「遺伝子」と「遺伝」の違い

下記報道に対するみなさんのはてなブックマークでの反応が完全に間違っていたのでとても気になった。これはみなさんの責任ではなく、報道側の責任である。ひいては残念ながらわれわれ遺伝学者の責任であるとも言える。

http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2767480/6341100

何が間違っているかというと、うつ病の原因と考えられる「遺伝子」を発見したと報道しているのだが、みなさんの反応はうつ病の「遺伝」の原因を発見したと捉えているようなのだ。しかし「遺伝」と「遺伝子」は違う。英語で考えると、遺伝子はgeneだが、親から子へ受け継ぐ遺伝、正しくは「遺伝的継承」はinheritance。違うでしょ?ここで、遺伝学はgeneticsじゃないかと思うかもしれない。しかし親から子へ受け継ぐ遺伝をさしてgeneticsとは言わない。genetics自体は遺伝子を中心とした、もっと包括的な言葉なのである*1。そして実は本報道が指しているのはこのどちらでもない。「遺伝子発現」gene expressionについての研究を報道しているのだった。紛らわしいことこの上ない。

はてなブックマークにおける右の記述、「この遺伝子異常を持たないうつ病患者は甘えということになったりして」「遺伝的な要素があるなら「なぜその遺伝子が残ってたのか(どういう有利な要因があるのか)?」という疑問が発生する」「今後遺伝による差別も予想される」「就職の際にはこの遺伝子の有無が調べられるようになります」「その考え方の特性を持つ遺伝子が、過去の生物学的な歴史上では子孫を残す働きがあったのかも」「遺伝的に、なり易い、なり難いというのはあるだろう」・・・残念ながらこれらは全て、結果の解釈を誤っている。これらはすべて、本研究がinheritanceに関するものだと理解したコメントであるが、本研究は前段に挙げたようにgene expressionに関する研究なのである。その取り違えの主な理由は報道内容にあることを示そう。

問題は以下の記述である。

研究チームは、うつ病と診断された後に死亡した21人の遺伝子と健康な18人の遺伝子とを比較して、「MKP-1」と呼ばれるこの遺伝子を突き止めた。

http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2767480/6341100

「遺伝子を比較して」というと、最近とてもはやりの、私の主要な専門であるゲノム解析を思い浮かべるのは当然と思う。この分野では、人々が先祖から代々受け継いでいる「ゲノム」に、病気を起こりやすくさせるような情報が刻まれているかどうかを調べている。ところが、この報道のもととなったRonald S Dumanらの論文には、ゲノム解析を行ったとは書いていない。

Here we use whole-genome expression profiling of postmortem tissue and show significantly increased expression of mitogen-activated protein kinase (MAPK) phosphatase-1 (MKP-1, encoded by DUSP1, but hereafter called MKP-1) in the hippocampal subfields of subjects with MDD compared to matched controls.

http://www.nature.com/nm/journal/vaop/ncurrent/abs/nm.2219.html

彼らはwhole-genome expression profilingを行ったのだ。日本語に訳せば全ゲノム「発現」解析である。

発現、expressionとはなんだろうか。われわれはみな、生物の設計図としてのゲノムをDNAとして持っている。DNAから、mRNAが転写される。mRNAが翻訳されてタンパク質ができる。これをセントラルドグマという。ここで発現という言葉は少しあいまいな意味をもつが、全ゲノム発現解析を行った、という文脈の場合、ひとつの組織におけるすべてのmRNA量を測定し比較しするという大規模研究において、有効なmRNA量を意味する。つまり今回の場合、無くなったうつ病患者さんの脳の海馬という組織のすべてのmRNA量を測定し、さらに健常者の海馬におけるそれと比較したところ、MKP-1という遺伝子から転写されたmRNAの量がうつ病患者で多かった、という研究である。そこから、MKP-1遺伝子の発現量が多いことがうつ病を引き起こすのではないかと考え、確認作業としてマウスモデルを調べている。

これは最近多数の報告があり新聞報道もよく出ている「ゲノムワイド関連研究(GWAS)」とは違うことはおわかりだろうか。GWASが調べているのはゲノムDNAである。ゲノムは、確かに先祖代々引き継がれる遺伝情報である。inheritanceの対象である。したがって「うつ病と関連するゲノムDNA配列」が発見されたなら、それは古い昔に起こった突然変異が代々引き継がれ、その引き継いでいた人たちはみなうつ病のリスクを有しており、さらに自らの子供、孫にも影響していくと考えられる。影響力や、倫理的にも非常に難しい領域だ(幸いなことにこういったもののほとんどは、リスクとしての強さは弱いということそのものをGWASが今示しているが)。一方、今回の研究は先祖代々は関係ない。今うつ病になっている人のmRNA発現量に違いがあるのだ。それはたしかにゲノムDNAのせいかもしれない。しかし環境のせいかもしれない。もしかすると死後の変化かもしれない・・・(DNAと違ってmRNAは不安定なのである、しかしその可能性は除外しているだろうが)・・・いずれにせよ代々受け継がれるものかどうかは、この研究だけからは全くわからないのだ。

だから報道するなら遺伝子発現解析をした、と書くべきなのだ。なのに遺伝子を比較したなどと書いてしまう。すると遺伝子はDNA上に書き込まれているのだから、ゲノムDNAの違いを発見したのか?このうつ病遺伝子は代々受け継がれるのか?と読者側が思うのは当然のことだ。わたしは専門の近い研究者だから原文を読んで誤りを訂正できる。だが一般的な読者は当然そうではないし、一般的読者を想定するのがこういった報道機関であるのが当然だ。ここを正しく報道するのは報道側の責任だ。

そしてわれわれ遺伝学者に責任があるかもしれない、といったのは、遺伝と遺伝子にただしく訳語をつけることに失敗してしまったことが、こういう報道の誤りの背景にあるとは考えられるからである。遺伝子geneと遺伝的継承inheritance、さらに言えば親から子への継承ではなく現時点における特定の集団での個人個人のDNA配列の違いを表す集団遺伝学的概念、遺伝的多様性genetic variabilityはそれぞれ違うのだがいずれも「新しい遺伝子を発見」のひとことでタイトルを付けられてしまうことが多い。インパクトが違うからだろう。これはもう今となってはしょうがないが、機会を見つけてかならずこのように説明していくことが重要なのかもしれない。

*1:ちなみに、geneという言葉よりもgeneticsのほうが先にできた言葉であるという面白い歴史もあります。既に発展しつつあった遺伝学Geneticsにおける主要な対象となる要素に対して与えられた言葉がgeneなのだそうな