「あるある」と「まん延するニセ科学」

繰り返しになるけれど、決してインターネットと言うメディアが弱く、テレビというメディアが強いのが要因なのではないと思うのです。もちろん、伝達能力と言う点で差があるのは認めざるを得ないけれども、「あるある」で放送すると商品が売り切れる(これは「思いっきり」もそうだし)のも「まん延するニセ科学」がそれほど読まれていないのも、あえてこう言ってしまうけど、「おバカな一般庶民*1」がそれを求めているからに他なりません。
科学的な説明なんて「もっともらしい」ことが重要であって、真実性などどうでもいいのです。「信じていたのに」って言っている人は本気でそこまで思っているのではなく、結局のところ単にそれで効果が得られないことを残念がっているに過ぎません。あと買っちゃった納豆の始末とか。大体において、一部の根気の良い人を除いてその提示された条件を自分は本気で続けられるのかどうかの検証をしないで飛びついて、結局続かない人が大半なのですから、でたらめを言ったところで「効果が出るまでには個人差があります」でおしまいだということにすら考えが及ばないのは、「考えていない」から。科学的思考をしようとどんなに訴えたところでそもそも最初から思考すらする気のない人々に読まれるわけはありません。読まれたとしても「ふーん、一つ賢くなったなあ(すぐ忘却)」で終了です。
ニセ科学の問題は、本来科学的思考能力を持っていなければならない、あるいはそれを教えるべき人が引っかかると目も当てられないと言うところにあって、これはなんとかしなければいけない問題だと思います。しかし、現時点で全ての人にそれを求めるのは無理だし、その必要もないと思います。全ての人に科学的思考能力を求めるのはぞっとしない話です。そうでない人がいないと世の中は面白くないでしょう。
これも繰り返しになりますが、糾弾していくことは必要です。ニセ科学を人を騙すタネに使う、あるいは不勉強のためにないことをあると言ってしまうというのはモラルの問題です。そのモラルが守られないことを追求していくことで人々は「それがニセ科学であった」という問題ではなく「自分たちは騙されていた」という事実により、不買に走ったりブランドイメージを落としたりするのです。国民全員にニセ科学が何であるかを知らしめるよりも、自らの権威付けのためについ安直にニセ科学を利用してしまったときにどういう目にあうかを知らしめたほうが抑止力としては遥かに大きいのではないでしょうか。

*1:と言うと僕が偉いみたいだけど、実際には一緒に踊ることもままある。