『GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語(1)〜袋小路の物語がダイナミズムを獲得するまで

GUNSLINGER GIRL(1) (電撃コミックス)

GUNSLINGER GIRL(1) (電撃コミックス)

評価:★★★★★星5つのマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ)

相田裕さんのガンスリンガーガールが完結した。ラストの終わらせ方は見事だった。全体の構成的に「これしかない」という落とし方をしていて、ああ作者はとても論理的な人なんだな、と薄々感じてはいたが、ここまで論理的整合性を持つ構造で構築するのか、と感心した。なぜならば、どう見ても最初のアイディア、そして絵柄からいって、そういう論理よりも情念というかイメージ先行型の印象がとても色濃い作品だったので、ここまで論理的に整合性をとって物語を広げて落としてくるとは思わなかったからだ。だって、少女の暗殺者とそれを使役するマスターみたいな構造って、非常に妄想濃度の濃いイメージじゃないですか。普通は、その一発屋的アイディアだけで終わるものですが、作者は見事な展開をして、壮大な物語に仕立て上げましたね。感心&感動しました。この「壮大な物語」という形容詞が、そもそも出発点ではありえない物語構造をしていながら、そこまで到達した作者の展開能力に、乾杯を。そして、素晴らしい物語をありがとうございました。僕は、本や漫画は、量が多くなりすぎるので、基本的には捨ててしまうようにしているのですが(そうでないと部屋があふれてしまう)ガンスリンガーガールは、僕にはめずらしくアーカイブとして常に手元におく作品です。理由は、リアルタイムの連載としての面白さや、女の子などの絵柄のかわいさなどを超えて、全体としての物語の完成度と密度が非常に高いから、残しておきたい、と思うのです。海燕さんとの2012年のベストで、僕はマンガ部門を『バーサスアンダースロー』と『恋愛ラボ』を上げているのですが、その時に前提としておいたのは、あの順位は、僕の物語三昧的「読みの文脈」においての文脈からの順位であって、そういう読みの文脈から外れたところで、ガンスリンガーガールはいいと思ういますといったのは、この作品が古典的な完成度を持つからなんだろうと思います。「今という時代を映す文脈」ではなくて、物語として古典的な重厚さと完成を度持つ、そういう意味ではオーソドックスな物語でした。


さて、では具体的に「それはどういうことか?」を追ってみましょう。


■静謐な残酷〜機能だけで生きていることの残酷な美しさ

たしかに、超法規的な世界というのは、ある意味惨劇の死の世界であり、その生と死をつかさどる世界は、容易に聖化されやすく、綺麗だ。この作品に無常観や諦念というテーマを見つけるのはたやすい。でもその綺麗さを舞台装置のみで使うのは、ただ単に設定だけの作品で終わってしまいかねない。以降に期待する作品ですね。


『GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 聖なる残酷さ〜美しいが納得できない世界観
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081025/p1

最初にこの作品を見たころに、僕はこのようなことを言っている。最初の巻を見れば、この作品のコアが何かといえば、「義体をもった隷属的な少女と担当官(男性)」これにつきる。もしくは暗殺者という機能が存在の意味になったロボットとしての少女、でもいい。

「義体をもった隷属的な少女と担当官(男性)」という設定が、いかに「らしく」ても、「そもそもそのために作りだされた世界」という感じがして、この関係性が「固定化されている」という風に感じてしまうと、物語のすべてのアイテムがただの記号というか風景に見えてしまい、重厚なマクロの世界観も、それって萌えとかそういったある種の「単一な価値観」の従属物にしかならない感じがしていたのだ。

ここでは一見否定的なニュアンスに見えるが、そもそもこのヴィジュアルと世界のイメージを具現化できるのは、才能だろうと思う。だって、凄いきれいでしょう?。この辺の様式美を描くのは、才能がいると思うんだよねー。第一期の女の子たちは、ロリータコンプレックスの世界の美しさだと思うけれど、このあたりの少女のあやしい&危うい魅力をちゃんと美しく下品にならずに描けるのって、凄い才能がいるのだ。ちょっと失敗すると、すぐ下品な作品に堕してしまう。フランスの映画監督のセルジュ・ゲンズブールの作品を凄く思い出した覚えがある。ゴシック・ロリータ様式まではいかないが、もう少しライトな感じでの。ちなみに、話はずれますが、セルジュ・ゲンズブールの生涯はかなりイっちゃってて、ぜひ追ってみると面白いですよ。ちなみに『なまいきシャルロット』はジェーン・バーキンとの実の娘を撮影した映画です。シャルロット・ゲンズブールのかわいさは、特筆ものですよ!。フランス人の女性は、なんというか美しさが半端ないね。

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それはさておき、ここで何が言いたいのかというと、この物語世界に登場する義体の少女とその担当官の関係は「閉じている」ということです。具体的にどういうことかといえば、ここから先の「成長」がないということです。義体の少女は、何年も生きられない身体ですし、政府の裏仕事で暗殺を生業としている以上、全うに生きることもできないし、日の当たる世界に出ることもあり得ません。この設定を作った時点で「逃げること」も事実上不可能です。どんなに担当官が、義体の少女を愛しても、「ここ」から脱出することは不可能なんです。同人誌の設定で(僕はどれくらいあるのか、よくわかってはいませんので、一部見たのみです)は、ヘンリエッタを連れてジョゼ・クローチェは組織を抜けるというエピソードがありました。僕はこれを見た瞬間、ああ、これは物語としては美しいけど駄目だ、と思いました。そもそも設定上、ここを抜け出る方法がないからです。逃げるという行為は、少なくともこの世界設定では意味をなしません。世界の残酷さが、さらに深まって迫ってくるだけです。こういう関係性を「共依存の対幻想」と僕は呼んでいます。前半の物語のエピソードは、主人である担当官に逆らえない義体が、それでも自分の思いを貫こうとして、事実上担当官を殺して自分も自殺するというエピソードを推理小説仕立てで描かれていましたが、あれが非常に特徴的で、この世界を、この設定を、この関係性を、脱出しようとすれば、そこには「二人で死ぬ」以外の選択肢がないのです。ジョゼとヘンリエッタが逃げ出したのは、緩慢なる自殺と同じです。だって論理的に「ここ」を抜ける可能性がなければ、それは自殺以外の何物でもないからです。この共依存の対幻想の関係性をテーマにした物語は、「解決=脱出する」という方向性はほぼ諦めなければなりません。なぜならば、論理的に希望がない世界の「絶望」を描く、その美しさを描く物語になるからです。


僕はこの「絶望」の美しさを描いた作品では、リュック・ベッソン監督の『ニキータ』を思い出します。アンナ・パリローが1990年に主演した映画です。その後の『レオン』は、見事な映画だけれども、この希望の無さが非常にウェルメイドに安っぽくなってしまったと思っている。ナタリー・ポートマンが生き残るということで希望が残る筋書きになっているが、よくある話に回収されてしまったなぁと。ジャン・レノとナタリーポートマンの存在感があまりに秀逸で、見事な映画になってしまっているが、残酷な美しさという観点では、『ニキータ』には及ぶべくもない。やっぱり『ニキータ』の救われようの無さは、とても美しかった。絶望(=希望が見いだせない)というせ静謐な世界は、残酷だけれども聖なる美しさが宿る気がします。

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けど、この「残酷だけれども聖なる美しさ」って、形容詞はいいけど、実際どういうことだろう?(笑)ってうまく言葉にできなかったのですが、先日、おがきちかさん(ランドリオールの作者)が、twitterで「自分的には、ガンスリはピアノレッスンと同じ棚」みたいなことを呟いていらして、ああ!そうか、わかった!と思いました。


この美しさとは、「道具になりきること、機能になりきることの美しさ」なんだ、と。


どういうことかというと、ジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』(The Piano1993年)を見るとすぐわかると思うのですが、主人公のエイダ(ホリー・ハンター)は、話すことができません。なので、彼女の自己表現の手段は、ピアノだけなんですが、そのピアノを彼女の夫は、浜辺に捨て置いてしまう。主人公のエイダは、この海辺に何度も出向きピアノを弾くというシーンが、この物語の珠玉の美しさを代表しています。なぜこのシーンが美しいのか?というと、もちろん、浜辺に打ち捨てられたグランドピアノを弾くというビジュアルイメージも見事ですが、娘を連れて嫁いできたニュージーランドという辺境という設定、そして自己表現の唯一の手段であるピアノを簡単に捨て去ってしまえる夫、、、、彼女の境遇が、逃げ道がないギリギリのところまで追いつめられており、その上、彼女の唯一の存在意義であるピアノをを破壊するものが自分を支配する夫であるという、「逃げ道のなさ」が限界まで来ていることを指し示しているからです。

そんな「出口がない世界」で、彼女は、唯一の自己表現としてピアノを弾きます。「ピアノを弾くこと」そのものが彼女の存在意義となっているからです。普通は、そこまで自分の存在というものを、「単一の何かに仮託しなければならない」ような状況にはなりません。けれども、唯一の自己表現以外、(というかそれさえも)奪われていて何も持っていない最後の段階で、海辺でピアノを弾くことが、彼女の機能(=ピアノを弾くこと)のみが存在意義になっている孤独を徹底的にあからさまにするのです。これが、僕の言う「残酷だけれども聖なる美しさ」とか「静謐なる絶望」の中身です。「これしかない」ということに縋り付いて、「そこ」の身に自己を特化させて純化させている姿というのは美しいと思いませんでしょうか?。そして、人間でありながら、機能に、道具に、役割に自己を純化させ中なければいけないということは、人間でありながら自らモノとなる、ということでもあります。それは、とても悲しいことではないでしょうか?。これが美しいけど悲しい、の意味です。純化された美しさは迫る美しさだが、人間としての可能性を奪われた姿でもある。

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あとは、そうですねー出口のない愛を描いたという意味で、ジャン・ジャック・アノー監督の『愛人/ラマン』(L' Amant1992)何かも思い出します。中国人青年のレオン・カーフェイの苦悩が凄く見事で、、、。この少女との関係は、ただの遊びというか快楽と金銭の関係だったんですが、主人公の少女の「心の動かされなさ」に中国人青年が狂っていくというというところが、見事な情感を持って表現されていました。特に、華僑、中国の「家族」の世界は、凄まじい縛りに束縛されたタイトな世界で、そこから出ることができない苦しさと少女の愛を求める煩悶は、非常に美しかった。これも、主人公の少女が家族関係から、心が死んでしまっているのを見て、中国人青年は、彼女の心動かしたくてボロボロになっていくのですが、華僑の家族の強さを知っていれば、彼がいかに不可能なものばかり追い求めて、不可能な縛りの中で煩悶しているかがわかり、非常に良かった。そもそも無理なものを、自分で破壊する器も気力もなく追い求める姿は、非常に見事な苦しみの表現でした。

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ちなみに、中国人社会特有の血族関係、家族関係の濃さと深さを知っていると、さまざまな中国の小説や映画がより一層深く楽しめるようになります。たとえば、吉田秋生さんの『BANANAFISH』のシン・スウ・リンや樹なつみさんの『花咲ける青少年』のファン・リーレンの苦悩は、この中国人社会特有の血族関係を知らなければ、その深さはわかりません。ぜひ調べてみると、物語の見方が変わります。さらに進めば、中国の傑作映画や文学に進むのがお薦めです。その社会の血族や家族など基本的な「人間関係」がどのように構成されているかの文化人類学的(外からの社会内部の観察はそうならざるを得ない)視点があると、何倍も物語が楽しくなります。日本社会においても、同じです。

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えっと、話が脱線しすぎた。これは後で説明する「作るもの」と「作られるもの」の葛藤の基本なんですが、人形製作者が、人形に対して過剰に思い入れをしても、人形は感情を持っていないので何も返してくれないという一方通行のナルシシズムの檻の苦しさを強く表現するものです。これは過剰な個幻想の物語。この関係性が、義体と担当官、主に担当官側の真理の表現になるのは、お分かりかと思います。


■担当官たちは、なぜ逃げなかったのか?〜ヘンリエッタを連れて逃げる選択肢もあったはずだが、、、

こういった止まったしまった世界や関係性は、美しいとは思うけれども、好きではないなぁ。なぜ、彼女たちは支配されること自体に疑問を抱かないのか、もしくは、担当官を愛しているなら、担当官ともどもこんな腐った制度を永続される現実や政府世界に対して、違和感を持たないのか?。僕ならば逃げてほしい。逃げるべきだと思う。もちろん、この制度の創設者である兄弟は、マフィアのテロにあって家族や最愛の妹や恋人を殺された兄弟で、その復讐劇という大きなマクロ構造があって、その「使命」を失わないためには、少女たちを道具と切り捨てなければ成し遂げられないという構造があり、その辺よくできた脚本だと思います。


『GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 聖なる残酷さ〜美しいが納得できない世界観
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081025/p1

過去に同人誌の一部で、ジェゼとヘンリエッタが、逃避行するエピソードを見た時に、ああ、これは物語としては袋小路で先がない話だな、と思いました。ラジオで話した通り、共依存の対幻想関係は、心中(=二人で命を絶つ)ことによって、世界の理不尽さを拒否するのが最終形でしかありません。洋の東西で言えば、シェークスピアのロミオトジュリエット、近松門左衛門の心中モノがその最高の物語類型です。エヴァQでもカヲルくんとシンジくんが、出た瞬間いわかる典型的な共依存関係で、これは出口がない(笑)と瞬時に思いました。ちなみに「出口がない」というのはマイナスの意味では言っていません。二人の関係が、「生きること」よりも上回るという恋愛至上主義の対幻想の追及の物語類型は、現実よりも自分たちの妄想・愛が上であると高らかに宣言するものであって、それはそれで生きることを否定して、未来に続かないという意味では、デッドエンド、バッドエンドではありますが、人が人生で選びうる最高の物語の一つであるともいえます。


なので、まとめると、『ガンスリンガーガール』は、その発想の原点が、対幻想追求型になっているので、ジョゼとヘンリエッタが典型的ですが、出口がない袋小路の物語になっており、その残酷さを「愛でる」物語ならざるを得ないという構造があります。


またもう一つのこの物語の原型的なコアは、ジャンとリコの関係があるように、復讐劇です。このクローチェ兄弟の大切なものを奪われたことへの復讐というのは、この物語の根幹に設定されているものであり、このナルシシズム的な自己愛の執着(そういってしまうのは悲しいですが…)は、出口のないものです。復讐は、未来につながらないからです。これもシェークスピアの『ハムレット』が典型的ですが、対幻想の話も復讐劇も、最終的にすべてが死に絶える結末が基本系です。希望がない物語だからです。


■「つくるもの」と「つくられるもの」の逆転劇が対幻想の最終形

『「つくられるものと」「つくるものの」の葛藤の物語』類型というのは、僕は、栗本薫さんの『真夜中の天使』が短くこの物語の重要なクリティカルポイントを物語化していていつも思いつくのだが、ようは「つくるがわ」、、、、は、権力を握っているんだよね。「つくった」という権利でもって「つくられた側」を支配している。たとえば、まよてんでは、ただのヤンキーで貧乏の底辺で生きていたゴミ溜めにいた少年を、アイドルとしてスターに仕上げていくんだけれども、そのための「手段」として、ひたすらその少年(死ぬほどきれいという設定)を事務所やテレビ局とかの変態オヤジたちに身体を使って営業させる・・・という(笑)BLの話なんだけれども、スターにするという「目的」のもとに「手段」としてその主人公を支配している。『ファイブスター物語』のファティマというヘッドライナーを操る演算機の役割をする女性型のコンピューターもまた、同じなんだよね。へッドライナーを操る騎士に仕えるという「手段」として存在している。まよてんの話に戻るんだけれども、この話は結局この主人公の少年のために、最後は、少年を育て上げて支配者だった滝という男は、殺人を犯すことになり、その弱みを握られて、権力構造が逆転してしまうという姿を描いている。つまりA(主人公の今西良)と、B(マネージャーの滝)という関係が、A<Bだったのが、A>Bに逆転する過程を描いているといえるだろう。ちなみに、この真ん中で、一瞬心が通じ合ってA=Bになる瞬間がオとづれるんだけれども、その長崎のシーンが、あまりに美しくて僕の人生最高の小説の名シーンの一つだと思っているんだけれども、この小説を読んでいると、「対等でありうる」ことがいかに難しいかということを見せつけられていて、僕は胸がふさがってしまうんだ。そのありえなさを演出するが故、、、権力が移っていき、「手段」だったものが支配者にかわっていくことを描く時に、人間関係の構造がいかにそういった権力というような関係でしかあり得ないかの「切なさ」が僕には感じられてしまう。ちなみに『「つくられるものと」「つくるものの」の葛藤の物語』類型には、この1)権力構造の逆転を描くことで、その過程に真の対等を垣間見る瞬間をつくる、というテーマと、もう一つは、「つくられる側」の抱える孤独に振り回されていくこと、、、人の孤独に「付き合う」ということがどういうことになるか?という対幻想の物語を描いている。あとで、これは村上春樹の『ノルウェイの森』と竹宮恵子さんの『風と木の歌』で説明して見たいと思うので、とりあえずここまで。



『屍姫』 赤人義一著 『「つくられるもの」と「つくるもの」の葛藤の物語をどこまで追いつめられるだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090828/p2

真夜中の天使1: 1

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ラジオでも説明したが、この「つくるもの」と「つくられるもの」の逆転劇という物語類型は、僕のオリジナルの視点だが、これって凄くたくさん例が上がる。最終的に、このA>B、A=B、A<Bという関係性の変化をどう描くかという物語なんだよね。ちなみに、ジャンとリコの物語が、ジャンのための徹底てして「道具(=手段)」であったリコが、ほとんど初めてという自己主張が、『私のために生きて!(=目的)』であったというのは、道具であり手段である自分を目的に変えて、と願っていることにあたるんですね。道具である人間は、人格を考慮しないので、ジャンは、15巻すべての描写の中でリコを完全な道具として扱っているんだけれども(弟のジョゼが妹の身代わりと置いているのと好対照)、それがこの一点で収束して逆転する。逆転するのは、対等になった瞬間(=ジャコモ・ダンテ)、道具であったリコがその存在意義である復讐(=ジャコモを殺した)というその瞬間です。これが成し遂げられていないければ、リコが自己主張する状況が生まれないからです。そして、そこで初めて、ジャンは、リコを人間として認識する。その瞬時に、「私のために生きて」というセリフは、泣けますね。ちなみに、リコは義体なので、そもそもジャンを撃つことはできません。担当官の守護がすべての命題に勝る「条件付け」ですから。にもかかわらず、ジャンの意志である復讐のために、ジャンを殺す(=ジャンの後ろにジャコモがいる)状態で銃を撃てたということは、リコが、条件付けを超えて、ジャンの意思を自ら選択したということでもあります。最後に、リコのが死んだ後、年をとったジャン(10年は経過しているはず)の仕事机にリコの写真がある(たぶん隣の2名の写真は死んだ妹と婚約者なのでは?)のと、左の薬指に結婚指輪があるのは、たぶんリコに対してのものなんじゃないかな、、、と思います。この関係の設定からして、ジャンとリコが結婚したわけではないと思います。でも、死んだ婚約者を守りきれなかった後悔で生きていたジャンにとって、その復讐を一緒にやり遂げたリコは、リコは、ある意味婚約者の身代わりでもあるのだろうと思います。だから、きっと彼は、その二人に忠節を尽くして以後結婚しないと思うんですよね。リコにしてみると、彼女は、ちゃんと生きたことになると思うんですよね。短い人生だったけど、好きな人の一番大事なことに自己をささげて、そして最後は対等な人間として見てもらえたわけですから。そもそも何もなかった無の人生であることからすれば、彼女は自分を獲得した人生だったと思います。よくぞ堅物の中年オヤジを籠絡した(笑)と。そういう意味では、あらゆる伏線のエピソードを、すべて見事に回収していて、作者の相田裕という人は、凄いなぁと思います。なかなか、こんな最初はアイディアだけ(笑)にしか見えない、しかも袋小路の設定で長く連載を続ける、言い換えれば物語るのが難しい物語構造ですべての物語の伏線を回収するのは並大抵の努力でなかったと思います。



さて、2へ続きますが、ここで説明したのは、この物語が構造的に、袋小路で長く連載を続ける(=物語を展開する)ことができない、ということでした。タイトルで希望へといういい方で描きましたが、言い換えれば、この作品を傑作足らしめているのは、このバットエンドの袋小路の物語類型を、きちっと脱出して、物語の「終わらせることができた」ということに尽きます。


アイディアやイメージは、才能さえあればできないことはありません。しかしながら、ちゃんと物語を終わらせるには、それに加えてプロフェッショナルの技術が必要になってきます。たとえば、僕は、高河ゆんさんの大ファンですが、彼女の物語や『小説家になろう』のWEB小説などが典型的ですが、物語の構造のコアであるイメージやとっかかりを生み出す力は素晴らしいが、それをきちっと回収して、落ちにつなげるのは論理性と技術が非常に要求されます。それがなくとも素晴らしい!ということもありますが、そういう作品は、長く古典として残ることができません。なぜならば、その物語の「行く末」を見たいと願う消費者、受け手の意志に導かれて、誰かがその結末を書いてしまうからです。そして書かれてしまったら、その作品にはかなわなくなります。物語は、発散から収束へのバランスがよくできていて初めて、長く残ることができるからです。イメージだけならば、なにも物語ではなく、音楽でも絵でも、何でもよくなってしまいます。強靭な論理性と時系列の経過を描けるという文章をベースとする物語というものの特徴を余すところなく使わなくて、完成度が落ちてしまうと思うのです。


話がずれましたが、では、この袋小路の物語を、相田裕は、どのようにして最後の希望のエピソードまでつなげることができたのでしょうか?それを、以下の2で見てみたいと思います。


『GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語 2 〜非日常から日常へ次世代の物語である『バーサスアンダースロー』へ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130104/p1