僕は自殺というのは自己分裂じゃないかと思っている

 自分は生き延びているから違うかもしれないし、自殺というのは結果であって、プロセスは多様かもしれないし、それをいうなら同じプロセスでたまたまダセーで生きていることもあるかもしれない(俺っぽい)し。
 でも。
 僕は自殺というのは自己分裂じゃないかと思っている。
 「僕は死ぬ」というのじゃなくて、分裂した自分が「死ね」と言っているのだと思う。そのボリュームを下げるとなんとか生きられるというか、そもそも他者が示した死を僕は確信できないんだよね。
 分裂した自分というのは、いちおう無意識といってもいいのだろうと思うけど。
 けどというのは、ネットとかやっていて、死ね死ねよく言われるのだけど、それも、結果的には自分の無意識と同質のプロセスなんじゃないかと思う。
 ある人は別の人の死の分裂を引き受けるというか。
 引き受けさせてしまった私のカルマは深いというか。
 生きるというのは、してみると、ダセーでなければ、統合ということになるのだけど。
 たぶん、それは自力では無理なんじゃないか。
 というのが青春をかけた自分の神学的追求の根幹でしたね。
 ティリヒはある意味でそれを存在への勇気とも言ったけど、彼は恩寵を根においた。
 僕がせいぜい言えるのは恩寵というか奇跡というのものがあれば人はその分裂から救われるかなくらいだろうか。
 あと。
 プラクティカルには、自殺の予防の基礎なんだけど、自殺が自己表現的な部分である場合は、ようするにコミュなんですよね。
 ただ、結果自殺された人がいると、ああああ俺はコミュ失敗だったのかと自責の連鎖になってしまうのは違うけど、コミュをどう受け止めるかは自殺予防の基礎テクなんだろうけど、ただ、あれ、そこまでコミュを受け入れられる人って少ないと思う。
 人間どっかに分裂はもっているし、どうも分裂の力というのは統合の力の一体かもしれないので、生きることそれ自体を信仰的に善と受け入れる困難さと同質の難しさがある。
 ただ。
 こうしたプロセスのなかで、悪というのはあると思う。
 悪というのはこのプロセスにおいては勝利なんだと思う。げろっと結論に飛躍すると、自殺が勝利であるような陶酔において悪魔が現れるのだろうと思う。死の勝利というか。
 椎名麟三は、復活のイエスとはユーモアだと言った。今ふうに言うと……だからさぁ、俺、死から復活したわけよ、信じないわけ、ほれ、スネ毛だってあるじゃん。刺されたところ、ほら傷残っているじゃん。さわってみ。何、俺が幽霊? おい、その焼き魚くれ、食うから……むしゃむしゃ。
 椎名麟三は復活のイエスに笑った。そして生きた。復活のイエスを彼は信じた。もっとも、それですべての苦悩が終わったわけではないのは、赤岩栄や田川健三の物語があるにはあるけど。

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私の聖書物語 (中公文庫BIBLIO): 椎名 麟三