京都朝鮮第一初級学校での騒乱事件

 web上でも情報が回っていますので、ご存知の方も多いかと思います。このたび、私もMLでメールをいただきましたので、紹介します。

 12月4日、京都の朝鮮学校の前で、在特会が抗議と称して騒乱事件を起こしました。次の動画でその様子をみることができます。(罵声を一方的に浴びせかける様子であり、発言内容も攻撃的なものです。閲覧にはご注意ください)
http://corea-k.net/date/000.wmv
 京都朝鮮第一初級学校には、グラウンドがありません。そこで、体育教育のために、学校の前にある公園を、最低限の資材を持ち込んで利用していました。地域住民はもちろん、京都市側も黙認してきたことです。ところが、ここに在特会が公園を「不法占拠」しているのだと、トラメガを持って押し掛けたのです。「門を開けろ」と強く迫り、「北朝鮮へ帰れ」等の罵声を浴びせています。朝鮮学校の子どもたちは当然おびえますし、中には泣きだす子どももいたようです。
 保護者の一人である金さんは、朝鮮総聯へのメールを通して、次のような問いかけをしています。*1

私はこの問題が一部のレイシスト集団の問題ではなく、それを許容する日本社会の“良識”を問いたいです。
たしかにこのような集団は日本人の一部かもしれません。
“日本人は悪い人ばかりではありません。信じてください”とおっしゃりたい方もいるでしょう。
そういう意味では日本の方々も被害者かもしれませんが、今回の問題の本質ではありません。

明確にこのような事態が起こったことは、これが許されたことになると思います。

いまこそ“日本社会の良識”にとうべきだと思っています。

金さんの問いかけはもっともです。こうした在特会の行為は、あってはならないことです。それが起きることを許すような社会を放置してきた、すべての「日本人」が問われなければなりません。「私は別に差別しないけど」とうそぶくことは、こうした差別を温存し、在特会が出てくるような地盤を作っているのです。
 多くの「日本人」は(私も含めて)差別しないふりをすることができます。たとえば、民族学校において、十分な教育設備を整う資金を確保することが難しいこと。京都朝鮮第一初級学校が公園を利用するのは、グラウンドがないからです。なぜないのでしょうか。
 朝鮮学校は、民族教育のために在日一世が血のにじむ思いで奔走して確立してきました。その間、日本政府は民族教育を望む人たちに、なんの補償もしてこなかったのです。とりわけ在日朝鮮人・韓国人の人たちが、日本に住んでいる背景には、日本による朝鮮半島の植民地支配の歴史があります。彼らが、望んで朝鮮半島から日本に来たとしても、望まざるをえない状況を作った責任は、日本にあるのです。しかし、日本政府はこれまでその責任を十分に果たしてきていません。
 京都朝鮮第一初級学校が公園を利用している現況は、過去の日本の植民地支配とつながりを持っています。「いま、グラウンドがないから、グラウンドをあげましょう」といって解決する話でもありません。京都朝鮮第一初級学校を、グラウンドがない現況に追い込んできたのは、在特会ではありません。自分たちはグラウンドがあることを、当たり前に享受してきた「日本人」です。*2多くのその特権を当たり前に享受する「日本人」は、在特会に眉をひそめるでしょう。ですが、今回の金さんが問うているのは、その「日本人」の「良識」です。どうして、その良識を持って社会を変えてこなかったのでしょうか。その理由は明白です。多くの「日本人は、眉をひそめるだけで、差別を放置するからです。そして、自分はグラウンドがあることが当たり前だ、という位置から降りないからです。「グラウンドがないかわいそうな人達がいる」が反転すれば、「グラウンドが欲しいなら、北朝鮮へ帰れ」となります。両者は同じく、「グラウンドがない彼ら」と自分を切断してしまいます。むしろ、グラウンドがない、ということを通して、すべての「日本人」と民族学校は接続されるはずなのに。


 id:kiimikiさんは、この件について、強い怒りを持ったといいます。ですが、次のように振り返っています。

今回改めて思ったこと。「在特会」は、かなり象徴的だと思うが、それに対する私つまるところ日本人の「怒り」というものは、一体何なのかということ。

 何に対する「怒り」で、誰のための「怒り」で、何のための「怒り」で、何を守るための「怒り」なのか。

 私は今まで何に対して「怒って」いたのだろうか。

 もちろん、当事者を代弁できるはずもない。確かに、日本人として恥ずかしいからというのはあるが、私は彼らとは違うってことを証明したいという欲望だったのではないか。真意は、当事者にそれを示すための「怒り」ではなかったのか。

 それは、ほんとに傲慢で、エゴで、マッチョな姿勢だった。先述したように、彼らと私は同類。「日本人として恥ずかしいから」というのも、逆を返せば、ナショナリズム的だしね。

 では、私の「怒り」はどこに向かえばいいのか?その「怒り」は、どうあるべきなのか?「当事者」でない私は、この問題にどう携わるべきなのか?

kiimiki「私の『怒り』とは?」
(http://d.hatena.ne.jp/kiimiki/20091208/1260279562)

kiimikiさんは、在特会への怒りが、「彼らとは違うってことを証明したいという欲望」ではなかったか、と自らに問いかけます。この欲望を持つ「日本人」は、先に引用した金さんの「“日本人は悪い人ばかりではありません。信じてください”」と訴える日本人像に近いかもしれません。在特会に対して、当事者と一緒になって怒ることへの警句にもなっています。「日本人である私たちも怒っています」と言うことの危険性です。
 同時に、kiimikiさんは、自分の中にある「私の『怒り』」を問います。「私は怒っている」ということは間違いありません。その感情は、意図的に作られたものではないのです。ですが、それは単純な「在特会が悪だから」という理由の怒りではないかもしれません。そうなったときに、<私>は「私の『怒り』」を再度省察してみなければならないのではないか、kiimikiさんはそう問いかけます。
 「日本人」が在特会に対峙するとき、陥る罠がたくさん仕掛けられています。「日本人だろうが朝鮮人だろうが暴力はよくない」「日本人だけど怒っています」そうした、一見、反差別に聞こえるような在特会への批判の中にこそ、入り込んでくる欺瞞があります。
 在特会の行っている暴言を吐く行為を決して許してはなりません。「日本人」こそが、在特会を批判しなければなりません。行動に出なければなりません。ですが、そうなったときにこそ、見えてくる自分の「日本人」としての意識があります。私自身、在特会に対して怒っています。ですが、その怒りに呑み込まれず、「日本人」である自分を批判的に捉えていかなければならないと思っています。


 以下、送っていただいたメールです。

【複数送信・転送大歓迎】朝鮮第一初級学校での騒乱事件について

 いつもお世話になります。朝鮮総聯京都国際部の李東一です。先週の12月4日金曜日、京都の朝鮮学校を襲ったある事柄について、以下のようなメールを頂                                                       多くの方に、先ずは”事実” ではなく真実を知って頂くことが重要ではないかと思い、転送するものです。                           年の瀬が近づく慌しい時期、寒さも募りますが、ご自愛下さい。(お知り合いの方々に、転送して頂いて結構です。)
*****************                                                              皆様

私は朝鮮第一初級学校に二人の子どもを通わせている
保護者の金と申します。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが
先日4日に名前を言うのも忌まわしいようなレイシスト(人種差別)団体が京都朝鮮第一初級学校のすぐ前で騒乱を起こしました。

http://corea-k.net/date/000.wmv

今まで生きてきてこんな腹立たしく悔しい思いをしたことがありません。

学校の前で子どもたちに聞こえるように“スパイの子どもたち!”“朝鮮学校を日本からたたきだせ!”などと人として信じられない暴言を拡声器の爆音をもって騒ぎ立てました。

子どもたちはおびえて、中には涙を流すこどもたちもいたそうです。

私が悔しい、腹立たしいと思ったのは、何もその団体に感じたことではありません。
朝鮮語のことわざに“糞を避けるのは怖いからで無く汚いからだ”という言葉があります。

私が本当に許せないのはこのような事態が許されている“この社会の規律と良識”に感じています。

当日警察も子どもたちがおびえてるにもかかわらず“自分たちは間に入っている立場”とし制御しようともしない。スピーカを校門のまん前で校舎に向けて騒いでるにもかかわらず禁止させない。

これが言論の自由ですか?法や警察はこどもを守ってくれないというのがむなしくてたまりませんでした。

自由使用の公園なのにも関わらず“不法占拠”とののしり、地域の方々も使っているゴールポストを動かしたり、利用する子どもの安全のために設置されたスピーカーの線を切り、朝礼台と一緒に校門前に投げつける暴挙。
器物破損ではないのですか?強制執行は一般市民に権限があるのですか?

子どもたちがおびえ、泣いているのに脅迫罪ではないのですか?
そこにいる個人や団体を誹謗中傷し侮辱罪ではないのですか?

日本は多くの先進国が批准している人種差別撤廃条約に加盟してないから許されるのですか?

そこに駆けつけた私たちは声がかれるまで警察に訴えたのに取り合ってくれませんでした。

私は学校に駆けつける前に、某大学で人権教育の招かれ、“人権とこどもの学ぶ権利”を物知り顔で語っていました。
このときほど“人権と子どもの学ぶ権利”が虚しく聞こえたときはありません。

私はこの問題が一部のレイシスト集団の問題ではなく、それを許容する日本社会の“良識”を問いたいです。
たしかにこのような集団は日本人の一部かもしれません。
“日本人は悪い人ばかりではありません。信じてください”とおっしゃりたい方もいるでしょう。
そういう意味では日本の方々も被害者かもしれませんが、今回の問題の本質ではありません。

明確にこのような事態が起こったことは、これが許されたことになると思います。

いまこそ“日本社会の良識”にとうべきだと思っています。

いままで本当に悔しい思いをいっぱいしてきましたが、もうたくさんです。
今後このような事態が起こったとき、また私たち朝鮮人は門扉の前で歯を食いしばり、血の涙をのみながら我慢に我慢を続けないといけないのでしょうか?

正直に今回子どもたちに“守ってやれなくて申し訳ない”との考えが頭を離れず夜も悔しくて眠れませんでした。

無くなった祖父母や一世たちが空の上からこの事態を見ているならば、どんな思いをしてるでしょうか?
自分たちの曾孫までもこんな仕打ちをされているのかと嘆き苦しんでいるでしょう。

長々と書きたて、最後まで読んでいただきありがとうございます。
もうこのような事態が起こらぬよう皆さんどうかこの社会を良識とあるべき姿を考えてください。。。

*1:全文は下部にあります。

*2:私自身、最近まで民族学校の学校設備費が足りていないという切実さを知りませんでした。補修を重ねたり、ベルマークを集めたりしながら、いまある設備を大切に使っているとの話を聞き、自分の無知を思い知ります。