「核変換」抜きの原子力は未完成な技術

原発をどうするかについて考えるには、当然のことながら、まず現状がどうなっているかを正確に把握することが必要だ。そして、その「現状」の一番重要な、基本となるポイントは、原子炉の状態だ。福島第一原子力発電所の、一号機から三号機の原子炉の中の溶けた燃料は、今いったいどうなっているだろうか。

炉心の中のあるべき正規の位置にはもう燃料が無い、ということだけは、どうやらはっきりしているようだが、それ以上の所は誰にもわからないらしい。

可能性としては、およそ以下の4通りがある。

  1. 圧力容器の中
  2. 格納容器の中
  3. 格納容器を溶かして格納容器を飛び出している
  4. 冷却水の中に溶け出して、建屋の地下等の汚染水の中にある

しかし、この中のどれかはわからない。複数の場所に分散しているのかもしれない。

燃料の位置もわからなければ、状態もわからない。溶けた燃料がひとつに固まっているのか散らばっているのか、それとも粉状になってバラバラになっているのか、あるいは水の中に溶けてしまっているのか。

私は、事故が発生してからずっとそれを追いかけているが、結局、わかってきたのは、誰にもそれについて確かなことは言えないということだ。

そうなると不思議なことは、現状を把握できないのに、世間ではいったい何を議論しているのか、ということだ。

「現実的に」とよく言われるが、現実とは、何より燃料の状態であって、その現実について誰にも確かなことは言えないというのが本当の現実だろう。一番底の現実が不確定なので、その上に何を積みあげても机上の空論だ。

こういう時の一つの定石は、可能性の中の最悪のケースを想定して、そこから考えるということだ。この場合、最悪のケースは二通りある。

ひとつは、溶けて固まった燃料が再臨界を起こすということだ。かなりの人が誤解しているようだが、燃料が冷えたということは、直接的には再臨界の可能性に変化をもたらさない。再臨界は核反応で、化学反応のような発火現象ではないので、温度には依存しない。ウラン235の濃度と散らばり具合(形状)が一定の条件を満たせば、どんなに温度が低くても再臨界は起こる。

温度が低い方が燃料の濃度や形状についての不確定要素が少なくなるという間接的な意味はあるが、それを管理できない限り、温度が低くても再臨界は起こる可能性は常にある。

もう一つは、超高濃度の汚染水が、あふれ出たり、地下に浸透することによって、原子炉や燃料プール周辺が汚染されて、作業ができなくなることだ。燃料の大半が溶け出しているとしたら、再臨界の可能性は低くなるがその代わり、こちらの危険性が高くなる。

どちらの可能性も低くはない。特に、これから、配管の劣化によって不測の事態が起こる確率は高くなる。配管は、海水の塩分やホウ酸等によって、設計時の想定にないような速度で腐食が進んでいるし、これからも進んでいく。注水できなくなったり、汚染水が飛び出してくる可能性は充分ある。

「最悪ケースを想定」という定石に従うとしたら、作業員が撤退して、野ざらしの核燃料が放置されるという状況を想定しておくのは、空想的な話ではない。

それで、原子力発電所で深刻な事故が起きたケースとして、これが特殊な事例になるかと言うと、そうは言えない。燃料が溶けて燃料棒から出てしまえば、ほぼ必然的にこのような事態になる。むきだしの使用済み燃料には触ることもできない、近づくこともできない。自己崩壊を始めた原子核を無くすることはできないのだ。

研究レベルでは「核変換」という技術があるが、これが実用レベルに到達しない限り、本当の意味での「除染」ということはできない。つまり、全体のベクレルの数値を人為的に減らすことはできない。

「放射能浄化装置」というのは不正確な表現で、原子核レベルでは、何をどうやっても放射性物質(不安定な原子核)が消えることはない。不安定な原子核を含む別の分子を形成しその特性を利用して別の場所に移動することはできる。それは危険な放射性物質を移動しているだけで、ベクレルを減らす技術はまだない。

仮に、汚染水を浄化できたとしたら、それは放射性物質が消えたわけでなくフィルターに全部集ったということだ。それができたら(それはそれで凄いことなのだが)、フィルターの発する放射線が生の使用済み核燃料に匹敵するレベルになり、その「浄化装置」そのものが近づくことができない危険物質になる。事故の経緯はどうあれ、最終的に撤退して放置に至るというのが、一番蓋然性が高い。

結局、「現実的」に考えると、「核変換」が完成するまでは、原子力発電は到底、完成された技術とは言えないということだろう。

原子力発電は、良い悪いを議論できる前の段階なのだと私は思う。燃やしてるうちは調子がいいけど、燃やした燃料をどうしたらいいのかわからない、と言われて、それを評価せよと言う方がおかしいのだ。

私は原子力推進論者である。これほどクリーンで効率的な技術はない。ただ物事は正しい順序で推進すべきだと言いたい。まず「核変換」を完成させて、トータルのライフサイクルができあがあったら、原子力発電を積極的に広めていくべきだと思う。

ただ、原子力に限らず、完結してない技術を実用化すべきではないと考える。これは特異な思想ではない。そもそも思想と呼ぶような、たいそうなものではなく、ごくごく常識的な考え方だと思う。

今、我々が直面しているのは、そのあたりまえの常識に従わなかったことの当然の結果だ。

事故が絶対起こらないというのは空想的な考え方だ。そして、これだけ大規模な事業が理想的に運営されるというのも空想的な発想だ。世の中にはバカもいれば、悪い奴もいれば、強欲な奴もいる。手抜きをする奴はたくさんいる。それが現実というものであって、その現実の中でも運用できるのが現実的な技術だ。

イザという時に、多少コストがかかっても「核変換」ということが可能ならば、みんなでそれを負担して後始末すればいいだろう。そういう原子力発電なら大歓迎だ。

しかし、現実には、事故があった核燃料を処置する技術を我々はまだ持っていない。今回の事故は、その未解決の部分から来る必然的な結果だ。

我々は間違った線路の上をずいぶん進んできてしまった。ここからどう引き返すのかは難しい問題だ。今さら発電を止めても、使用済み核燃料を無かったことにはできない。引き返す手順や道筋はいろいろな可能性があるし、問題点も多く議論があって当然だと思う。私は今の所、それについては、これがいいというような強い意見を持ってない。

しかし、このまま進んでいけるというのは、つまり、「核変換」抜きで、サイクルが完結してない原子力発電という技術をそのまま進めていこうとするのは、空想的で非現実的で非常識な発想だと思う。

現実に逆らったって勝てないよ。