ロングテールな弱者共闘のコストの話とバックラッシュにメディアアウトで対抗しててOKな業界の話

なるほど、リベラルというのはたこつぼのロングテールだということか。ロングテールのちりを集めているのが民主党で、ヘッドで勝負をしているのが共和党、そう考えると分かりやすい。

このアナロジーを使うと、バックラッシュ論争のひとつのポイントは「弱者共闘の品揃えを増やすことのコスト」がどれくらいのものかという話になるのではないだろうか。

それが、Life is Survival @はてな - Masao さんとのやり取り 3にリンクされている、一連のエントリーにあらわれてきている。

こうして脱オタした僕は「強者」になることができました(少なくとも以前よりは)。これは僕にとって、とても嬉しいことでした。

でも同時に、僕はこうも思いました。僕が脱オタしたときにやった「自分改造」ってなんだったんだろう、と。

「改造」以前の自分は、確かに「若者男性らしく」はなかった。でも、それってそんなに「悪い」ことだったの?「若者男性の規範に乗る」ことは、そんなに偉いことなの?こんなに周囲の人間は、僕の「若者男性らしさ」を重視していたの?なんでこんなに周囲の(特に女性の)態度が違うの?

僕は心のどこかで、脱オタしたくらいで周囲の評価が変わるなんてことは、あって欲しくないと願っていたのだと思います。

でも現実には、そうはならなかった。脱オタにより「驚くほど生き易くなった」僕は、それと同時にオタクという「若者男性の規範に乗っていない存在」がどれほど酷く抑圧されているのかということを、身を持って知ることになったのです。

こうした体験を経て、僕の中には「『若者男性らしさ』という社会規範への抑圧」に対する、大きな疑問が沸いてきました。そしてそれが「ジェンダーという社会規範からの抑圧」への疑問へと変化し、さらには世の中の「社会規範に乗っていないすべての人々」への抑圧に対する疑問へと変化するのに、そう時間はかかりませんでした。

id:Masao_hateさんは、こういう個人的な経験から、「社会規範に乗っていないすべての人々」全ての共闘を呼びかけているのだけど、それに対して、id:kleinbottle526さんとid:macskaさんは、安易な共闘には利点より危険性が大きいと批判している。

配慮というものが、どうも Masao さんの文章を見ていると「仲間」とか「男女が」とか「連帯」とかいう言葉が多くて、なんか逆にその中の様々な差異に対しての配慮が考慮されていないように感じられます。連帯したらしたで、結局その内部で序列が出来るのがオチです。だってその中での権力差はあるんだもの。様々な立場の人がいるのだもの。僕の1つめの記事を見てもらえば分かる通り、いろいろな立場に何本も足を突っ込んでるのが人間。それを一気に1つの運動で解決しようってのは、タスクが多すぎるし、リスクは大きいし、タイムスパンも長過ぎる。だから、場に応じて対立したり共闘したりしながらも複数の運動体が一定の距離を保っていて、それをモデレータが調整する、という形が現実的。モデレータを誰がするのかということはもちろん問題になるけれど、いくつもの種類の被抑圧者が連帯して進めて行くときの意思決定の権力者を決めるよりはよっぽど簡単だろうし、安全だ。

つまり、共闘=一元化するということは、多くの運動がid:Masao_hateさんが言う「反社会規範」の元に一元化されることだから、その「反社会規範」という概念が、本当に全ての弱者をまとめる為に有効なものであるかどうか吟味されなくてはならないという話だと思う。

実際に抑圧されているのは「男」でも「女」でも「ゲイ」でもなく、「社会から求められるジェンダー規範に乗れない/乗りたくない人たち」ですよ。社会規範に乗れている人たちは、どんなジェンダーを持っていようと、抑圧なんかされていないんですよ。対立しているのは「男VS女」ではなく、「規範適応者VS非(不)規範適応者」ですよ。ここまでは、以前別館でも書いたとおり。

 なぜ「それではなく、これ」という話になるのか。「性別を理由とした抑圧」「性的指向を理由とした抑圧」「ジェンダー規範による抑圧」のうち、どれか1つだけが分析として正しいという論理的錯誤に陥っている。

残念ながら、記事の前半を覆っているあなたの過去の体験についてのストーリーは、あなたがどうして「社会規範からの抑圧」という広範囲なものを(例えば)「女性差別」という個別のものよりも重要視し始めたのかという点について説明できていません。

例えば一人の人が多数の抑圧に同時に晒されていて、中には可視化されてない抑圧があったり、うまいこと適応できているものもあったり、完全に適応できないものがあったり、あるいはアイデンティティの核になっているものがあったり、という複雑性がスッポリ抜け落ちている。その中で、様々な運動がバラバラにある背景には、自分が最もコミットしたい運動を選んでいたり、あるいは最もコミットしやすい運動を選んでいるというだけであって、他の抑圧について忘れたわけではない。

おそらく、マイノリティの為の社会運動には長い歴史があってこういうことがいろいろな形で議論されてきたのだろうし、その一部は、社会学の理論や概念として学問的な吟味がされているのだろう。そういう過去を全く踏まえてないid:Masao_hateさんの主張は、現実的な効果を期待できないものに見えるのだと思う。

そういう人たちが気軽に運動にコミットできて、気軽に辞められて、複数の(時には対立するような)運動に同時にコミットすることもできて、そしてそれらの内部で声をあげられる、という方向の方が、全ての社会運動が共闘する、なんていう Masao さんの考えよりもよっぽど現実的。

それで私が思うのは、この対立は「共闘」という言葉に対する、「ヘッド指向」と「ロングテール指向」のスレ違いではないかと言うこと。

つまり、id:Masao_hateさんはは「ロングテール指向」の「共闘」を呼びかけているのに対し、id:kleinbottle526さんとid:macskaさんは「ヘッド指向」の「共闘」というとらえ方をして反発しているように見える。

Web2.0におけるロングテールという概念のポイントは、「品揃えを増やすことのコストがない」ということなんだけど、弱者の為の運動が支援対象という品揃えを増やすことのコストに無頓着であることにid:kleinbottle526さんとid:macskaさんはいらだっているのではないだろうか。

話はやや逸れるが、かつて左翼の集会なんかに参加して、懇談会などで運動論なんかになり理念論を振りかざしたりすると「じゃあ君は実際にどんな活動をやってるの?」というような切り替えしをされたものだ。どんなに理念論を振りかざしていても、当人が何らかの実践を行っていないとマトモな左翼としては、(少なくとも)コミュニティからは扱ってもらえなかった。

ちょっと昔のこんなエントリを思い出してしまったけど、このすれ違いは、営業畑の人にロングテールを解説する時のスレ違いに似ている。ロングテールには営業という実践はない。ただ、Webの中に買い物ページを置いておくだけだ。しかし、営業の人はプロモーション無しに(少しづつだけど)売れるというイメージが掴みにくい。そのため「たくさんの品数を売る為のプロモーションのコスト」を無意識に想定して、「それは何かがおかしい」という反射的な反応をしてしまうのだ。

「営業しないでモノが売れるわけがない」→「品揃えを増やすと営業が大変になる」という短絡と、「実践しないで人が救われるわけがない」→「品揃えを増やすと実践が大変になる」という短絡は似ているような気がする。

もちろん、「ロングテール指向の幅広い弱者共闘」と言ったって、ブログにいろんな人が自分の生の声を書く勝手連的な連携くらいしか、私の中には具体的なイメージは無い。だから、それが実効性は無くて非現実的で副作用が多いという批判はあると思うが、少なくとも、品揃えに関わるコストに構造的な変化が無いのかという見直しはあってもいいと思う。

ついでに、もうひとつ流行りのマーケティング用語を使えば、この論争は「メディアアウト」のパラダイムで行なわれたマーケティングの失敗例にも見える(「メディアアウト」とそれと対になる「メディアイン」という言葉は、R30さんの次のエントリで解説されている)。

企業から見たらほとんどの場合、消費者は間違ってる。商品の意味を正しく理解してないし商品の使い方が間違っているし注目すべき特色を見逃してどうでもいい所にこだわる。何かを勘違いして自社製品を批判した上で彼ら自身にとって損になる他社の商品を買う。消費者への情報発信を重視して、その間違いを直そうとするのが「メディアアウト」。どう見ても勘違いしてるとしか思えない消費者の言うことを、わざわざ新しいメディアとそのテクノロジーを勉強して吸い上げようとするのが「メディアイン」。

『バックラッシュ!』発売記念キャンペーン - 小山エミ「『ブレンダと呼ばれた少年』をめぐるバックラッシュ言説の迷走」および荻上チキ「政権与党のバックラッシュ」全文公開!のmacskaさんの文章をちょっとだけ見たけど、相手が「つくる会」でも、深夜のシマネコBlogの人やid:Masao_hateさんでも、macskaさんは全く同じように扱い、同じスタイルで批判しているように見える。同じ間違ってるにしても「つくる会」と「シマネコBlog」とid:Masao_hateさんの間には、重要な違いがある。その差異を増幅すれば何かが取り出せると私は思う。

『バックラッシュ!』は、そもそもの成り立ちからして、「ジェンダーフリーについての間違いを正す」という、非常に「メディアアウト」的色彩の濃い企画だと思うけど、更に「バックラッシュ」を激化させても自分たちの正しさだけにしがみついていればいいというのは、つまり、「正しさ」の定義が業界の中にあるってことは、マーケティングの人から見たら正直うらやましい話だと思う。