White Collars Turn
Blue
ポール・クルーグマン
山形浩生訳
読者への註。この文は、ニューヨークタイムズ誌の100周年記念特別号のために書かれた。このとき与えられた指示というのは、これがいまからさらに100年後の記念号用の文だと思って、それまでの過去1世紀をふりかえって書いてくれ、というものだった。
過去をふりかえるときには、いろんなことを大目に見るよう心がけないとね。20世紀末の観察者が、来る世紀についてすべてを予言できなかったといって責めるのは、不公平ってもんだ。長期的な社会予測は、今日でもまだ厳密な科学とはいいがたいし、1996年には現代の非線形ソシオエコノミクス創始者たちは、まだ名もない大学院生にすぎなかった。それでもその当時ですら、経済的な変化を駆動する大きな力が一方ではデジタル技術の絶え間ない進歩で、一方ではそれまでの後進国へ経済発展の波及だ、ということがわかっていた人はたくさんいた。その意味では、派手なびっくり箱は何もなかった。わからないのは、なぜ当時のヒョーロンカたちがこうした変化のもたらす帰結を完全に読みちがえたのか、ということだ。
世紀末未来学者たちの、まちがった見通しを説明するのにいちばんいい表現は、かれらは例外なく「無原罪」経済の到来を期待してた、ということだろう。つまり、人々が物理的な世界とのどろどろした関与からほとんど洗い清められているような経済だね。みんなが主張していたのは、未来にやってくるのは「情報経済」なのだ、ということだった。これはおもに実体のない製品をつくり、高給仕事はコンピュータのスクリーン上でアイコンをつついてまわる「シンボル分析家(symbolic analysts)」にいき、それまで重要だった石油や土地みたいな資源のかわりに知識が富と力の主要な源になるだろう、という話。
でも 1996 年の時点ですら、こんなのがバカげているのは明らかだったはずだ。まず、情報経済がどうしたといくら騒いだところで、最終的には経済は、消費者にこたえなきゃならない――そして消費者は、情報なんかではなく、手でさわれる財を求めているんだ。特に、20 世紀終わりになってやっと多少の購買力を持ち始めてきた、第三世界の何十億もの世帯は、インターネットでこぎれいな画像なんか見たくなかった――すてきな家に住んで、車を運転して、肉を食べたいと思ったんだ。
第二に 20 世紀末の情報革命は――だれでもわかったはずなんだけれど――めざましい成功ではあったんだけれど、部分的なものでしかなかった。単純な情報処理は、だれも想像すらできなかったほど高速で安くなった。でも、一時は自信たっぷりだった人工知能の動きは、敗北につぐ敗北を喫した。この動きの創始者の一人マーヴィン・ミンスキーが絶望をこめて語ったように「人々が漠然と、常識と呼んでいるものは、実はわれわれが崇拝する高度技術のほとんどよりも複雑なのだ」。そして物理世界にとりくむには、常識が必要だ――だからこそ 21 世紀末の現在でも、ロボット水道修理工はいないんだ。
いちばんだいじないことは、「情報経済」の旗振り役たちは経済学の基礎を忘れてしまったらしいということ。なにかが豊富になったら、それは同時に安くなる。情報まみれの世界は、まさに情報そのものが非常にわずかな市場価値しかもたない世界なんだ。そして一般的にいって、ある経済がなにかを非常に上手に処理できるようになったら、その活動の重要性は上がるのではなく、下がる。20 世紀末のアメリカは、食料生産をものすごく高効率でこなせた。だからこそ、農民はほとんどいなかったんだ。21 世紀末のアメリカは、定型情報処理をものすごく高効率でこなせる。だからこそ、伝統的なホワイトカラー労働者はほとんど消滅してしまったんだ。
ではこうした観察を念頭に、1996 年の観察者たちが予期すべきだったのに見逃した、5つの経済大トレンドを挙げてみよう。
1990 年前半は、原材料価格が異様に低い時期だった。でも、なぜみんなそんな状況が続くと思ったのかは、理解に苦しむところだ。地球は、少数の孤立した声が訴え続けたように、有限なんだ。アジア人 20 億人が西欧なみの消費水準を望みだしたら、それが金属や化石燃料、そして食料でも、限られた供給にみんながいっせいに群がることになるのは避けられないことだった。
実際、1996 年の時点でさえ、警告信号はすこし出ていた。この年の春に、ガソリン価格が一時的に高騰した。これは異例に寒い冬と、中東の石油供給の計算をまちがえたせいだった。価格はすぐに落ち着いたけれど、この一事をもってしても、1990 年代半ばにはすでに、世界の工業国は 1970 年代初期と同様に、石油供給の混乱に対して弱くなってきていることははっきりしてるはずだった。が、この警告は無視された。
でもじきに、天然資源はどうでもよくなるどころか、これまでよりもっとだいじになってきたのは明らかだった。19 世紀の富は産業で築かれ、20世紀末にはテクノロジーで富が築かれた。でも今日のスーパーリッチは、一等地の地主や採掘権の持ち主であることのほうがずっと多い。
20 世紀の人たちは、なかなか奇妙な表現を使っていた――「空気のように無料」「金を湯水のように使う [1]」――まるで空気や水なんかの供給が無限だとでもいわんばかり。でも何十億人もの人が車を買えるだけのお金をもっていて、休暇もとれて、プラスチック包装の食料を買えるようなところでは、環境の限られた保持力こそが、おそらくは唯一最大の生活水準成約要因になってきたんだ。
1996 年には、環境の制約に対処する方法の一つが市場メカニズムの導入だってことははっきりしつつあった――つまりそうした制約を、一種の所有権に変換するわけだ。この方向の第一歩は、1990 年代初期にとられた。アメリカ政府が発電企業に対し、ある種の公害物質排出の権利を売買できるようにしたんだ。この考え方は 1995 年に拡張されて、政府は電磁スペクトル(訳注:周波数帯のことね)使用権を競売にかけるようになった。
今日ではもちろん、環境を悪化させるあらゆる活動には、かなり結構なお値段がつくようになってる。1995 年の時点でさえ、ふつうの家族がステーションワゴンをガロンあたり 1 ドルのガソリンで満タンにして、ヨセミテまで運転してたった5ドル払えば入園できたというのは、いまでは信じがたいことだ。いまならインフレ分をさしひいても、そんな活動は 15 倍はコストがかかるだろう。
環境制約を資産に転換したことで、予想しなかったような経済的な副作用が出てきた。人々がつくりだす公害や混雑について、各人にちゃんと支払わせようと政府が本腰を入れはじめると、環境ライセンスのコストが事業コストの大きな部分を占めるようになった。いまではライセンス料が GDP の 30% にもなっている。そしてこういうライセンス料が、政府の主要な歳入源となった。国の所得税は、だんだん削減されていって、やがて 2043 年には廃止されてしまった。
20 世紀後半には、伝統的な高密高層都市は、どうしようもない衰退の一途をたどっているように見えた。最新のテレコミュニケーションは、定型作業のオフィス労働者たちが物理的に近接していなくてもよくしてくれたので、ますます多くの企業がバックオフィス業務をロウアーマンハッタンなどの CBD (中心業務地区)から郊外のオフィスパークに移すようになった。やがて、それまでの都市は消滅するかのように思えた。変わって登場するのは、果てしない低層ビルのスプロールで、たまに 10 階建てのオフィスタワーがちょっと固まっているだけ。
でも、これは実は一時的な現象にすぎなかった。まず、ガソリン価格があがって、環境ライセンスのコストも生まれたために、一人一台の通勤パターンが現実的でなくなったんだ。今日では、交通のほとんどは乗り合い式のミニバンで占められていて、それが相互に通信しあうコンピュータ網で経路誘導されている。でも、この準マストラシステムは、 20 世紀の通勤者が想像したよりはうまく機能するけれど――そして 400 万人以上の運転手の雇用を生み出しているけれど―― 郊外のドア・ツー・ドアの移動は、いまでもふつうの通勤者や買い物客が、自分で車を運転できた時代に比べればずっと長くかかるようになっている。
さらに、郊外で一時的に栄えたような仕事――おもに、比較的定型化されたオフィス作業――はまさに、1990 年代半ば以来大量に削減されつつあったたぐいの仕事だったんだ。一部のホワイトカラー職業は、低賃金国に移転した。それ以外はコンピュータにとってかわられた。海外に輸出したり、機械で扱えなかったりする仕事は、ヒューマンタッチの必要な仕事だった――これにはフェイス・トゥ・フェイスのやりとりが必要で、あるいは物理的な材料に直接作業をする人々が、物理的に近いところで作業しなくてはならないような仕事だ。つまりこれは、高密の都心でいちばんうまくできる仕事で、そこで使われているのは、いまだにいちばん効率のいいマストラ・システムだ。すなわち、エレベータ。
ここでもまた、すでに兆候は見えていたね。1990 年代の頭には、華開くマルチメディア産業の中心になるのがどこかについて、いろいろな憶測がなされた。シリコンバレーだろうか? ロサンゼルスだろうか? 1996 年までに、答ははっきりしてた。勝ったのは……マンハッタンだった。都市の密度のおかげで、実は本質的で不可欠だった、近接したフェイス・トゥ・フェイスのやりとりがしやすかったからだ。今日ではもちろん、マンハッタンはペテルスブルグやバンガロールと同じくらいたくさんの 200 階建てビルを誇っている。
1990 年代にはほとんどだれもが、個人にとっても国家にとっても教育こそ経済的成功の鍵だと信じていた。例の「シンボル分析家」という高給職業につきたければ、大卒の学位、あるいは大学院の修士号や博士号さえ不可欠だった。
でも、シンボル分析は、コンピュータが非常に得意な分野だ。コンピュータが苦手なのはむしろ、現実世界のどろどろした部分だ。それに、シンボルはアスマラやラパスにすぐに送信できて、そこでボストンのほんの数分の一のコストで分析できちゃう。だから 21 世紀を下るにつれて、それまで学卒の学位が必要だった仕事はだんだん削減されて、残った仕事の多くは、世界文学を勉強していなくても、それなりに知的な人物であれば十分にこなせるものになった。
このトレンドは、1996 年にすら明らかだったはずだ。だって当時ですら、アメリカでいちばんの金持ちはビル・ゲイツだった。かれは大学のオチこぼれだった。どうやら世界最強の情報技術企業をつくるのには、正式な教育なんかあまりいらないらしい。
あるいは 1996 年にアメリカをおそった「ダウンサイジング」をめぐるパニックを見てみよう。経済学者たちがすぐに指摘したように、90 年代にアメリカ人たちが失業している率は、歴史的水準からみて特に高いわけじゃなかった。だったら、なぜダウンサイジングはいきなり取りざたされたんだろう。それは、大卒のホワイトカラー労働者が大量に首切りにあったのはそれが初めてだったからだ。それでも、熟練機械工などのブルーカラー労働者の需要は高かったんだよ。これは、高等教育保持者に対する給料プレミアムが上がり続ける時代は終わったというはっきりした信号だったはずだ。でも、なぜかだれもこれに気がつかなかった。
やがてもちろん、高等教育の見返りがじり貧になっていったせいで、教育産業そのものにも危機がおとずれた。学位に経済的な価値がほとんどないのに、なにが悲しくて学生は4年も大学にいき、さらに大学院で数年すごしたりするもんか。いまでは、職業訓練6ヶ月から12ヶ月しか必要としない仕事――準看護士、大工、家政業(かつては無給の扶養家族が行っていた家事のほとんどを置き換えた職業)など――は、修士号取得者と同じくらい稼げるし、まして博士号取得者などよりずっと高給だ。だから大学への進学率は、世紀の変わり目をピークに、いまではもう 1/3 になってしまった。
多くの高等教育機関は、この厳しい環境下では生き残れなかった。有名な大学のほとんどはなんとか生き延びたけれど、でもその性格は変わり、昔の役割に復帰することになった。いまではハーバード大学のようなところは、19 世紀と同じで、学術研究の場というよりは社交の場となっている――裕福な家庭の子女が社会的な立ち居振る舞いを洗練させ、同じ階級の人々と親交を深める場だ。
今世紀の大トレンドの最後のおのは、1996 年の鋭い観察者にはすでに認識されていたけれど、多くのひとはなぜかそれを十分に理解できなかった。ビジネス評論家たちは、機械的な生産に対する創造力と技術革新の優位を説いていたけれど、実は情報の送信・複製がますます簡単になったので、クリエーターたちは自分の創造物から利益を得るのがどんどん難しくなっていったんだ。
今日では、見事なソフトを開発すれば、明日にはみんなネット上から無料でそれをダウンロードしてるだろう
[2] 。すばらしいコンサートをレコーディングすれば、来週には上海で海賊 CD が売られる。見事な映画をつくったら、来月にはメヒコシティで高画質ビデオが出回ることになる。
だったら、創造力をどうやって稼ぎに結びつけようか。こたえはすでに 1 世紀前からはっきりしつつあった。創造物は間接的にお金を稼ぐことになる。別のものの売り上げを推進することで。ちょうど自動車会社がグランプリ・レーサーにお金を出して、自分たちの車のイメージを高めたように、今日のコンピュータ企業は、先端ソフトデザイナーに金を出して、自分たちのハードウェアのブランド認知度を高めようとしている
[3] 。
同じことが個人についても言える。「4 人のソプラノ」たちがレコーディングで稼ぐ印税収入は、びっくりするほど少ない。レコーディングはおもに、アリーナ・コンサートの広告としての役割を果たしているんだ。ファンたちがこういうコンサートにいくのは、彼女たちの音楽を楽しむためじゃない(それなら家のステレオで聴くほうがずっといい)。アイドルたちの実物を見る体験のためにいくんだ。技術予測家エスター・ダイソンは、1996 年にずばり言い当ててる。「人は無料のコンテンツで自分の名声を確立する。そのあとで、出かけていってそれの乳を絞りとる」。一言で、知識経済になるかわりに、ぼくたちは有名人経済となったんだ。
幸運なことに、知識そのものから直接利益を得ることを不可能にしたその同じ技術が、名声の機会を増やしてくれることにもなった。500 チャンネルの世界には多数のサブカルチャーがあって、それぞれが自前の文化ヒーローを持ってる。歌姫相手だけでなく、ジャーナリストや詩人、数学者、果ては経済学者なんかと、直接対面する興奮のために金を払おうという人はいる。アンディ・ウォーホールは、だれもが 15 分だけ有名になれる世界を予言したけれど、かれはまちがってた。名声を体験した人が驚くほどたくさんいるのは、別に名声の価値が下がったからではなくて、こんなすさまじく多様化した社会では、有名になる方法もたくさんあるからなんだ。
それでも、この有名人経済は一部の人にはつらいものだった――特に、ぼくたちみたいに学者的な性向をもった人には。一世紀前には、純粋な学者として生計をたてるのは十分可能だった。ぼくみたいな人間は大学教授としてそこそこの給料を稼ぎ、それを教科書の印税で補うえたはずだ。でも今日では、教師の職はなかなかないし、あってもどうせ雀の涙ほどの払いでしかない。それに、本を売って儲ける人間なんかだれもいない。
もし学者稼業に専念したいなら、いまではもう選択肢は 3 つしかない(機関化された学術研究の確立する以前の19世紀に存在したのと同じ選択肢だ)。チャールズ・ダーウィンのように、金持ちの家に生まれついて、遺産で喰っていくか、あるいは進化論の共同発見者でちょっと運の悪かったアルフレッド・ウォレスのように、別の仕事で糊口をしのぎ、純粋研究は趣味にするか。あるいは多くの 19 世紀科学者のように、講演巡業をすることで、学者としての名声をタネに稼ぐかだ。
でも名声は、これまでのどの時代よりも手に入りやすいとはいえ、まだそうそう簡単には手にはいらない。だからこそ、この記事を書くのはぼくにとってすばらしい機会なんだ。ぼくは別に、獣医病院で昼間働くのはかまわないんだけれど、でもずっとフルタイムの経済学者になりたいと思ってきた。こんな記事を書くことが、まさにその夢を実現するきっかけになってくれるかもしれないんだ。
ポール・クルーグマンはマサチューセッツ工科大学の(フルタイムの)経済学教授です。
[1] イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』というインチキ本を読んで、こういう表現は日本にしかないと思ってる人が多いのにはときどき驚くよね。
[2] フリーソフトのことなんか何も知らないくせに、その興隆をはからずも見通してる。ほんと、クルーグマンってこわいと思う。
[3] これは日本の CM ではすでに行われてるね。岩井俊二とか坂本龍一が出るのは、まさにこういうことだ。