ハヤオの息子学序章

宮崎吾郎は苦労人である。彼の経歴を見ればそれは簡単にわかる。彼は「ハヤオの息子」という難しいポジションに30年以上いるのである。

たとえば、普通の人が尋常でなく絵がうまかったら、「すごいねえ。絵うまいねえ」と言われる。しかし宮崎吾郎がうまい絵を書いても、「吾郎さん絵うまいね」と言う人はいるかもしれないが、心では「ハヤオの息子の癖にこんなもんか」と思っている。

あるいは、誰かが会社を起こして何億も稼いだら、「すごい男だ」と言われる所だが、ハヤオの息子が数億稼いでも「ハヤオの息子の癖にこんなもんか」と思われる。ジブリの興業収入くらい稼げば多少は認めるかもしれないが、「しかし奴には元手があるからな」くらいは私だったら思うと思う。

サラリーマンになって受注を取ってきても合コンで一番モテてもブログで面白いことを書いても、何をしても彼は「ハヤオの息子だから」と言われ続けるのだ。そして、彼が「ハヤオの息子」でなくなる方法は無い。絶対的に無い。

もし、「ハヤオの息子学」という、ハヤオの息子に起こることを予想したり研究したりする学問があったら宮崎吾郎は文句なく第一人者だろう。

そして、私には「ハヤオの息子学」の素養は無いけど、それでも当然、ハヤオの息子がアニメをやったら何を言われるか多少は予想できる。それは、「ハヤオの息子学」の素人でも、簡単に予想できることだ。

まして、「ハヤオの息子学」の自他共に認める第一人者の宮崎吾郎氏である。ハヤオの息子がアニメをやったらどうなるか。芸術的に成功して興業的に失敗した場合、あるいはその反対、あるいは両方成功した場合とどちらの面でも失敗した場合。それぞれにおいて、過去のジブリの実績に迫る場合、上回った場合、一般的には大成功であるけどジブリ的にはいまいちである場合。どういうシチュエーションを想定しても、ハヤオの息子にどういう災難がふりかかるかについて、宮崎吾郎には事前によくわかっていたのだと思う。世界で一番そのことに詳しい男であるはずだ彼は。

だから、彼が「あえて」それをすることの意味は、「ハヤオの息子学」をふまえての「あえて」を前提としないと理解できない。

自分がどれだけの作品を作るか、それがどのような評価を受けるか、それは彼には予想できない部分があったかもしれない。しかし、何をどうやって何が起こっても「ハヤオの息子の癖にこんなもんか」と言われることは覚悟していたはずだ。

「あえて」彼はそのポジションに身を置いたのである。

そこから見ないと「ゲド戦記」の中に見落してしまうものがあると思う。

ル=グウィンでさえもそこがわからないくて見落している所があると思う。

私は宮崎氏に、最初の2冊の間の10〜15年くらいの期間を使っては、と提案しました。私たちは、その頃ゲドがどうしていたのか、大賢人になったということ以外には知りません、宮崎さんはいくらでも好きなように作っていいですよ、と。(私は彼の他の誰にも、こんな提案はしていません。)

これは「自分の大事な物語をぶち壊すくらいなら、このアイディアを使えばよかったのに」という暗黙の批判だと思うが、物語を作ることが、与えられた空白を埋めるだけですむことで、創造的破壊が不要なものだったら楽なものだ。

まして、ハヤオの息子がハヤオから相続したスタジオとスタッフを使って、もともと物語に残されていた空白を埋めたとして、そこにどういう意味があるのか。

ル=グウィンが「動機がなく、身勝手」と呼ぶ「父殺し」からはじまって、その謎が解かれないまま主人公がそれを背負って終わる所にこの物語の意味がある。

「スタジオジブリ宮崎吾郎第一回監督作品」がいきなり「父殺し」からはじまるのは、非常にベタだと思う。笑ってしまうくらいにベタだ。「ああ、あなたはやはりおとうさんを超える意思をまず明確にされたのですね」。国語の読解問題のようにベタだ。

でも、ベタに無防備に玉砕するしかないような大きなものに、我々はとり巻かれている。このベタは、時代的な意味を持つベタだと私は思う。

創造的破壊でなく創造的玉砕でないと表現できない困難を我々はかかえている。

ハヤオの息子でなくても誰でも今アニメを作れば、素人も玄人もよってたかってそれをハヤオと比較する。ハヤオと比較されることは現代を生きるアニメ作家の宿命だ。アニメ作家でなくて、別の職業であっても、そこにはその世界の「ハヤオ」がいる。それはアニメ作家だけでなく誰もが背負っている宿命である。あらゆるジャンルに「ハヤオ」のような圧倒的巨人が無数に存在し、ちょっとググれば0.03秒でそれらは全て召喚されてしまうのである。

だが、その困難を表現するのに最もふさわしい人間は本物の「ハヤオの息子」だ。「ハヤオの息子」が安易な道を選ばず、創造的玉砕をしたことには大きな意味がある。

そして、意外なことに誰より先にハヤオがそれを理解した。「素直な作りでよかった」という表現は、「ハヤオと比較されることを避ける為に無理をして表現を曲げてない」という意味だと私は思う。

ハヤオのそれよりはるかに平板でダイナミズムと神秘性に欠けるそのアニメに、実は私は結構、感動した。

我々につきまとう闇は、魔法の剣をふるうことでは打ち払うことはできないのです。 しかしこの映画では、悪は、簡単に殺すことですべて問題を解決できる、魔法使いのクモというワルモノとして、安直に具現化されました。

もちろん、そこかしこで、特にエンディングでは「あれ?」と思ったし、ここを読んだ時、私は「ああやっぱり原作者はそこが気になるか。というかそれは当然の正当な指摘だな。こんな風に話がきれいに完結したらそれはもう『ゲド戦記』ではない」と思ったけど、それでも不思議と感動は長続きした。

しばらく考え、その秘密はやはり「素直な作り」にあると考えて、私は納得し、それから「なんだハヤオのあのコメントは営業的配慮とかではなくて、本音の素直なコメントだったんだ」と驚いた。

「わかりやすい敵キャラとその排除」という問題と「白人顔」の問題、ル=グウィンが問題にする二つの問題は、「アニメのフォーマット」と「本格ファンタジー」の間にある葛藤である。既存の「アニメのフォーマット」をどう消化し、どう発展させ、どう裏をかくか。そこに大きなチャレンジが、かっては存在していた。これはル=グウィンが取り組んだ問題と相似形であって、長年の辛苦の末に道を切り開いた彼女にはそこを批判する権利はある。

しかし、物語から単純二元論的ラスボスを排除する方法は、もう辞書のように網羅的に発明されつくされていて、創造的破壊をする余地がない。誰かの敷いたレールにそって、既存のパターンを採用して物語から二元論を排除することは、もはや逃避なのである。

創造的玉砕となる「素直な作り」は、時代に重くのしかかる「ハヤオの息子」問題に対する圧倒的な正解だと思う。

そして、それによって、「影」に対するおびえとかテルーの気高さは、きちんと表現されている。特に、「影」に怯えるアレンの表情は、ふだんのアレンの平板でいかにもアニメ的な白人顔との対比で効果を生んでいる。

ラスボスの暴力的破壊という安易なハッピーエンドであったとしても、やはりこれは「ゲド戦記」だと私は思った。と同時に、自分がおかれている場所の意味をきちんと受け止めているひとりの「宮崎吾郎」という人間の「表現」として成立している。

宮崎吾郎を安易に批判する人間は、それこそ自分の「影」に怯えてるんじゃないの?

「ハヤオ」に取り巻かれている自分の状況を否認すると「影」が生まれ、自分の「ハヤオ」から逃げることで「影」は力を得る。その「影」は誰かに投影されて、その誰かを我々は冷笑し批判し、時に暴力的に抹殺しようとするが、その「影」とは何のことはない自分の姿である。宮崎吾郎は「あえて」その「影」として投影されることを引き受けて創造的玉砕を行ない、たくさんの人間が宮崎吾郎の顔をした自分の「影」をまんまと批判している。

ハヤオの息子は自分がハヤオの息子であることから逃げないことを正々堂々と宣言したのだと思うけど、あなたには、自分の前に立ち塞がるあなたにとっての「ハヤオ」とあそこまで素直に対峙する覚悟はありますか?