水道橋博士『藝人春秋』について

藝人春秋

藝人春秋

 水道橋博士著『藝人春秋』、著者から「好評すぎるので、気になるところを指摘してほしい」と言われたので、徒然に感想を書かせてもらいます。
『藝人春秋』は、水道橋博士が15人の人々の裏話を書いた本で、書名の元になった『文藝春秋』はもともと文壇のゴシップ雑誌だったから、単なるダジャレではない。
 15人の内訳は、そのまんま東、石倉三郎、草野仁、古館伊知郎、三又又三、堀江貴史、湯浅卓、苫米地英人、テリー伊藤、ポール牧、甲本ヒロト、爆笑問題、稲川淳二、松本人志、北野武……って、芸人は7人しかいないじゃんか!
 では、この15人をくくる枠は何か、といえば、「過剰な人々」ということだろう。過剰ということでいえば、古館氏などを除いて、「無意識過剰」だ。
 その方向性には二種類あって、ひとつは「正直」「自分をさらけ出す」系で、東、テリー、ヒロトなどの人々。もうひとつは「ホラ吹き」「自分を飾る」系で、苫米地、湯浅、堀江など。しかし、どちらも無意識のうちに直観的にやっているので、傍から見ると無防備で、客観的に自分を観ることができていない。おっちょこちょいで、あぶなっかしいから、時に笑われる。
 彼らが理性的でないというわけではない。たとえば北野武の場合、有り余る理性を、内側の直感が乗り越えていく。それを「狂気」と言い換えてもいい。それは優れた芸術家の条件だ。「芸」に不可欠なものだ。
 そんな彼らを水道橋博士は常に理性の目で描いていく。散りばめられたダジャレや言葉遊びは非常に精緻で、二重三重の意味がかけられている。博士は誰よりも冷静に、過剰な人々を観察し、彼らの心理を分析して言語化する。
 しかし、読み進めていくうちに僕が感じたのは、狂気への憧れと渇望だった。

 文中で甲本ヒロトが『サボテン・ブラザーズ』のいいシーンを引用している。山賊に苦しめられているメキシコの農民が、西部劇でヒーローを演じる俳優トリオ(スティーヴ・マーティン、マーティン・ショート、チェビー・チェイス)を正義のガンマンたちだと思い込み、助けて欲しいと頼み込む。殺されちゃうよ、とマーティンとチェイスは逃げようとするが、ショートだけは残って村を助けようとする。そして地面に線を引く。
 その線のこっち側は闘わずに安全な日常に戻ること。線の向こう側は、イチかバチかの闘いに身を投じること。ただ、線を越えれば、本物になれるかもしれない。
 その一線を無意識に越えてしまう人々は、優れた芸術家だったり冒険家だったり、英雄だったり天才だったり、犯罪者だったり狂人だったりカリスマだったりする。
 博士は理性の人だ。無意識に線を越えることはできない。しかし、線の内側で安穏とできるほど自分の心を閉ざしていない。だから、線を越える人々に魅かれ、線の上を綱渡りする。時に魅かれすぎて綱から落ちそうになったりもする。時に彼自身、「この線を越えなければ」という自意識によって「えいやあっ!」とジャンプすることもある。でも理性の足枷は常に繋がれている。
 博士ほど理性的ではないものの、僕は本当に小心者だから、やっぱり線の上でうろうろしている。僕の映画論は実は映画を通してそれを作る監督たちの狂気への憧れを語っているのだ。だから『藝人春秋』に限りなく共感する。
 自分は天才ではないから、直観ではなく意識的に自分のケツを叩いて、無理に線を越えるしかない。自分のいる場所からジャンプしなければ安全だが前進も上昇もない。線を越えて失敗することのほうが多いだろう。当たり前だ。ここから先は保証できないよ、という線なのだから。
 でも、自分のような小市民にも蛮勇をふるう必要がある瞬間は人生に何度か訪れる。
 その蛮勇をくれるのが酒やドラッグ、じゃなくて、僕にとっては映画やロックや永ちゃんや「過剰な人々」の物語なのだと思う。
 書いてるうちに『藝人春秋』と関係なくなってしまいました。ごめんなさい。