天賦人権説(あるいは自然権)の否定は何が問題なのか?

 衆議院選挙を間近に控えて、自民党の憲法改正案が話題になっています。
 その中で、自民党の参議院議員片山さつき氏の次の発言が特に問題になりました。

国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!

 これに対し、「天賦人権論の否定なんて言語道断だ」という反応がある一方で、「天賦人権論なんておかしい、片山議員は正しい」という反論も複数出てきました。Twitter上での議論は既にかなりの量に上っています。以下のリストは私の目に付いたTogetterによる議論まとめを列挙したものですが、全部を網羅できてはいません。


 天賦人権論が「神から人権を授かったという一神教的な前提に立つものだ」という批判に対しては、法華狼氏が解説記事を書いておられます。

当然、天賦人権論は、単に天から人権が与えられたという宗教的な思想ではない。あくまで自然権思想を翻訳した時に「天賦」という表現が選ばれた。だから、天に与えられたという解釈を根拠として天賦人権論を批判しようとしても、レトリック以上の意味はないのではないか?
(中略)
そもそも「天賦」という言葉は、天に与えられたものという原義にとどまらず、生まれついての資質や、人の力で左右できないものも指す。
てんぷしぜん【天賦自然】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
天から与えられた、人の力ではどうにもならないもの。
つまり「侵すことのできない」もののことだ。

 天賦人権論が「一神教的な概念」であるという批判(というか誤解)に対してはこれで十分でしょう。「天賦」という言葉が嫌なら、「自然権思想」と言い換えれば同じことです。

 しかしながら、そもそも「天賦人権論が何を言わんとしているのか良く分からない」という人にとっては、これでもあまり納得はできないのではないかと思います。なぜなら、おそらく、「天賦人権論」に疑問を感じる人の多くは、「国家が出来てから人権を保障する仕組みが出来たはずなのに、なぜそれを人間が生まれながらに持っていることになるのか?」という疑問が真っ先に浮かぶだろうと思われるからです。

 そこで、まずは「天賦人権論」の基礎を作った一人であるイギリスの思想家ジョン・ロックの思想をもとに、「天賦人権論」という思想のアウトラインを辿ることから始めましょう。その上で、天賦人権(自然権)やそれを前提にした憲法がなぜ必要なのか、を見ていきたいと思います。



 啓蒙思想家ジョン・ロック及び著書「市民政府論」は中学社会の教科書にも載っているくらい有名ですが、実際に読んだことのある人はそれほど多くないでしょう。「自然状態」という用語もよく知られてはいるものの、具体的にどんな状態が想定されているのか、詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか。

 「自然状態」とは、政府や成文法が存在しない人々の状態を指します。ロックは、この状態においても人々は完全な無秩序と混乱に陥るわけではなく、各人が自分及び他人の生命・自由・財産などを維持するため、各人の理性に基づいた法(のようなもの)に従って行動すると考えました。これを「自然法」と呼びます。人類の歴史において、国家や政府が最初から存在していたわけではないはずであり、その時代の人々が無秩序と混乱の中で生きていたわけではない、と考えれば、それほど受け入れ難い考えではないでしょう。「無政府と無法は異なる」ということです。
 現在の成文法には、法を執行する政府があり、法に基づいて裁判を行う裁判所が存在します。国家の存在しない自然状態においては、法の執行・裁判を各人が行う、とロックは考えました。他人の生命・自由・財産などを不当に侵した者が居れば、当人あるいは第三者が自然法に基づいて裁定する。あるいは、権利がぶつかり合った二人の揉め事を解決するには、両者が自然法に基づいて話し合うか、あるいは適当な第三者に調停・裁定してもらう、ということになります。

 このような状態は決して無秩序ではありませんが、しかし問題も多いものであるとロックは言います。人間はとにかく自分の権利は大きく見積もりがちであるし、自分の興味が薄いものに対しては真剣に考えない傾向があるため、各人が勝手にやっていたのでは自然法に基づく裁定が公正に行われず、各人の権利の保護に支障が出る。そのため、人々が互いに契約して国家を形成し、自然法の執行権・裁判権を人々が選んだ代表者に委ねたのである、というわけです。

 この場合、人々が委ねたのはあくまで法の執行権・裁判権であって、もともとの生命・自由・財産などの権利ではありません。それらの権利を守るために国家を形成したのですから、国家によってそれらの権利が侵害されたのでは本末転倒です。
 もし国家が、人々に託された法の執行権・裁判権を利用して人々の生命・自由・財産などを恣意的に侵害し始めるならば、そのような国家は国家としての存在意義がないことになります。従って人々は、そのような政府に従う道理はないので、現政府を打ち倒して新たな政府を立てる権利がある、とロックは主張しました。これが有名な「革命権」という概念です。

 「人権を守るために国家があるのであり、国家が人権を与えたのではない」という考え方は、このような思想的背景に基づいています。天賦人権論は「国家の存在意義とは何か」という問いと不離の関係にあるわけです。

 ロックが想定した自然権は生命・自由・財産など、現在の基本的人権の概念より狭いものですが、人権概念は時代とともに拡大していきました。しかし、「人権を守るために国家があるのであり、その逆ではない」という思想そのものは共有されていると言っていいでしょう。



 さて、では、このような天賦人権論を否定すると、何が問題なのでしょうか?

 天賦人権論を否定した場合の人権概念は、大抵の場合「国賦人権論」になります。これは、国が国民に人権を賦与したのだ、という考え方です(天賦人権論においては、国家は自然権を追認したに過ぎません)。
 国家が人権を作り出して国民に賦与したのであれば、国家がなければ人権は存在し得ないわけですから、国民には人権を侵害する政府を倒す権利(革命権)はもちろん無いことになります。またそもそも、国家が人権を規定しているのですから、国家は人権を制限することも出来ます。

 例えば「権利を享受するには義務を果たさなければならない」という主張は、国賦人権論的な発想に基づくと言えるでしょう。これは国家が国民に権利を与える代わりに義務を果たせ、というバーターの関係であり、国家が与えなければ人権は存在しないということを前提にした主張だからです。

 「権利を主張したければ義務を果たせ」というのは当然ではないのか?と思う人も少なくないでしょう。しかしながら、ここにはある種の混乱があります。これについては電脳くらげ氏が詳細に解説しておられます。

よくある間違いなのだが、この「権利行使には義務が伴う」というのは、「義務を果たすことによって、初めて権利が付与される」という意味ではない。
(中略)
例えば、僕には選挙権がある。投票所に行って、国政の代表者を決めるための投票を行う「権利」があるわけである。そして、国には、僕(をはじめとする国民)が選挙権を行使できるよう、選挙を法律に基づいて実施する「義務」がある。「権利行使には義務が伴う」というのは、この場合、僕が権利を行使できるように、国家が義務を負うということである。

国家対個人以外に、私人間の契約でも「権利行使に義務が伴う」という場面はある。例えば、僕がパン屋であんパンを買ったとする。その場合、僕はあんパンの引渡しを店員から受ける「権利」を有する。一方で、店員は僕にあんパンを引き渡す「義務」を負っている(民法では、この権利・義務を債権・債務という言葉で表現する)。
(中略)
このように、「権利行使に義務が伴う」というフレーズは、国家対個人、あるいは私人対私人という関係において、一方が権利を実現するために、片方が義務を負うということを表現しているに過ぎない。
(強調は原文ママ)

 つまり、「義務を果たす」ことと対になるのは「自分の権利」ではなく「相手の権利」であるわけです。このことは、「守秘義務」や「表示義務」のような言葉を考えてみても分かるでしょう。
 とすれば、「人権の享受のために義務を果たせ」というフレーズの場合、「権利の受け手」は国家であるということです。「国家は国民に○○をさせる権利があるのだから、その義務を果たせ。さもなければ人権は与えないぞ」と言っているわけですね。

 これの何が問題か? 国家が国民に人権を与える代償として義務を課すことが可能になるということです。これは、(国家が勝手に定めた)義務を果たせない人間から人権を取り上げることができる、ということでもあります。天賦人権論に基づく憲法は、このように「人権に恣意的な制限を加えてはならない」という国に対する義務を定めたものだと理解して良いでしょう。

 それでもまだ疑問を感じる人が居るかもしれません。民主国家においては、国家の代表は国民の選挙で選ばれた人たちです。それがなぜ国民の権利を恣意的に侵害したりすると前提しなくてはならないのか?人権の内容の制限が民意に基づくものであるとするなら、国民の不利益になるとは言えないのではないか?――このように考える人も居るかもしれません(もっとも、このような考え方であれば、憲法はそもそも必要ないことになるわけですが)。
 それに対しては、このように答えておきましょう。不可侵の基本的人権という概念のない民主政の場では、「8割の賛成で、2割の人権を剥奪する」ことが可能になってしまう、と。イギリスの清教徒革命やフランス革命における大量処刑や、ソ連のスターリンによる大粛清は、いずれも「市民」「人民大衆」の名のもとに行われました。そして、自分がいつ「人権を剥奪される側の2割」になるかは誰にも分かりません。

 もちろん、憲法もまた多数決の原理で採択されたものである以上、少数派の人権を抑圧するものになってしまっている可能性は否定できません。また、天賦人権論に基づく憲法があるからといって、人権を保護するに十分であるわけでもありません。現に人権侵害は常に起こっていると考えられますし、現行の法の中には不当に人権を抑圧・侵害するものもあると考えている人は大勢います(私自身もそうです)。
 しかし、国家に人権を守る義務を課させる憲法は、少なくとも国家による人権侵害をある程度食い止めうる歯止めの役割を果たしていることも確かです。そして、天賦人権論の否定の上に立った憲法は、そうした歯止めの役割を果たせないのです。



(12/14追記)
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