会を管理・運営する理論なのです。この理論を通じて、市民が豊かで幸せに暮らせる安定した社会とは何であるかを考えます。

時間に余裕があり、宇沢先生の理論(or思想)に興味や共感のある人は是非、参加していただければ幸いである。

 さて、今回は、ぼくのもう一人の師匠である石川経夫先生について書こうと思う。石川先生は宇沢先生の愛弟子であり、ぼくの修論の担当教官だった人だ。あまりに悲しいことに、51歳の若さで亡くなってしまった。

石川先生の思い出について、拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』帝京新書から引用しよう。

宇沢氏の薫陶を受けて一念発起し、経済学研究科の大学院を私は受験しました。経済学部出身ではない私には、口頭試験は鬼門です。少し専門的な質問をされて答えに窮しました。試験官は3人で、一人が石川氏でした。他の二人から厳しい質問が続き、私は硬直しました。助け船を出してくれたのが石川氏でした。私が宇沢氏のことを書いたエッセイについて、石川氏が唐突に質問をしたのです。そのエッセイは私が当時勤めていた塾のテキストに掲載したものでした。石川氏がそのエッセイを読んでいたことに私は驚愕しました。その場で理由を尋ねると、「宇沢先生に読ませていただいたので」と柔らかな表情で答えました。エッセイは私が宇沢氏に郵送したものでした。石川氏のひと言をきっかけに私は気持ちを立て直すことができました。自分が経済学を知らないことは仕方のないことだ。宇沢氏に教わったこと、宇沢氏にもらったテーマについて真摯に説明するしかない。そう覚悟を固めたのです。

運良く大学院に合格した私は最初から石川氏に師事することを決めていました。

このエピソードは、実は、以前にもこのブログにエントリーしたことがある。そこにはもう少し詳しいことが書いてあるので、興味があれば読んでいただきたい。また、石川先生のお人柄がしのばれる別のエピソードは、拙著『確率的発想法』NHKブックスのあとがきにもあるので、それも参照していただきたい。

 今回は、石川先生の名著『所得と富』岩波書店を紹介したい。なぜかというと、ぼくはこの石川先生の本で初めて、ジョン・ロールズ『正義論』を知ったからだ。ロールズの格差原理「社会的・経済的不平等が許容されるとしても、それは(a)最も不遇な人々の利益を最大限に高めるものであり、かつ(b)職務や地位をめぐって公正な機会均等の条件が満たされる限りにおいてである。」は、ぼくが経済学者になったあとで最も衝撃を受け、最も感動し、最も影響を受けた理論だ。『所得と富』を読んだことで、石川先生の言葉で格差原理を学び、いつのまにか目に涙があふれていた。経済理論(or思想)で涙を流したのはこれだけである。このときには、既に石川先生が亡くなっていたので、その影響もあったと思う。石川先生の解説はまるでロールズが憑依しているかのように感じられたのだった。拙著『シン・経済学~貧困、格差および孤立の一般理論』の最終章は、正義論の解説と自分なりの理論拡張にあてている。

『所得と富』は、所得分配の経済学を中心に書かれたすばらしい本だ。「はしがき」には次のような一節がある。

本書には2つの主題がある。第1に、労働市場における雇用と所得の決定の理論、第2に、物的な富の蓄積と、その分配の時間的推移をめぐる理論である。

また、次のようなことも述べている。

筆者にもひとつの意見がある。それは、人々の豊かさの感覚を規定する要因としては基本的な生活保障や生活上の余裕を支える物的環境の質ーー広い意味での所得の水準と言い換えてもよいーーだけでなく、そもそも所得を生み出すプロセス、あるいは人々が労働する過程自体の質もあるのではないかということである。人間は、生活時間の主要な部分を労働にあてているからである。所得の水準の高さと所得を生みだすプロセスの貧困さの間の不釣合いも、前記の要因と並んで、あるいはもしかするともっと重要な要因として存在するのではないだろうか? 労働のプロセスの豊かさをどのように概念規定するか、それは本書の全体を流れる伏線的主題である。

本書は、1991年刊行だが、この「所得の水準の高さと所得を生みだすプロセスの貧困さ」という問題は、今の労働環境について、もっと切実にあてはまるように思える。

 ぼくは大学院に合格してすぐ、エッセイのことを話してくれた試験官の名前を調査し、石川経夫先生だと突き止めた。そして、すぐに『所得と富』を買い求めた。大胆にも、1ページも読まないうちに、石川先生の研究室をアポなし訪問して、この本にサインをお願いしたのである。もし、中身について感想を求められたらと考えると、我ながら恐ろしい行動だったと思う。でも、石川先生は快く、サインをしてくださった。そればかりではない。「宇沢先生とお親しいのだから、私から献本するのが筋です。もう、お持ちなので、せめて代金を払わせてください」と言って、お財布から小銭を出してテーブルに並べはじめ、代金を頂戴してしまった。こういうところにも、石川先生のお人柄がにじみでている。

 サインには、ただ「石川経夫」とだけある。でも、このサインを見るだに、涙が溢れ出るとともに、学問と向かい合う勇気もみなぎってくる。なぜなのかについては、拙著『シン・経済学』で読んでいただきたい。

 

 

 

 

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