そういえば、日記を書くというのは「何を書かないのか」ってことを決定する作業なのかもしれない、ともおもう。前に書いたハリエットの話を読んだ後10年以上たっても覚えていたのは、たぶん昔日記に書いていたからで、自分の記憶に残すものを、日記を書く、って作業の中で選別しているところがあるのかもしれない。つまり、いまみたいに、いかにも適当にキーボードを打っているつもりでいるこの瞬間にも、俺は「何を書かないのか」ひたすらに決定付けているわけだ。
何を書くか、っていうのは明らかに「これについて書きたい、言いたい」という主張であるけれど、何を書かないか、っていうのもそれと同じくらい大きな主張なはずだ。まあ、あたりまえのことだけれども、なんだかそれってちょっとふしぎな感じがする。
なんてことをかんがえたのは、今日、中上健次の『夢の力』というエッセイ集を読んでいたからで、そこに収録された「心の滴」に、日記を書くことについての文章があったのだ。中上がニューヨークで1ヵ月ほど独り暮らしをしていたときのこと、ふだんは日記など書く習慣はないのに、このときばかりは日記をつけていたのだという。中上はその、自身の日記を引用した後に、こう書いている。
やった事の大半が抜け落ちてもいる。映画をよくみたし、ミュージカルも、ピープショップなる25セント入れれば三分ほど、好みのポルノを見られる店に入ったことも抜け落ちている。マリファナ、コケイン、マッシュルームを売るアイルランド系ユダヤ人に出会った事も書いていない。なんでもみてやろう、という気はあるし、実際臆せず、ハーレムの中をうろうろして、好んでアフリカ風の食い物屋に行ったが、自分の書いたものをこう書き写してみると、日記とは、<書かないために書く>ものだと思うのである。
<書くために書く>日記とは、つまり探検記や、探訪記に似てくる。/<書くために書く>日記とは、文学の一つの原型でもある。
本当を書こうと思えば思うほど嘘がまじるから、心の滴のようなものをしたたらすか、それとも、いっそ嘘を承知で書き込んでいくかである。(p.133)
<書くために書く>のではなく、<書かないために書く>。人の日記を読んでいておもしろいのは、書かないために書いているなかで、どこかでぽろっとその人の心の滴のようなものがしたたり落ちるのが見えるような、そんな気がするからなのかもしれない。なかなか人には(あるいは自分にも)見せないような部分、隠そう隠そうとおもっている部分をきっとみんなどこかに持っていて、でもそういう部分が一瞬だけ崩れ落ちて見えるような瞬間があるようにおもえるから、なのかもしれない。
そんなことをかんがえて、自分のエントリーをいくつか読み返してみたのだけど、ダメだなーとおもった。この日記は本や映画の感想が大半になっているけれど、自分のそれを読んでも、読んだり見たりしていたそのときのこころの動きが感じられないっていうか。ダメだなー俺、とおもいつつも、でもまあ、やっぱり、もっと書いていくしかないかなー、ともおもう。
そうそう、ブコウスキーは『死をポケットに入れて』で、こんなことを書いていた。
ものを書く時は、すらすらと書かなければならない。稚拙でとりとめのない文章になってしまうかもしれないが、言葉がすらすらと流れ出ているのであれば、書く喜びから生まれる勢いがすべてを輝かせてくれる。慎重に書かれた文章は死んだ文章だ。(p.122)
あー、そうかもしれない。いや、ほんと、そうだよなー、とおもう。
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